クラシック音楽の楽しみ方

  第1回 音楽の楽しみのために
  第2回 譜面の話
  第3回 音楽と譜面の話
  第4回 J.S.Bach (その1) Bach作品番号, Kantaten
  第5回 J.S,Bach (その2) Die sechs Brandenburgischen Konzerte, Matthäuspassion
  第6回 J.S,Bach (その3) ロ短調ミサ曲(h-moll Messe), Collegium Musicum
  第7回 Vivaldiの「四季」
  第8回 管楽器の話
  第9回 弦楽器の話
  第10回 歌の話(その1)
  第11回 歌の話(その2)
  第12回 Beethovenの第九について
  第13回 ピアノの略歴
  第14回 コンサートマスタとコンサートピッチ
  第15回 音楽作品に付いている番号
  第16回 楽器の名前


クラシック音楽の楽しみ方  第15回

会員 高橋 善彦

今回は音楽作品に付いている番号についての話です。
皆さん、ご存じのシューベルトの「未完成」交響曲は、現在、交響曲第7番と番号が付いています。 第8番じゃなかった?と思われる方もいらっしゃると思います。 かつて第8番と番号が付いていました。もう一つ有名なドヴォルザークの交響曲「新世界より」は、 現在、交響曲第9番ですが、かつて第5番とされていました。


この写真は、1961年3月に録音された、この曲の名盤のLP ジャケットです。第5番となっています。

この様なことは様々な事情で起きます。例えば、新しく作品が見つかった、 作品の作曲年を推定する資料が新しく見つかった等は代表的な事情です。

左の下、未完成交響曲のシューベルト自身による手書きスコアの表紙には、 Sinfonia in H moll von Franz Schubertと書いているだけです。番号は書かれていません。

作曲家によりますが、交響曲などの作品に番号を付けていない例は多くあります。 このように番号が付いていない曲に、 曲の調性(未完成交響曲の例では、ロ短調(h-Moll))を呼び名に付けています。 しかし、同じ調性の作品も出て来ますので、この呼び名だけでは作品を特定できません。

一般的には、音楽学者が作品の作曲時期などを周囲の文書などから調査し、 作品の目録、作品全集を整備します。その上で番号を決め、作品を特定できるようにします。

シューベルトの作品目録は、オーストリア出身の音楽学者 Otto Erich Deutsch が1951年に整備しています。 この目録で付けられた番号を、ドイッチュ番号とかD番号と呼びます。 そして、現在、シューベルトの未完成交響曲は、D番号を付け次のように記述して作品を特定しています。

    交響曲第7番『未完成交響曲』ロ短調 D759

このD番号は、ドイッチュの死後、ドイツの音楽学者達が引き継ぎ、 1978年に国際シューベルト協会が、改訂版を作っています。 この時に、交響曲の番号が8番から7番に変わっています。

シューベルトの交響曲には、数曲の未完成の作品があります。未完の交響曲の一つに ホ長調 D729があります。 第4楽章がオーケストラ編成になっていません。ピアノ版のスケッチは出来上がり、そして、楽譜の最後にはFine と書かれています。 シューベルトの死後、研究家が補筆し、全曲を演奏できる状態になっていたため、1951年のドイチュ目録では作曲年代順に、 このホ長調の交響曲 D729を第7番とし、『未完成交響曲』D759を第8番としています。 しかし、1978年、ドイチュ目録を改訂する際に、補筆のあるホ長調の交響曲 D729を外し、 未完成でも広く知られていた『未完成交響曲』D759を第7番としています。

ドヴォルザークの交響曲「新世界より」の番号が変更された経緯は、もう少し単純な事情です。 かつて、交響曲第5番「新世界より」とされていたのは、 作曲の順番ではなく出版された順番です。 その後、1951年からチェコで始まったドヴォルザーク全集の出版に際して、 譜面の内容、作曲年代を見直し、作曲順に番号を整理し、現在の第9番となっています。 それまで出版されていなかった4曲の交響曲、現在の第1番から第4番の交響曲も1961年までに出版されています。

ドヴォルザークの作品の作曲年代について紛らわしいことが多い為、 チェコの音楽学者のブルクハウザー(Jarmil Michael Burghauser, 1921-1997)が作品リストを整備し、 その番号、ブルクハウザー番号 (B番号)を使っています。

    交響曲第9番『新世界より』ホ短調 op.95, B178

この2つの名曲の例のように、作品に付けられた標題や愛称も、作品の特定に有効ですが、 全てに付いている訳ではありませんので、やはり、作品の特定には、作品目録番号が有効です。

作品目録番号
この様に作品を特定するための、D番号、B番号に相当する番号(目録番号)は、 多くの作曲家の作品にも使われています。 目録には、作曲年代の順番に分類したものと、作曲年の特定は難しいとして音楽の分野に分類した作品目録があります。 代表的な番号を紹介します。

BWV Bach Werke Verzeichnis バッハ作品目録番号
ドイツの音楽学者シュミーダ (Wolfgang Schmieder, 1901-1990)が編纂した、 バッハの作品目録に使われている番号です。BWVは作曲年代順ではなく、音楽の分野に分類して並んでいます。 例えば、1〜231はカンタータ、モテット、1041〜1065は協奏曲と音楽の分野ごとに並んでいます。 カンタータの中の順番には意味がありませんが、音楽の分野は細分化しています。 1から200が教会カンタータ、201から231は世俗カンタータとなっています。

音楽の分野別に作品を分類している目録の例
ハイドン (Franz Joseph Haydn, 1732-1809)
 ホーボーケン番号 (Hob.):オランダのホーボーケン(Anthony van Hoboken, 1887-1983)が編纂
ヘンデル (Georg Friedrich Handel, 1685-1759)
 HWV:独のベルント・バーゼルト(Bernd Baselt, 1934-1993)が編纂
テレマン (Georg Philipp Telemann, 1681-1767)
 TWV:独のマルティン・ルンケ(Martin Ruhnke, 1921-2004) による編纂
ヴィヴァルディ (Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741)
 リオム番号 (RV.):デンマークのペーター・リオム(Peter Ryom, 1937-)による編纂

年代順に整理している目録の例
モーツァルト(Wolfgang A, Mozart, 1756-1791)
 ケッヘル番号(K. KV.):オーストリアのケッヘル(Ludwig von Köchel, 1800-1877)による目録
ケッヘルは年代順に作品を並べています。研究が進み見直され、作品が新しく発見されて、 第8版まで改訂しています。一般には、既に初版の番号が浸透していますので、例えば、

    交響曲第25番ト短調 KV.183 (KV.173dB)

のように、初版の番号(改訂版の番号)を併記します。

シュッツ (Heinrich Schütz, 1585-1672)
 SWV:独のビッティンガー (Werner Bittinger)が、約500曲の作品を1960年にほぼ年代順に整理しています。

作品番号 (Opus番号)について
op.10などと記入する作品番号(op番号)は、誤解されている事が多いのですが、 基本的に出版の順番です。出版する場合、複数の曲を1冊にまとめた曲集の場合が多くあります。 例えば、ショパンの「黒鍵の練習曲」はop.10-5です。これはOpus 10の曲集の5番目の曲を指します。 ショパンのように人気があり、出版も多い作曲家の場合、比較的多くの作品を特定できます。
それでも、ショパンの作品にもop.番号の付いていない作品は多く、作品を分類するために使われている番号が2種類あります。
 KK番号:ポーランドのクリスティナ・コビランスカ(Krystyna Kobylańska, 1925-2009)の編纂
 BI番号:モーリス・ブラウン (Maurice Brown*)の編纂
が使われています。
 *Maurice J.E.(John Edwin) Brown(1906-1975) :
 Schubertの作品の研究等、英国London出身の音楽学者

ヴィヴァルディの作品の場合は、やや極端です。 ヴィヴァルディの協奏曲やソナタのいくつかは存命中に出版されています。 出版された曲集は全部で13冊の曲集(op.1〜12とop.番号無しが1冊)です。

現在、ヴィヴァルディの作品とされている曲は800を超えています。 RV.番号は2007年版で812まであります。 これに比べて、op.番号の付いた曲集は13冊、うち7冊の曲集には12曲を、6冊には6曲を掲載していますので計120曲、 全作品の6分の1程度に留まります。

ヴィヴァルディの作品の特定にはRV.番号を使います。 例えば、1724年頃に出版された12の協奏曲集『和声と創意への試み』は op.8です。 この曲集には、有名な「四季」が含まれ、曲集の第1曲目が"春"です。
    協奏曲 第1番 ホ長調 op.8-1, RV.269 "春"
となります。ヴィヴァルディほどの人気者の作品がこれほど出版が少ないのは、 VeneziaのPieta 慈善院に籍を置きながら多くの街で、 作曲家、Violin名手として活躍し多忙であったこと、出版による収入に興味が無かった事が、理由ではないかと思います。

どうぞ、音楽を探す時などに、参考としてください


クラシック音楽の楽しみ方  第14回

会員 高橋 善彦


今回はオーケストラの事情についての話(その1)です。 演奏会を見ていると、拍手に迎えられて指揮者が登場し、指揮台に上がる前に、 Violinの一番前に座っているコンサート・マスタと握手して、それから指揮台に上がります。

コンサートマスタ
(Concert master, Konzertmeister)

殆どのオーケストラで、第1ヴァイオリンの一番前に座っている方が、コンサートマスタです。 女性の場合はコンサートミストレスと呼んでいた時期もありましたが、 今はコンサートマスタと呼ぶようになりました。

音楽は指揮者が先導します。指揮者は楽員とコミュニケーションを取りながら音楽を作り上げて行きます。 指揮者と楽員は互いの信頼に基づいて、演奏しています。限られた練習時間の中で、 音楽を作り上げる為には、オーケストラ側に指揮者を支える人が必要です。 この支える人の代表的存在がコンサートマスタです。 コンサートマスタは、第1ヴァイオリンの責任者であると同時に、弦楽器全体の責任者であり、 オーケストラ全体の責任者です。

例えば、指揮者が棒を振り下ろした時、 実際の音の動き出しを決めているのはコンサートマスタであると言って良い場面は多く有ります。 指揮者の指揮棒と呼吸を読んで、音の出足、音の切れ目を決めています。 ゆっくりした静かな音楽では、この傾向は顕著になります。

各弦楽器のセクションの一番前に座っている、各弦楽器の責任者、 各管楽器、打楽器の奏者は、指揮者と同時にコンサートマスタの弓の動き、動作、息遣いに注目しています。 これで、オーケストラ全体の音が揃います。

ここでは、解りやすく責任者という言葉を使いましたが、 オーケストラではトップ(Top)という呼び方を使います。 第1、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの第1列(第1プルト(Plut, 譜面台の意味))の客席側に座っている人が 各弦楽器セクションのトップ、隣に座っている人をトップサイド(Top side)と呼びます。

弦楽器の各セクションは複数の人が同じ譜面を演奏していますので、各演奏者は指揮者とトップに従い、 各トップは指揮者とコンサートマスタに従い、支えることで、オーケストラの弦楽器群の音楽を作ります。 コンサートマスタと各トップが、オーケストラ音楽の屋台骨となる弦楽器の音楽を指揮者に沿って支える「要」となっています。

演奏の実際面、例えば弓の使い方(bowing)はコンサートマスタと各トップが用意します。 指揮者は音楽の特定の箇所の弓使いについて要求する場合もありますが、その箇所以外はオーケストラ側が決めています。

管楽器、打楽器奏者も同様に、指揮者とコンサートマスタに注目して演奏しています。 オーケストラの席の配置も、この事を意識してコンマスが見えるかどうか確かめています。 このことが演奏以上にハッキリ解るのが、演奏が終わった後、拍手に応えて、指揮者がオーケストラを立たせようとした時、 コンサートマスタの動作にオーケストラ全体が従います。 時々、コンサートマスタが立たず、楽員も起立せずに、指揮者一人に拍手に応えるように促すのを目にします。



指揮者と練習を通じて、多くの言葉を交わすのは、おそらくコンサートマスタで、指揮者の意図を確かめ、楽員に伝えています。

演奏が終わって、指揮者がコンサートマスタ、各トップと握手、拍手を送っているのには、 このような背景があります。指揮者から見て、オーケストラは「自律」した信頼出来る存在であることが、 良い演奏をするためにも、また、指揮者が楽員と良好な関係を保つためにも必要です。 その代表がコンサートマスタで、補佐役がトップということになります。

コンサート・ピッチ (Concert pitch, Kammerton)

さて、演奏会が始まり、コンサートマスタが登場すると、オーケストラのチューニングがコンサートマスタの主導で始まります。 この時に鳴る音は A(ラ)の音で、コンサート・ピッチ(Concert pitch)と呼びます。 演奏会で各楽器がチューニングで使うAの音の高さという意味です。


A=442Hz

今は、442HzのAの音を標準のコンサート・ピッチとして使っていますが、これにも歴史があります。

19世紀になるまで、音の高さに標準を決めて使うという概念は存在していません。 音の高さはバラバラです。例えば、教会にあるオルガンや鍵盤楽器の音の高さは、 同じ街にあっても異なっています。同じ教会でもオルガンの音の高さは時間と共に、 パイプの修理などで変化して行きます。

楽器が発達しはじめると、明るい音色を求めて音の高さは上がって行く傾向が出て来ます。 17世紀の初めに、楽器の音が声楽の音と比べると高くなっていて、歌い手は歌えなくなったり、 リュートなどの弦楽器は弦の音をあわせることが出来ないという問題をMichael Praetorius が著書「音楽大全」の中に書いています。 声楽と器楽が演奏する教会での音楽に問題を抱えながら、現場の知恵で対処し何とか演奏するという期間は長く続きます。

18世紀のはじめ、1711年に音叉が登場して、音の高さを定めて行こうとなるのですが、 まだ、音叉の音の高さがバラバラな状況は続きます。例えば、1740年の日付のあるHandel周辺にあった音叉のAの音は 422.5Hz, 1780年の日付の付いた音叉はAが409Hz, 1800年頃のBeethovenの音叉はAが455Hzという状況です。

19世紀になって、ようやく標準の音の高さを決める動きが起きます。 1859年にフランスでAの音を435Hzと定め、標準化しようとします。 この標準の音の高さは、フランス・ピッチ等と呼ばれ欧州で普及しはじめます。 この後も、標準化への動きは様々起きますが、結局、1939年に開かれた国際会議で、多方面から考慮し、 Aの音の高さは440Hzを標準と決まります。

オーケストラでチューニングはOboeの音から始まります。 現在のオーボエ奏者は手元に電子チューナを置いて基準音を吹き始めます。 ピアノ協奏曲の演奏の様に調律が必要な楽器を使う場合には、その楽器から基準音をとります。 現在のピアノは、オーケストラと同じ基準音を使っています。

20世紀の中期から、また、基準音が上がる傾向が起きます。 以前の上昇傾向に比べればゆっくりした上昇で済んでいます。現在の主流はA=442Hzです。 ベルリン・フィルハーモニーでは443Hzを使っています。

また、現在のバロック音楽などの古楽演奏には、415Hzから418Hzを使うことが標準となっています。 これは、オーケストラで使っている基準音より、およそ半音低いことになります。 更に、最近は各時代の音楽を再現する目的で、 時代と地域から使われていた基準音を再現する試みも行われています。 例えば、Leipzig以前のBachのカンタータに使われていた、基準音はA=460〜470Hzで、 オーケストラの基準音より、約半音高くなります。

蛇足ですが、テレビやラジオの時報の音は440Hzが使われています。


電子チューナー


音叉

オーケストラのチューニングの基準音にOboeを使う理由には諸説あります。 音が良く聞こえる楽器、音を長く吹くのに適した楽器、 長さを調整できない楽器であるからという説が有力です。 Oboeは楽器に差すリードの抜き差しだけでチューニングします。
(Oboeには他の木管の様に、楽器本体の管の長さを変更できる仕組みがありません)

チューニングの進め方は各オーケストラで様々ですが、Oboeの基準音をコンサートマスタが取り、 このViolinの音を基準にして弦楽器がチューニングをはじめ、弦楽器が終わったら、 再度Oboeの基準音から各管楽器、 打楽器がチューニングをはじめるというオーケストラが多くなった様に感じています。 もちろん、各楽器一斉にというオーケストラも多くあります。

チューニング風景にはオーケストラの性格が反映されています。


クラシック音楽の楽しみ方  第13回

会員 高橋 善彦

今回はピアノについての話です。
ピアノは、弦を叩いて音を出し、鍵盤の弾き方で、強弱を区別出来ます。





Bartolomeo Cristofori di Francesco
1700年頃、フィレンツェのチェンバロ製作家、バルトロメオ・クリストフォリ(Bartolomeo Cristofori di Francesco, 1655 - 1731) が考案しています。 それまでのチェンバロは弦を鳥の羽で「はじく」仕組みで、鍵盤の弾き方で強弱を弾き分けることが出来ません。 クリストフォリの考案した楽器を "un cimbalo di cipresso di piano e forte, 優しく、また大きく鳴る鍵盤楽器" と呼んでいます。この呼び名から、pianoforte もしくはfortepianoと省略し、単にPianoと呼びます。

一般的にこの時代のピアノをFortepianoと呼び、現代のピアノをPianoforteもしくはPiano、Modern pianoと呼んで区別しています。

左の写真は1805年頃のワルターの楽器を復元したFortepianoです。この時期のFortepianoの収納箱は、 まだ、チェンバロと変わりません。音を出す仕組みにハンマーを採用し、強弱を付けることが出来ますが、音色はチェンバロに似ています。

SilbermannのFortepiano
ドイツ語圏では、1730年頃からクリストフォリの設計に基づき、 フライベルクのオルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマン (Gottfried Silbermann, 1683 - 1753)がfortepianoの製作を始めています。 J.S.Bachが、1736年と1747年にシルバーマンの楽器を評価しています。 この時期のハンマー機構を持つピアノはチェンバロに比べると複雑な構造で、 まだ、高価な楽器です。一般に普及していません。クリストフォリもジルバーマンも、 王室からの支援を受けて楽器の発展にあたっています。

ジルバーマンはダンパーペダルの原型を作っています。 ダンパーは、鍵盤から指を放した時に音が切れるように弦を押さえるものですが、 弦を押さえている全てのダンパーを持ち上げると、弦が自由に振動し音が伸びます。 ジルバーマンは、手で操作する「つまみ」を用意しています。 これが、後のMozartの時代、古典派の時代に、膝で操作するレバーとなり、やがてペダルで操作するようになります。

ジルバーマンの後を引き継ぎ、 ウィーンを中心にしてピアノ製作家はクリストフォリのハンマー機構を簡潔な構造に改良しています。 この改良で、楽器製作が容易になり、スクエア・ピアノに用いて普及します。


スクエアピアノ ポーランド、ビエルスコビャワ市博物館

Stein / Walter によるウィーン方式
ジルバーマンの弟子、アウクスブルクのヨハン・アンドレアス・シュタイン(Johann Andreas Stein, 1728 - 1792)は、 ハンマー機構を改良し軽くします。ウィーンで19世紀半ばまで広く用いられ、 ウィーン方式(Viennese action)と呼びます。 ウィーン方式は、奏者のタッチに敏感に反応し、奏者は微妙なタッチが要求されます。 ウィーンの製作家、アントン・ワルター(Anton Walter, 1752 - 1826)は、シュタインの方式を更に力強い音が出るように改良しています。 W.A.Mozartはワルターの友人で、ワルターのピアノを愛用しています。 今日、この時期のFortepianoを再製作する楽器は、シュタインとワルターの楽器をモデルとしています。 今でもウィーンの国立歌劇場(Wien Staatsoper)で、Mozartのオペラを上演する時に、Rectativoの伴奏では、 チェンバロのように聞こえる、Mozartの時代に使われていたFortepianoの音を聞くことが出来ます。

英国のZumpe
英国では、ドイツから移住したヨハン・クリストフ・ツンペ(Johann Christoph Zumpe, 1726 - 1790)が、 英国のチェンバロ製作者のバーカット・シュディ(Burkat Shudi, 1702 - 1773)の元で働いた後、 1760年代中期から多くの安価なスクエア・ピアノを製作しています。 J.S.Bachの末子、Johann Christian Bach(1735 - 1782)がこの楽器を愛用しています。

現代のピアノ(Modern Piano)への発展
1750年頃、産業革命で正確な鋳造が可能になり、ピアノに鉄製の枠(フレーム)や板(プレート)と、 高品質な弦を使うことが可能になります。 多くの音楽家からの要求に応え、音色と響きを改良し、音域と音量を拡げることが可能になります。

Shudi / Broadwood社による英国方式
ジョン・ブロードウッド(John Broadwood, 1732 - 1812)は、師匠のシュディと共に、ツンペ のハンマー機構を改良し、 英国方式 (English grand action)を作り上げます。ウィーン方式よりも強い響きを実現しています。 代わりに、鍵盤の深い押し込みが必要で、反応は遅くなります。

ジョン・ブロードウッドはシュディ親方の娘バーバラ(Barbara Shudi)と1769年に結婚し、シュディの工房を引き継ぎ、 Broadwood 社と改名します。1795年にJohn Broadwood & Sonに社名を変更し、ピアノの技術革新に大きく貢献し、今日まで続いています。

Mozart時代の5オクターヴを初めて越える音域のピアノを製作しています。 1790年代には5オクターヴと5度、1810年には6オクターヴの楽器を作っています。 音域を拡げ、音量を大きくするために、楽器は大型化します。 1818年、ウィーンのBeethovenに楽器を贈り、Beethovenも後期の作品で拡張した音域を活用し、この楽器を愛用しています。

ウィーンのStein / Streicher
ウィーンでは、シュタインの娘ナネット(Nannette Streicher 旧姓(Stein), 1769 - 1833)がピアノ事業を引き継ぎ、 夫のJohann Andreas Streicherと共に発展させています。 ナネットは、ピアノ事業の傍ら、晩年のBeethovenの世話をしています。 Beethovenの元にはStreicherのピアノも加わっています。

19世紀初期には、ウィーンのシュタインでも頑丈で音域の広い楽器を作るようになり、Johannes BrahmsもStreicherのピアノを愛用するようになります。

Conrad Graf による大量生産
また、ウィーンのピアノ製作者コンラート・グラフ (Conrad Graf, 1782 - 1851)は、 1826年までにピアノの製作を工房から大量生産化します。 生涯に3000台を越えるピアノを生産し、価格を下げ普及させています。 グラフは、Beethovenの最後のピアノを作り、Chopin, Mendelssohn, Schumann夫婦も使っています。


金属製のフレームとプレート

現代のピアノの音色は、鉄製のプレートで弦を張る力が合計20トンを越える強度によって実現されています。 1821年、Broadwood社の技術者サミュエル・ハーヴェ(Samuel Herve)が考案した、弦を支えるピンを打ち込む金属製のプレートの技術が基礎になっています。

また、弦を叩くハンマーは、革製からフェルト製に変わります。 1826年にフランスのプレイエル(Pleyel)工房のジャン=アンリ・パップ(Jean-Henri Pape, 1789 - 1875)が、音質、音量を改良するために考案します。 そして、ダンパーペダルが全体の弦に響き止め(ダンパー)を動作させるのに対し、 押している鍵盤の弦の響き止め「だけ」を動作させる、3本ペダル中央のソステヌート・ペダルは、 1844年にジャン・ルイ・ボワスロー(Jean-Louis Boisselot)が考案し、1874年にスタインウェイ(Steinway & Sons)社が改良しています。 この他にも、F.Lisztの要求に応える等、実に多くの改良を経て、現代のピアノに至っています。 また、今は普通になっている黒い塗装のピアノは日本から広まり、木目を選ばない為、楽器の価格を下げています。

現在、既にBeethoven, Schumann, Brahmsらの弾いていたピアノの音を再現する試みや、当時のピアノ音楽を見直す機会や音源も増えています。


クラシック音楽の楽しみ方  第12回

会員 高橋 善彦

今回はBeethovenの第九についての話です。

Ludwig van Beethoven (1770-1827)は生涯9曲の交響曲を完成しています。 どの交響曲も新しい音楽に挑み、どの交響曲にも明確な特徴があり、 同じような作品はありません。後進の音楽家から見れば、交響曲のお手本のような存在です。 影響力の大きさから、作曲家は交響曲を9曲までしか書けないという伝説が生まれ、 Mahlerは第九の伝説を恐れ、交響曲第8番の完成後、 次の交響曲を交響曲として認めず「大地の歌」と名づけたという逸話まで出来ます。 実際にそのようなことはありません。


Friedrich von Schillerの詩 An die Freude

1786年に発表されたSchillerの詩 An die Freude (歓喜に寄せて)に触発され、1792年頃 Beethovenはこの詩に音楽を付けることを考えたようです。 Beethovenは22歳、第1番交響曲を作曲する前の話です。 1798年以降のスケッチ帳に第九の断片が見られます。 1817年にLondonのPhilharmonic協会からの作曲委嘱をきっかけに 本格的に作曲を開始しています。

Schillerの詩が出てくるのは第4楽章ですが、第1楽章から第3楽章までも詩に発想を受け、神秘性に富んだ作品となっています。

第9番交響曲 in d-Moll(ニ短調), 作品125 の音楽的特徴
第1楽章 Allegro ma non troppo, un poco maestoso(速く、しかし速すぎず、やや威厳をもって)
冒頭16小節の間、この曲は何調なのか、短調なのか長調なのか定まりません。 Hornと弦楽器がラとミの音の5度音程だけを鳴らします。 和音の性格を決める、ラドミのドの音(第3音)が出てきません。不安定で不思議な感覚の音楽を作り、 この曲の主題旋律(第1主題)の登場を際立たせています。

第1楽章はソナタ形式で書かれています。 しかし、音楽の色彩を司る調性をどの様に変化(転調)させるかの方法は、 それまでの音楽には無く、後のロマン派の音楽で使われる方法を開拓しています。 鮮やかに、感動的に、それでも自然に音楽は表情を変えて行きます。 表情の豊かさが、繊細な音楽から強烈な力強さを持った音楽まで表現の幅を拡げています。

第1楽章の第1主題は19小節と他の交響曲と比べると例外的に長いです。


この譜面は、第1主題ですが、途中までです。 例えば、第5番交響曲では5小節、第6番、第7番、第8番ともに4小節です。 この主題が長いため、第9番交響曲の第1楽章は547小節と、 この大曲に相応しい大型の第1楽章となっています。比較してみると、 第5番交響曲の第1楽章は502小節、第6番は512小節、第7番で460小節です。

第2楽章 Molto vivace (より活き活きと) - Presto (速く)
速い3拍子の音楽で、Scherzo(スケルツォ)と呼ぶ楽章です。 それまでMenuetto(メヌエット)と呼ぶ、中庸な速度の3拍子の音楽に替えて、 BeethovenがScherzoを交響曲に採用しています。 Beethovenの第1番交響曲の第3楽章には、Menuettoと明記されていますが、実体はScherzoです。 唯一、第8番交響曲の第3楽章だけがMenuettoです。

Beethovenが交響曲にScherzoを取り入れたのは、他の楽章と比べて、 速い音楽を感じられる楽章を入れたかったからだと思います。 第8番の交響曲では第4楽章が充分に速さを感じられる楽章になっていますので、 第3楽章にScherzoは必要なく、Menuettoにしたと推察できます。

Beethovenが好んで採用したScherzo楽章には、第3番の交響曲以降、名作が多いのですが、 特に第9番交響曲のScherzoは傑出した秀作となっています。 第9番交響曲のScherzoは、octaveの跳躍から始まります。

このoctaveの跳躍motivを、魅力的な素材として、Scherzo音楽の面白さを充分に引き出しています。 各楽器を効果的に使い、上品で活き活きとした音楽に発展させて、見事にまとめています。 木管と強打のTimpaniのoctave Motiv の掛け合いも挑戦的です。

第3楽章 Adagio molto e cantabile(ゆっくり歌うように)
木管の短い序奏に続き、弦楽器が簡単な音型ですが、祈りを捧げているように神秘的で美しい旋律を第1主題としています。

これに Andante moderato (ゆっくり中庸に) で、優しく祈りを包み込む様な旋律(第2主題)が応えます。

この2つの主題が交互に現れ、第1主題を変奏していきます。この楽章のBeethovenの変奏は本当に美しい作品となっています。

第4楽章
最終楽章だけで演奏時間は約24分、古典派の交響曲1曲よりも長くなります。 Beethoven自身もこの曲を説明することが難しかったようです。 出版社への手紙の中で「この曲は大規模な曲で、歓喜の主題を変奏したCantataと呼ぶのが判りやすい」と言っています。

第4楽章は、激しい序奏で始まり、チェロとコントラバスによるRecitativo(叙唱)が始まり、 前の3つの楽章を回想します。Recitativoが「その歌ではなく」と否定し「歓喜の歌」を提示します。 まず、オーケストラが歓喜の歌を変奏して展開して行きます。
 序奏

 歓喜の主題

そして2回目の序奏があり、独唱バスのRecitativoで "O Freunde, nicht diese Tone!(友よこの旋律で無く)" と歌い始め、歓喜の歌が登場し、独唱、合唱、オーケストラが変奏して行きます。

途中で、チェロ、コントラバス、Bass tromboneに男声合唱が初めて登場する旋律で、
"Seid umschlungen, Millionen!(抱き合おう諸人よ!)"と歌い始めます。

           男声 Bass-trombone, Violoncello, Contrabasso

この旋律は確かに初めて登場する旋律ですが、直後に歓喜の歌と一緒に歌い、二重旋律となって融合します。 融合すると言うことは、音楽的に見て、歓喜の歌の派生形の旋律と言えます。 やや強引ですが、第4楽章は、全て"歓喜"の主題による16の変奏曲で、Schillerの歌詞に従ったCantataとして展開しています。 Beethovenの変奏の巧さを散りばめた作品となっています。

初演 1824年5月7日、Wien宮廷劇場のKärntnertor劇場にて荘厳ミサの一部とともに、 第九を初演しています。初演には、大規模なオーケストラが必要で、Wien楽友協会、 Kärntnertor劇場のオーケストラを合同で編成し、独唱は Sopranoに 若手の名歌手 Henriette Sontag, AltoにCaroline Unger, TenorにAnton Haizinger, Bassに Joseph Seipeltという熟練の歌手達を、 Beethoven自身が選んでいます。

           
     Henriette Sontag      Caroline Unger        Anton Haizinger
残念ながら、BassのJoseph Seipelt は確認出来ている肖像画がありません。


Kärntnertor劇場 (1830年頃)

初演は成功し、大喝采の中、その音に気がつかないBeethovenに、AltoのCarolineが客席の方に向かうよう促しています。
   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆
かつて神聖ローマ帝国の時代、ケルンテン(Kärnten)という公国があり、Wienの城壁にこの国への門(Tor)があり、 この門をKärntnertorと呼んでいました。
そこに建った劇場に、Kärntnertor劇場と名前が付いています。 この劇場の跡地に、現在はホテル・ザッハ−が建っています。


クラシック音楽の楽しみ方  第11回

会員 高橋 善彦

前回に引き続き歌の話(その2)です。

Girolamo Frescobaldiは、1608年からバチカンの聖Pietro大聖堂のOrganistを務めています。 Frescobaldiはフランス、オランダ、イタリアの伝統を、まだ開拓が進んでいない器楽曲に取り入れ発展させます。

     

特に鍵盤用の曲集は17世紀の音楽に影響を与えています。 歌詞を持たない器楽曲には、音の長さの目安が無いため、楽譜には音の長さを示す、 現在の記譜法に近い定量記譜法を採用し、Frescobaldiの曲集と共に普及しています。 後のJ.S.BachやHenry Purcellなど多くの作曲家が影響を受けています。

器楽曲が充実することで、声楽曲の表現力は広がります。17世紀のイタリアの作曲家、 Giacomo Carissimi はOratorio(演技、大道具、衣装の無い宗教的Opera)を開拓し、 Operaを含めた声楽曲の器楽伴奏に多様な音楽を与えています。 Arcangelo Corelli, Giuseppe Torelli, Antonio Vivaldi, Francesco Manfrediniらは 多くの協奏曲を含む器楽曲の名作を残しています。 そして、VivaldiとManfrediniの教会音楽OratorioやOperaの充実した作品を残しています。

ナポリ楽派
17〜18世紀に Napoli を中心にして、Operaの形式を整えた楽派です。 Alessandro Scarlatti, Pergolesi, Domenico Scarlatti, Domenico Cimarosaらが時代の音楽を牽引しています。 大都市Napoliでは、1700年頃から歌劇場が次々に建設されています。ナポリ派は、Recitativoで物語を進め、 Da capo Ariaで登場人物の感情を表現し、序曲に急-緩-急のSinfoniaを使うイタリアOpera SeriaとBuffaの様式を確定しています。 また、当時のカストラート(Castrato)のほとんどは Napoli で訓練を受けています。

Castrato
「教会内で女性は沈黙を守るべし」とされたため、 教会音楽や教会での演劇を女声で歌うことが許されなかった為、 1550年頃のローマから歌の才能を持った去勢した男性がCastratoとして活動しはじめます。 1650年頃からOperaにも進出します。1878年になって、ローマ教皇Leo 13世が人道的見地からCastratoを禁止し、 教会の中でSopranoは少年に戻っています。 Opera劇場でもCastratoが歌う理由は、息の長さ、音域の広さ、音色の魅力からです。 HandelのOmbra mai fu やMozartのExsultate, Jubilate 等の名曲も残っています。

Da capo Ariaと即興変奏
Da capo Ariaは名前の通り、Da capo (曲の冒頭に戻る) 構造で作られたアリアです。 音楽[A]が出て、雰囲気の違う音楽[B]が出て、再び最初の音楽[A]を演奏して終わる3部形式です。

この繰り返し演奏する2回目の音楽[A]で、歌手は1回目から変化、即興で装飾し変奏して歌います。 独唱歌手の声質、技量を示す絶好の機会として発展します。

北ドイツへの波及-1 17世紀前半
Venezia楽派創立のAdrian Willaertよりフランドル楽派で1世代後輩で末期のJan P.SweelinckはAmsterdamで、 北ドイツOrgan楽派の音楽家Samuel Scheidt達多くの作曲家を指導しています。

ドイツ音楽の父 Heinrich Schutzは、Hessen-Kassel方伯Moritz公に才能を見出され支援を得て、 24歳の時1609年から4年間、Veneziaの聖Marco大聖堂のGiovanni Gabrieliに師事します。 SchutzはMadrigal集第1集を完成し、Gabrieliの臨終に立ち会い帰国します。

Dresden宮廷の楽長のMichael Praetoriusは、ルター派独特のコラール音楽を多彩なものに発展させます。 PraetoriusはVeneziaの音楽を熟知し、Dresden宮廷で複合唱様式によるイタリア音楽を演奏し、 教会協奏曲の様式を整えます。Praetoriusと共にDresden宮廷に関わっていたSchutzは、Praetorius が亡くなった1621年以降、 楽長を勤めます。1620年代後半、30年戦争の悪化によりDresdenでの音楽活動を中断し、 1628年に再びVeneziaのMonteverdiに1年以上師事します。帰国後のSchutzは多くのイタリア様式の曲集を出版しています。

フランス Opera
フランスでは17世紀前半まで宮廷バレエや宮廷歌曲(Lute伴奏の世俗歌曲)など独自の音楽文化がありました。

Firenze出身のJean-Baptiste Lullyは、Louis 14世に気に入られ国王付き器楽曲作曲家、踊り手として王に仕えます。 1660年、Louis 14世の結婚の祝祭にイタリアからFrancesco Cavalliが訪れ、Operaを作曲上演します。 これに刺激を受けたLouis 14世はLullyに、フランス独自のOperaを作るように求め、任せます。

     

Lullyは、音楽悲劇というフランスOperaのわかりやすい形式を確立します。 フランス風のRécitatif:主人公がAriaで心情を表現し、 続くRecitativoに短いAriaを織り交ぜながら物語を進めます。 フランス語の独特な抑揚に合わせ、短いAriaを挟み心情を繊細に表現します。 AriaはイタリアOperaとは異なり、Da capo Ariaは使いません。 各幕はdivertissement (フランス語のdiversion (娯楽)からの言葉で音楽の"Divertiment"と同意)で終わります。 これがフランスBaroque Operaの特徴です。 舞踏を好む聴衆のために、大規模な合唱や舞踏を盛り込みます。 フランスの聴衆は他の欧州で人気のCastratoを好まず、カウンターテナーが歌います。

興味深いことに、当時のイタリアOperaは、LullyのOperaの展開に注目し、 多様な声楽を見習い取り入れ以降のOperaの声楽構成が変化しています。 ドイツの各地の宮廷がLullyの音楽、フランス音楽を輸入し、その後の作曲家に影響を与えています。 Operaや教会音楽で使われる声楽曲は、Soloだけでなく、Duo, Trio, Quartettoなどの重唱と合唱が多様な声楽様式に発展します。 一方、フランスのOperaはイタリア風とLullyのフランス風の両方を発展させ多様化していきます。 そして、Lullyから約50年後、Jean-Philippe RameauがフランスのOperaに斬新な風を吹き込みます。

北ドイツOrgan楽派-2 17世紀後半
Dieterich BuxtehudeはDenmark(現在はSweden)のHelsingborg出身で、Helsingborg, HelsingorとLübeckの教会でOrganistを務め、 Pedal使いに特徴のあるOrgan曲、器楽曲の他に135曲の声楽曲を残しています。 教会用のCantata, Oratorioなど声楽曲をテキストの内容に沿って、イタリアのConcertato様式や、 装飾を持ったChorale様式など、音楽の様式を切り替えています。

北の街、Schwabstedt出身のNicolaus Bruhnsも、32年の短い生涯の中で、4つのOrgan曲の他に12曲の教会Cantataを、多様な様式で残しています。

ドイツへの波及 17世紀〜18世紀
ドイツの音楽は、16世紀までのMinnesängerからMeistersinger芸術の伝統があります。 中南部ドイツのFroberger, Georg Muffat, Johann Pachelbel等の作曲家は国際派で、 旅をしてイタリアやフランスの音楽の様式を取り入れています。 18世紀のTelemann, J.S.Bach, Handelの時期も、ほぼ例外なく、イタリアのFrescobaldiやフランスのLullyの音楽を学んでいます。

Telemannは1,750曲の教会Cantata, 6曲のミサ曲, 23曲の詩篇, 40曲以上の受難曲, 6曲のOratorioとMotet、 散逸していますが約50曲のOperaを残しています。 この宗教曲の多さはTelemannがHamburgにある5つのルター派教会のKantor「も」兼任していた忙しさを現しています。 J.S.Bachは200曲の教会Cantata, 24曲の世俗Cantata, 14曲のミサ曲, 3曲の受難曲, 9曲のOratorioとMotetと6曲の歌曲を残しています。 BachがLeipzigで兼任していた教会は3つです。それでも曲数は多いです。 Händel は101曲のCantata, 28曲のOratorio, 42曲のOpera, 100曲を越える歌曲を残しています。英国が中心ですが多作です。

多数の作品に加え、Telemannは音楽理論書を残し、J.S.Bachは晩期に集大成的な作品を残し、 譜面の力を借りて18世紀のGluck, Mozartらに確実に引き継ぎがれます。 そして、欧州各国間で声楽の名作は盛んに交流します。

Giuseppe Verdiはイタリアの伝統を引き継ぎ、敬愛していたRossiniの影響を受けています。 台詞を重視したOperaを目指し、名作を多く残しています。 明確な方向性に従い、舞踏を入れたがるParisを敬遠し、ドイツ音楽をライバル視していたようです。 が、同じ歳のR.Wagnerの訃報を受け、同じ時代に音楽を開拓した同志が居なくなったことを心から悲しんだそうです。

★Operaや教会音楽の詳細な話は、機会を改めて!


クラシック音楽の楽しみ方  第10回

会員 高橋 善彦

今回は、歌の話(その1)です。古代ギリシアの時代から長い期間、歌が音楽を牽引しています。
全貌を取り上げることは無理ですので、西洋音楽の起点の一つとなるグレゴリオ聖歌から、 声楽曲の発展の概要です。

グレゴリオ聖歌 (Canto gregoriano)
ローマ・カソリック教会(Ecclesia Catholica)で典礼に使うLatin語の単旋律聖歌です。 主要部分はフランク王国のCaroling朝、カール大帝の時代の768年頃に ローマとガリア(イタリア半島北部)で使われていた聖歌を統合し 比較的短い期間でまとめられます。 その後、9世紀から10世紀にかけて改変を経て整備されていきます。 この聖歌には、既存の地域の旋律も多く取り込んでいます。 11世紀、イタリアToscana州の街Arezzoの修道士Guido d‘Arezzo が考案した、4本線を用いた記譜を使い始めます。


この記譜をSquare記譜Neumeと呼びます。多くの曲を区別できる記譜法になります。 Liber Usualis として出版されてるグレゴリオ聖歌集は1900頁を越えています。 影響力の強い聖歌集に4本線の記譜法が使われることで普及し、複数の音を同時に鳴らす、 複旋律の音楽を記述し、残しやすくなり複旋律音楽の発展を促します。

音楽の構造を指す言葉の整理
     Monophony
     Heterophony
     Polyphony
     Homophony


単旋律の音楽 例) グレゴリオ聖歌
Monophony音楽に複旋律が混在する
複数の声部から作られる音楽 例) Fuge
旋律に和音が付く音楽 例)Vivaldi 四季

Polyphony音楽
中世の音楽 (500年から1400年の間)は、宗教曲と世俗曲ともに発展します。 声楽はグレゴリオ聖歌や合唱曲、器楽は歌の伴奏を典型として発展します。 中世を通じ西洋音楽で共通となる譜面、音楽理論の基礎が作られ、羊皮紙等に書かれた音楽とともに広く普及するようになります。

1240年頃に英国で歌われていた、Sumer is icumen in (夏は来りぬ)は、 現存する最古の輪唱(Canon)、Polyphony音楽です。 英国の歌には、世俗曲、宗教曲ともに、ケルトの影響が色濃く残っています。

吟遊詩人
記録も音楽も多くは残っていないのですが、 中世の歌曲を発展させたのは各地で活動していた吟遊詩人達です。 10〜13世紀中期に欧州各地で活動した聖職者の遊歴詩人Goliards、 12〜14世紀にフランスの南部で活動した貴族の吟遊詩人Troubadours、 北部で活動したTrouvéres、更に広がり、 ドイツで活動した貴族階級の吟遊詩人のMinnesängerと、 一連の流れの中で歌曲を発展させています。 愛を語る世俗歌曲が中心ですが、礼拝音楽も残し、後に各都市で発展する歌曲芸術、Meistersingerに強い影響を与えています。


フランス Ars antiquaとArs nova 音楽理論の確立
Notre Dame楽派は1170年〜1310年頃、Notre Dame大聖堂を中心に活動し、その音楽様式をArs antiquaと呼びます。 Notre Dame楽派はPolyphony音楽を発展させ、リズムの記譜方法を加え、教会の礼拝用の音楽を整え、多声部のMotetを開発しています。 14世紀のフランスArs novaの時代になると、 宗教音楽のPolyphony音楽は成熟し世俗音楽にも使われます。ミサ曲の演奏形態を確立し、音楽の記述(記譜)など音楽理論を確立しています。

イタリア Trecento 新しい歌曲の開発
Ars novaの影響を受け、14世紀のイタリアのFirenze, Milano, Padova, Bolognaなどの街で、 叙事詩的で旋律的なイタリア音楽の原型となるMadrigal, Cacciaなど新しい歌曲が生まれます。

イタリア Madrigale / Madrigal
イタリアのMadrigalは、中世末期から Renaissance (15〜16世紀), Baroque初期まで作られた重要な音楽です。 イタリアRenaissance初期、Trecento(14世紀)の時期、 Madrigalは変化し多彩な歌曲が生まれます。 無伴奏Polyphony音楽のMadrigalや、3〜6声部の曲が多数派です。 歌詞によって同じ音楽を繰り返し使う様式でなく、各歌詞の行にある言葉に合わせて音楽を用意します。

フランドル楽派の初期 英国からの影響
中世後期からRenaissanceへの過渡期、百年戦争休戦中の1410年頃、 英国のJohn Dunstapleがフランドル楽派初期の作曲家Guillaume Dufayに英国の地域の即興技法“Faburden”として 3度音程(ドとミの関係)の使い方を伝えます。これが西洋音楽の和音の起点で、欧州の音楽が大きく変わります。

1520年代にフランドル楽派は、イタリアやフランスで人気のあったフロットーラ、 シャンソン、Motet等の曲を元に、新しい様式の音楽を作り始め、欧州各地に出向いて広めています。

16世紀後半になるとイタリアで、Madrigalは発展し、教会向けのMadrigalにも派生し、 英国やドイツにも広がります。英国でのMadrigalは簡単な形、繰り返しを持つ音楽を使いWilliam Byrd, Thomas Morley, Michael Eastらの英国Madrigal楽派となります。 フランドル楽派末期のNetherlandの作曲家、Adrian WillaertはVeneziaに移り、Venezia楽派を創立します。

Venezia楽派 Gabrieli, MonteverdiとConcertato Madrigal
音楽がRenaissanceからBaroqueに変化する中で、 イタリアVenezia楽派のMonteverdiは、9冊のMadrigal曲集を出版し、 第5巻あたりから新しい様式の音楽に変化しています。この新しい様式をConcertato Madrigalと呼びます。

         

Concertatoは、通奏低音*の上に、2つ以上のグループが対比しながら音楽を進める形式で、 Veneziaの聖Marco大聖堂の広さから生まれた音楽の様式です。 大聖堂の長い残響と反響の遅れにより、大聖堂の左右に配置した聖歌隊や 合奏団が同時に演奏することは困難です。 この空間の広さを活かし、左右の対比が効果的に聞こえるような音楽の構造をGiovanni Gabrieliらが作り上げます。 聖Marco大聖堂の合唱や器楽の使い方をCappella Marciana(聖Marco大聖堂様式)と呼び、 cori spezzati (分離合唱)の配置が生まれます。 G.GabrieliとMonteverdiの弟子であったHeinrich Schutzによってドイツに伝わり、Mehrchorigkeit (複数合唱)となります。

Concertato様式の2つのグループは、合唱を分離するだけでなく、 イタリア様式の協奏曲に使う独奏楽器群と伴奏楽器群や、声楽曲の独唱と合唱にも応用し、 単純な交唱ではなく対比や競合の面白さを備えた音楽に発展します。

*通奏低音 (Basso continuo) 伴奏に使う低音楽器(群)を指す呼び名です。
楽譜には低音部の音だけを記譜し、奏者が解釈しながら和音を付けて演奏します。
曲の時代や性格により Violoncello, Contrabasso, Fagotto, Cembalo, Organo, Theorbo, Luteなどから、 楽器を選択して使います。

FirenzeのCamerata de‘ Bardi  16世紀後半
Camerata de‘ Bardi : Firenzeの人文主義者や音楽家、詩人等の知識人が、Giovanni de’ Bardi伯爵の邸宅に集まり 結成した音楽サークルです。1597年頃イタリアの作曲家で歌手のJacopo PeriCamerataの為に、ギリシャ神話の精霊 "Dafne"、最初のOperaを作っています。

Renaissance音楽では、3声部以上の声楽が主流ですが、 このOperaでは登場人物が独唱します。これを Monodia形式と呼びます。 Camerataの一員、Giulio Cacciniは、1601年に “新音楽(Le nuove musiche)”という作品の中で、 歌手と伴奏用の低音パートだけの2声部の音楽を作っています。これが、Recitativoと通奏低音の原型となります。

Opera
今でも上演されるOperaは、1607年にMantovaで初演されたMonteverdiの"L'Orfeo"が最古のOperaです。 また、この曲の中に初めてDa capo Ariaが登場し、以降、多くの声楽曲などで使われるようになります。

ギリシャ悲劇を復興しようとして発展したOperaはOpera seria (正歌劇)と呼びます。 Seriaで扱うのは悲劇だけに限っていません。ハッピーエンドもあります。

これに対して、Opera buffa (喜歌劇)は世俗的な内容を取り上げます。 元々Seriaの幕間劇として演じられたコメディから独立しています。 現存している初期の幕間劇は、G.Pergolesiの"奥様女中"(1733)です。 Buffaでは、Basso buffo(道化的バス)とPatter(早口言葉を使った歌)が名物となり、 Alessandro Scarlattiの "東方の皇帝 Tiberio"(1702)の二重唱 "Non ti voglio"(貴方なんか)に出てきます。 VeneziaとNapoliで初期のOpera buffaを作り、独立した作品として人気を得て、各地で盛んに作られるようになるのは1760年頃からです。


ここまでで、歌を使った音楽の基本的な要素が出揃います。 ここからの発展は、器楽側の発展が必要になります。次回、器楽の発展のお話しに続きます。


ご質問、ご希望、ご意見などは、
協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。



筆者

クラシック音楽の楽しみ方  第9回

会員 高橋 善彦

今回は、弦楽器の話です。オーケストラで使われる弦楽器は、Violin, Viola, Cello(Violoncello), Contrabassのように弓を使う楽器(擦弦楽器)と、 Harpのように弦をはじく楽器(撥弦楽器)があります。 この他にも鍵盤楽器に分類し弦をはじくCembaloや、 弦を叩くPianoのような楽器も広い意味では弦楽器で、 歴史の中ではHarpのような楽器から分化しています。 範囲が広くなり過ぎますので、今回はViolinなどのViolin属とContrabassのようなViol属についてお話します。

メソポタミアにあったHarpのような弦をはじく楽器から、弓を使う楽器に分かれるのは8世紀より前、 中東イスラム圏で使われているラバーブ(RebabとかRebap)という楽器です。 Byzantine帝国でLyraと呼ばれ、 13世紀頃にはスペイン経由で欧州にレベック(Rebec)として伝わります。

     
      Rebab                   Cretaの Lyra

ルネサンス時期のイベリア半島では、弦楽器のことをビウエラ(vihuela)と呼び、 この呼び方がイタリアに伝わり弦楽器のことをヴィオラ(Viola)と呼ぶようになり、 楽器の大きさで呼び名が変化します。
  小さくした弦楽器(Viola + ino=Violino)
  大きくした弦楽器(Viola + one=Violone) =Contrabasso
  小さい大きくした弦楽器(Violone + cello=Violoncello)
となります。

代表的な弦楽器には、歴史的に古いヴィオール(Viol)属と少し新しいヴァイオリン(Violin)属があります。 Viol属は伊語でviola da gamba (脚の弦楽器)と呼ぶ楽器群で、 仏語ではViole、独語ではGambeと呼びます。 スペインから伝わったvihuelaが、 Veneziaで15世紀中期に独自に発展しViol属となっています。 Violin属は北イタリアで16世紀に生まれたようです。 Byzantineから伝わったLyraが、独自に発展した可能性も、Viol を改良する形で発展した両方の可能性があります。 この二つの楽器群の楽器は、例えばBachのマタイ受難曲で両方使われていますので親子ではなく、兄弟関係と分類しています。

Viol 属はフレットを採用しています。フレットと言ってもギターのように固定された物でなく、 弦を巻いたような物で移動可能です。Violin属にはフレットがありません。 Violin 属は木を厚くして強度を上げ大きな音が出るように工夫されています。 見た目の差は、Viol の裏板は平らで、響き孔がViolinの f の字の形ではなく、 Cの字の形の楽器が多くあります。

     
   Discant      viola da gamba     Bass   7本弦

Viol属の楽器には色々な種類がありますが、高音用から、Discant, Alto, Tenore, Bassの4種類が中心です。 この一番小さいDiscant Violでも上の写真のように膝で挟んで演奏します。 一般的にviola da gambaと呼ぶ楽器はBass Violです。 上の楽器の写真にあるように弦の本数が多く6〜7本程度の弦を備えています。 楽器の強度に関係して弦を張る力の差から、Violin属の楽器は4本の弦が5度の音程差に調弦しますが、 Viol属は4度や3度の音程差に調弦しますので、楽器の演奏可能な音域を確保するため に弦の本数が多くなります。楽器の形を見比べると、Viol属の楽器はViolin 属の楽器より、ややなで肩です。


現在、オーケストラで使われている弦楽器の中で、ContrabassはViol属に分類します。 なで肩で4度の音程で調弦しています。 Violoncelloのoctave下で同じ音域幅を確保するためには5本の弦が必要になります。


Violin



現存する最古のViolinは、フランス国王Charles IX 世が1560年にイタリアCremonaの Andrea Amati から購入した24本のviolinで、米国の音楽博物館に保管されています。 有名なAntonio Stradivari が製作した1716年製の楽器“Salabue”がOxfordのAshmolean博物館に保管されています。

主な弦楽器の奏法

  arco
  pizz.
  col legno
  sul ponticello
  sul tasto
  con sordino
  senza sordino
  弓順

弓を使って演奏する
ピチカート(pizzicato)は指で弾く
コル・レーニョは弓の木の部分で叩く
駒の近くで演奏し鋭い音色が出ます
指板の上で演奏し緩やかな音色が出ます
弱音器を使い演奏する
弱音器を外して演奏する
down up 弓の弾く方向



音の重さ、表情に差が付きます





弦楽器のsordino 弱音器は木製やゴム製が多く駒に付けて響きと音色を変化させます

弦楽器の歴史の中で、多くの種類の楽器が生まれています。 今は一般的に使われていない、弦楽器を少しだけご紹介しておきます。

Viola d'amore
17世紀後半から18世紀前半に使われた、6〜7本の弦と同数の共鳴弦を持つ楽器です。 viola da gambaの一種とされていますが、フレットは無く、肩に乗せて演奏します。 共鳴線が鳴るため、楽器の響きが残り、独特の魅力を持った楽器で、 愛のViolaと名前が付いています。 VivaldiやHaydnがこの楽器のために名曲を残しています。


駒の下に共鳴線が見えます

共鳴線を備え、少し大きいBaritonという名前の楽器があります。 やはりviola da gambaの一種でフレットを持っています。 Haydnはこの楽器を好んだEszterhazy公のために、175曲の音楽を残しています。

Violino piccolo
名前の通り小さなViolinは、バロック時代まで高音域用に使われていた楽器です。 見た目は子供用の分数Violinに似ています。調弦方法は、高音域用に短3度、もしくは4度上げます。 Violino piccoloを使った有名な曲には、J.S.BachのBrandenburg協奏曲の第1番があります。 バロック後期になってViolin属の楽器が改良され、高音域を演奏出来るようになって、 普通のViolinが音域を拡げ、violino piccoloは使われなくなります。


Arpeggione
1823〜24年頃、Wienのギター製造者Johann Georg Staufer が考案した6弦の弦楽器で、 弓を用いて演奏する楽器です。ギターの特徴、6本の弦、24のフレットを持っていますので、 guitar violoncelloとも呼ばれています。bass viola da gambaと似て、重音*を出すことが容易な楽器です。 1824.年、Franz Schubertは、この楽器の為にピアノ伴奏の名曲Arpeggione Sonata (D.821)を作曲しています。

*重音(Doppelgriff, double stop)複数本の弦を同時に鳴らす奏法です。 例えば、Bachの無伴奏Violinソナタや無伴奏Cello組曲などで多く使われます。


Arpeggione


ご質問、ご希望、ご意見などは、
協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。



筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第8回

会員 高橋 善彦

今回は、管楽器の話です。オーケストラで使われる管楽器には、Flute, Oboe, Clarinetto, Fagottoのような木管楽器と、 Horn, Trumpet, Trombone, Tubaのような金管楽器があります。 元々、木で作られていた楽器を木管楽器(英:Woodwind, 独:Holzblasinstrument)と呼び、 金属で作られていた楽器を金管楽器(英:Brass, 独:Blechinstrumente)と呼んでいます。 とは言っても、現在、Fluteは金属製の楽器が多く、例えば、Alpen Hornの様に木製の金管楽器もあります。 新しい楽器、1840年代に作られたサックス(Saxophone)は木管楽器に分類しますが、木製の楽器は見かけません。

木管楽器と金管楽器の分類は、名前の由来以外、素材で分類するのではなく、 音程の作り方で分類します。 笛を見てみると、楽器に孔が開いていて、孔を指で開閉して管の長さを変えて音の高さを変えて音階を作ります。 この方式を使っている楽器を木管楽器と呼んでいます。

Recorder

Flute

Oboe

Clarinetto

Fagotto

金管楽器も管の長さを変えて音階を作ります。金管の中でTromboneはスライドで管の長さを変えています。 この方式は、古い時代から使われています。Trumpet, Horn, Tuba等の金管はバルブ機構を使って、息の流れる管を切り替えて管の長さを変えています。






Valveには色々な方式があります。代表的なValveは、
  フランスで開発された上下に動くPiston 型と、
  ドイツで開発された90度回転する Rotary 型です。
いずれの方式もValveに付いている短い管(迂回管)を通るか、通らないかを切り替えます。 この仕組みが作られたのは、Beethovenが第九交響曲を初演した1824年より少し前のドイツです。 ドイツのHorn奏者で研究家のHeinrich Stolzelが、金管楽器用のValve機構を考案し、 1818年に最初のvalveを開発し、その後各方式に発展します。

伝統のWiener Philharmonikerが使っているHornには、1830年頃に考案された独特のValve、 Wienerバルブ(Ventil)を使っています。 古い方式で、使い易いとは言えないのですが、音色の理由で今でも使っています。


Wienerバルブ(Ventil)

現在、標準的に使われている 3本Valve機構は、
  第1 Valveが全音、第2 Valveが半音、第3 Valveが全音半
分の管路長を長くし、音の高さを下げています。 この様なValveを組み合わせて使うことで半音階を演奏可能にしています。 音域を拡げるために3本以上のValveを装備している楽器も多くあります。

  
5 valve Tuba                4 valve piccolo trumpet


楽器分類から見ると、木管楽器と金管楽器の分類に使うもう一つの特徴があります。 木管楽器にはリード(英 :Reed, 独 :Zunge, Tonerzeuger)と呼ぶ、楽器の音の元となる仕組みがあります。 金管には有りません。金管では唇がリードの代わりになります。

Oboe, Fagotto, Bag-pipe, 日本の篳篥(ひちりき)などには、2枚の葦などで作るリードを合わせて、間に息を吹き込み振動させます。 このような楽器をダブルリード(Double reed)楽器と呼びます。Clarinetto, Saxphoneでは1枚のリードが振動し、 シングルリード(Single Reed)楽器と呼びます。 Recorder, Flute, 尺八、和笛にはリードは有りませんが、楽器に息を吹き込むと管が鳴るように作られ、エア・リード楽器と呼びます。


金管楽器には、楽器に息を入れ振動する唇を支える、マウスピース(英:Mouthpiece, 独:Mundstuck)を差し込むだけです。

この様に管楽器を分類する方法を2通り用意していると困ることがあります。
長い音楽史の中では、例外的に両方の特性を持った楽器が現れます。 そこで、楽器分類上では、後からご紹介した、発音原理によって木管と金管を区分しています。

この例外的な楽器は、Trumpet系統に出てきます。これには理由があります。 1840年代までValve機構を持たず、半音階を演奏出来なかったTrumpetに、何とか半音階の演奏を出来るようにしようと試行錯誤を繰り返し、 その過程でいろんな方式の楽器が生まれます。

Trumpetを元にしていますので、楽器の吹き口にリードは無くマウスピースだけです。 木管楽器の様に、楽器本体の管に孔を開けて、半音階を演奏出来るようしています。

イタリア・ルネサンス音楽の後期、Venezia派のGiovanni Gabrieli(c.1554 - 1612)やClaudio Monteverdi(1567 - 1643)の時代の教会では、 Cornettoと呼ぶ楽器が使われています。 現代の金管楽器、Trumpetの親戚の楽器と同じ名前で紛らわしいのですが、 下の図のように全く異なる楽器です。 ドイツ語ではZinkと呼びます。 ルネサンス時代の教会で、合唱の後ろに立ち合唱の高声部を演奏することが多かった楽器です。 もちろん、今でも古楽の演奏ではよく使われている楽器です。

楽器の素材は木で、本体に孔が開いています。見た目は木管ですが、吹き口の方式から金管に分類します。専門の奏者以外では、Trumpet奏者が兼任で演奏します。

1796年にJoseph Haydnが作曲した、Trumpet 協奏曲 変ホ長調(Es-Dur)はよく知られている曲ですが、 この曲の独奏には半音階が必要です。この曲は、キー付きTrumpetという、見慣れない楽器の為に作曲されています。 Haydnに続き、J. N. Hummelもこの楽器用に協奏曲を作曲しています。


英:Keyed trumpet, 独:Klappentrompete


 この楽器は上のCornetto (Zink)と同じ原理で本体に孔を開けています。
 こちらは金属製です。後のValve付きtrumpetの登場で使われなくなります。


ご質問、ご希望、ご意見などは、
協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。



私の愛器たち
オーケストラのトランペット奏者は平均何本のTrumpetを持っているのでしょう?
統計は無いと思いますが、ごく普通の私の場合で7本くらいです。

「クラシック音楽の楽しみ方」  第7回

会員 高橋 善彦

今回は、おそらく最も有名なバロック音楽、Vivaldiの「四季」についてのお話です。 Vivaldiは、ヴェネチア生まれ(1678年)の作曲家、ヴァイオリンの名手、そして若い頃には赤毛の司祭 (il Prete Rosso) というあだ名を持つカソリック教会の司祭で、ピエタ慈善院付属音楽院 (Ospedale della Pietà)の音楽監督を務めます。

四季は4曲のヴァイオリン協奏曲で、1716年から1717年頃に作曲されています。1725年にアムステルダムで、 他の8曲のヴァイオリン協奏曲と一緒に「和声と創意の試み (Il cimento dell'armonia e dell'invention)」曲集として出版されます。

この四季の発想は、当時、Vivaldiが居たマントバの郊外、田園風景の印象からとされています。 しかし、四季の各曲を書いたと推定できる年と、当時、マントバを統治していた、ヘッセン=ダルムシュタット(Hessen-Darmstadt)の フィリップ 公子からの宮廷楽長の職位への招聘をVivaldiが受けた年に、微妙なずれがあります。 また、Vivaldiがマントバに着任前後、どれくらい居たのか等も明確に出来ていません。

 協奏曲 第1番 ホ長調 RV 269 春 La Primavera
    I. Allegro II. Largo e pianissimo sempre
    III. Allegro pastorale
 協奏曲 第2番 ト短調 RV 315 夏 L'Estate
    I. Allegro non molto−Allegro
    II. Adagio e piano−Presto e forte III. Presto
 協奏曲 第 3番 ヘ長調 RV 293 秋 L'autunno
    I. Allegro II. Adagio molto III. Allegro
 協奏曲 第 4番 ヘ短調 RV 297 冬 L'inverno
    I. Allegro non molto II. Largo III. Allegro

この四季の4曲の協奏曲は、それぞれ、急−緩−急の三楽章の形式になっています。 各楽章にはソネット形式(14行詩 Sonnet) の詩が付き、音楽の情景を説明しています。 ソネットはVivaldi自身 が書いた可能性が高いのですが、これも詳細は不明のままです。

しかし、明らかにソネットに従って、音楽は書かれています。 この四季の4曲の協奏曲は、音楽に物語的な要素を結び付けた「標題音楽」の最も古い秀作の一つです。 この作品では、音楽に物語の要素を「描写する」という、新しい概念を取り入れています。
例えば、「春」の第一楽章には、鳥の声、第二楽章には、山羊飼いの犬の声が聞こえてきます。 このような自然の音を描写するだけでなく、季節の風景から受ける感覚や心象、例えば、 春の訪れの喜び、夏の暑さ、冬の凍えるような寒さ、暖炉の暖かさなども音楽で表現しています。 この他にも、せせらぎの流れ、羊飼いの声、嵐、酔っ払った踊り手、夜の静けさ、氷上の子供達などを描写しています。

春の第一楽章の冒頭には「春が来た」とソネットが書かれ、春らしいのびのびとした音楽になっています。



そして、鳥たちは楽しげに春に挨拶する (e festosetti La Salutan gl‘ Augei con lieto canto, )と続きます。

この様に、ソネットの言葉に従って、音楽が展開して行きます。 ソネットについて全てをここで、ご紹介出来ませんので、以下、ご説明しておきたい箇所だけにします。

   ソネットの対訳と、ソネットが書き込まれている四季の各Scoreは下記からご覧ください。
   Scoreのソネットにも、日本語訳を付けてあります。
     ソネット対訳    春 Score    夏 Score    秋 Score    冬 Score

そして、小川のせせらぎの描写が出て来ます。

    泉の流れ
    泉はそよ風に誘われ、優しい音を立て流れはじめる。


この音形は、後のベートーベンの田園交響曲、第二楽章に出てくる「小川のほとりの情景」と比べると、 複雑になっていますが、発想はよく似ています。
次の譜面は、田園交響曲の第二楽章です。



多くの人が「小川のせせらぎ」を思い浮かべる音形で、言わば定番の音形です。 定番の音形は、古い時代から描写音楽や歌詞を持つ音楽では重要な存在で、定番作りに多くの作曲家が力を注いで来ています。

「春」の第二楽章では、ヴィオラに、遠くで吠える犬の声を聴くことが出来ます。



「夏」の最初には、夏の暑さに皆が疲れている様子を描いています。 Vivaldiは、3拍子の1拍目に休みを入れ、2、3拍子に半音の音程を書き込み、これだけでも「そっと」感が出ますが、 ごく弱く(pianissiomo)として、夏のうだるように暑さを表現しています。



続いて、夏の森に聞こえるカッコウ等の鳥の声、そよ風、急な風、嵐にうろたえる牧童の様子が描かれていきます。

「秋」は「四季」の中で、おそらく、一番、独奏ヴァイオリンの難易度が高い曲です。 第一楽章では、豊作に恵まれた村の祭りと、酔っばらいが出て来ます。第二楽章は、祭りの後、 村人が眠りについた村の静けさが描かれています。弦楽器は弱音器(sordino)を付け、 音色が少し籠もります。これにチェンバロが分散和音(arpeggio)を弾いて、静かな空気を表現しています。

「冬」の第一楽章は、凍えるような寒さにブルブルと震える様子から始まります。 寒い様子は、和音の使い方で表現しています。最初に、チェロがファ(F)の音から始まり、 次にヴィオラがソ(G)の音を弾きます。この2つの音は、隣の音で、不協和音となります。 そのまま、ヴァイオリンが加わり、冬の寒さを描いています。



第二楽章には平和な温かい調性の変ホ長調(Es-dur)を使い、暖炉の周りの暖かさを描いています。 そして、第三楽章の最後には、冬が終わり、春の訪れを暗示するように、短調の和声に、所々に長音階を借用し、 春を匂わせるように使っています。


「四季」を標題音楽と書きましたが、ロマン派以降の標題音楽とは少し質が異なります。 明らかに、ソネットが音楽を説明し、描きたい情景が見えて来る箇所があります。 具体的な鳥の声などではなく、感覚的な、暑さ、寒さのような部分、ソネットが補助的に説明しています。 そして、聴いている側は、この説明に納得できる音楽となっています。

四季が作られて103年後に、ベートーベンの「田園」交響曲が書かれています。 四季は、ソネットを標題として使っていますので、田園よりも積極的で、 具体的に標題が書き込まれています。そして、どちらの作品も描写的ですが、 その時代の音楽様式を守り、純音楽として美しく成立しています。 言葉、標題が無くても、ソネットの内容を知らなくても、楽しめる音楽になっています。 そして、描写は旋律に豊かな色彩を与えることになります。 この点が「四季」にしても「田園」にしても多くの人々に愛される秘密だと思います。

Vivaldiの音楽の魅力は、判りやすさです。多くの作品が、 判りやすい旋律と和声(和音が変化し進行すること)で構成しています。 和声は協和音、不協和音を巧く使いこなし、幅広い表現力を持った音楽を作っています。 協和音と不協和音が連続して、緊張感と解決感が交互に現れ、独特の雰囲気を作り、Vivaldiの音楽らしさとなります。

バロック時代の音楽は、この和声の進行をどの様にすると、どの様な音楽になるのか(機能和声)を課題として、 多くの作曲家が取り組んでいます。その頂点にいる代表的な存在がVivaldiです。和音の展開を巧く使い、 季節の変化、色々な表情を作り上げているのが、この名曲「和声と創意の試み “四季”」です。

そして、ヴァイオリンの名手 Vivaldiは、楽器の魅力を知り尽くしています。 余計な飾りなど不要で、簡単な旋律の形でも、美しいヴァイオリンの音を巧く引き出し、 魅了してくれます。このような音楽作りの才能は、全ての作品で発揮されています。


ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。
記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。



筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第6回

会員 高橋 善彦

大バッハのお話(その3) 最終回です。
バッハの宗教曲の最高峰、ロ短調ミサ曲(h-moll Messe)から始めます。 ミサ曲とされているのですが、実際に教会でのミサに使われていません。 この曲は、演奏時間が2時間近く、実際の典礼には長すぎます。 全27曲 1部 Kyrie 3曲, 2部 Gloria 9曲, 3部 Symbolum Nicenum ニカイア信条 9曲, 4部 Sanctus, Hosanna, Benedictus, Agnus Dei に6曲と4部構成となっています。

きっかけは、1733年2月1日、バッハをDresdenから支援していたザクセン選帝侯、ポーランド国王のAugust II世の逝去です。 ザクセン選帝侯領内は、2月15日から7月2日まで喪に服し、音楽演奏を禁じます。 この間に、亡き国王を追悼するKyrieと、新国王August III世の即位を祝するGloriaからなる、 Dresden宮廷の為の小ミサ曲を完成させます。

この2曲構成の小ミサ曲を元に、ミサ通常文全文にまで拡張し、27曲の大作「ロ短調ミサ曲」にしています。 しかし、作曲の理由は不明です。バッハは自身の事を書き留める習慣が無く、曲についてのメモ以外、何も書き残していません。

曲の内容は、既に作曲していたカンタータ(12, 29, 46番等)から8曲を転用しています。 逆に、新しいカンタータ(191, 215番)へ5曲を転用している曲もあります。 バッハは敬虔なルター福音派で、ルターがラテン語の典礼文の使用を認めた範囲内で、 カソリック教会とルター派教会の両派の典礼文の差に配慮し、Sanctusの典礼文の一語だけを入れ替えています。
   カソリック派 gloria tua  あなたの栄光
   ルター派版  gloria ejus  彼の栄光
バッハの最後の3年間、既に目が不自由になり譜面を書くのが厳しい時期、 ミサの第3部 Credo (Symbolum Nicenum, ニカイア信条)に手を入れ、 ルターの重要視したCredo(信条)の対称性を明確にしようとした、と推察されています。 そして、最晩年1747年頃に完成し、1748年/49年に全曲を浄書しています。 バッハの生涯に、ロ短調ミサ全曲を演奏した記録はありません。

バッハは、1730年代中期から、Goldberg変奏曲集、クリスマスオラトリオ、フーガの技法など、 特定の目的を持った連作、全集を創作し始めています。 ロ短調ミサを完成させた動機に、自分の解釈する、宗教音楽の様式と全ての技術を集大成し、 後の音楽家のために遺産として残そうとした意図があるように思えます。 バッハは、ロ短調ミサの中で、教会の派を越えた宗教音楽の本質を示し、後進の音楽家たちの研究対象となっています。

Collegium Musicum コレギウム・ムジクム
Leipzigの街を歩いていると、Katharinenstraseという街の中心にある道の14番地、Thomas教会から歩いて 6分程の場所に、次の写真のような石盤が建物の壁に有ります。ZimmermannのCaffee-Haus 跡に残る石碑プレートです。


1729年3月、バッハはTelemannが創設したCollegium Musicum(音楽の集まり)を引き継いでいます。 珈琲が大変好きだったバッハが、活動場所をLeipzig大学から、ZimmermannのCaffee店に移しています。

音楽学生や音楽家達に、新しい音楽を経験し研究する機会を与えています。 バッハは、教会でミサ開催以外の時間に、多くの新作の世俗カンタータや器楽曲を演奏し、 定期的に演奏会と練習風景も公開しています。バッハの珈琲カンタータも、ここで初演しています。 当時のLeipzigの街は交易で栄え、珈琲を普及させる核となった街です。 珈琲がまだKaffeeではなくCaffeeと、 流行の飲み物であった時期です。ここでの演奏会は、Leipzig市民に広く楽しまれていたのですが、 1741年に持ち主のZimmermannが亡くなり演奏会は終わります。 しかし、この活動が、Leipzig市民に音楽への愛好心を醸成し、 1743年の市民によるGewandhaus - orchesterの創設に結び付いたとされています。


Bach自身がデザインした 封印章 Siegel

音楽科学文書交流協会 (Correspondierenden Societät der musikalischen Wissenschaften) は、 作曲家と音楽理論家が参加し、音楽理論的な論文を回覧し議論し、音楽科学を推し進めることを目的とした協会です。 1738年にバッハの生徒であった Lorenz Christoph Mizlerが創設しています。 TelemannやHändelも既に会員で、バッハも1747年6月に14番目の会員となります。

会員になるために、肖像画と理論的で実践的な作品を提出します。この時のバッハの肖像画が、本稿の最初にある、 Elias Gottlob Haußmannによる「有名な」肖像画です。 バッハは、音楽の捧げ物の6声部の謎のカノン等数曲を提出しています。


ここまでのお話の、ロ短調ミサ曲、Collegium Musicum, そして上記の協会、いずれも方法は異なりますが、音楽の発展と後進の育成を目指しています。 これは、バッハに限らず、多くの作曲家、音楽理論家が持っている志です。 しかし、バッハは例外的に多くの後の作曲家によって研究されています。 明らかになっている例を少し挙げてみると、

Haydnは平均律クラヴィア曲集とロ短調の写本を所有、MozartはMotet集の写本から曲(K.404a, 405)を書き、 Beethovenは若い時期に平均律クラヴィア曲集を演奏し「和声の創始者」と呼んでいます。 Mendelssohnはバッハの音楽を復興していますので、多くの譜面を研究しています。 受難曲、カンタータ、ロ短調ミサ曲、オルガン曲などです。 Chopin, Schumann, Liszt, Gounod, Brahms, Bruckner, Wagner, Shostakovich, Villa-Lobos等の作曲家が研究しています。

Das Wohltemperierte Klavier 平均律クラヴィア曲集
直訳は「巧く調律された鍵盤楽器(Klavier)曲集」です。 意味から「平均律」と訳されています。全2巻の曲集で、第1巻は1722年、第2巻は1742年に完成しています。 第1巻の表紙には「指導を求めて止まぬ音楽青年の利用と実用のため、 又同様に既に今迄この研究を行ってきた人々に特別な娯楽として役立つために」と書かれています。 各巻ともに、全て24の調性の長調、短調を用い「前奏曲とフーガ」1組で全24曲となっています。

平均律の鍵盤楽器は、17世紀初頭には実用化されています。 平均律は音程の幅を均一にして、全ての鍵盤を均等な音程幅にしています。 均等な配置ですので、どのような調性でも、即ち、何個♭や♯が付いても、使う白鍵や黒鍵が変わるだけで演奏出来ます。

他の純正律や中全音律などの調律は、各調によって、鍵盤間の音程幅が均等ではなく不均一です。 演奏する曲の調に合わせて調律しなおす必要があります。 このような事情から、♯や♭が多く付く調性が使われることは希でした。 この様な調性の作品を演奏すると、どうなるのか?に応えた作品が、この平均律曲集で、音楽家達には刺激的だった訳です。

解りにくい「音程の幅を調整する」調律の話で恐縮ですが、調律についての議論は、 17世紀初頭、地域を越えて多くの作曲家が論文などで考えを述べ議論されています。 この曲は、平均律の決定版となるような作品です。

Die Kunst der Fuge, BWV 1080 フーガの技法
1748年8月頃、63歳のBach は目に問題が出はじめ、視力が徐々に弱っていますが、バッハ絶筆の作品、 「フーガの技法」に取り組みます。 フーガとは、最初に示された旋律を追いかけるように、次々と異なる音から始まる、最初の旋律を基にした旋律が現れる形式の音楽です。

14のフーガと4つのカノンを含み、未完成の最終19曲目のフーガを除き、 全てが同じ基本となる旋律を使っています。この作品には、考え得る全種類のフーガの技法と、構造の規則が描かれています。 また、絶筆した最後の曲の中音域に、BACHの文字を音名に置き換え、次のように埋め込んでいます。


バッハの音楽は、中世からルネサンス時代に確立されたフーガを代表とする対位法音楽と、 バロック時代のMonteverdi, Corelli, Vivaldiらが確立してきた、 和音を中心にする和声法的音楽を、理論とともに集大成しています。 また、美しい旋律に恵まれ、色彩に富んだ和声の変化とともに、魅力的な音楽を作っています。 このことが、後の作曲家達が研究する第一の対象とした理由ではないかと思います。

バッハは1000曲を越える作品を残しています。是非、自由に聴いて頂いて、ご贔屓の曲を見つけて下さい。

ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。
記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。

筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第5回

会員 高橋 善彦

前回に続き、大バッハのお話(その2)です。まず、Die sechs Brandenburgischen Konzerte ブランデンブルグ協奏曲集のお話から始めます。

1718年から19年にかけての冬、バッハがKöthen侯国Leopold候に仕えている頃、 Berlinを訪ねた際、Christian Ludwigブランデンブルグ辺境伯の御前で演奏する機会に恵まれます。 詳細は不明ですが、Christian辺境伯は、Leopold候の友人である当時のプロイセン王の息子ですので、 この旅にLeopold候の何らかの差配があったと思われます。 Christian辺境伯は、プロイセンの黒鷲勲章を受け、1721年春の受勲に際し演奏できる曲をバッハに依頼したようです。

曲の献呈句には「2年前に伯の御前演奏に際し賜った下命に従い」とあります。 献呈された曲の題名は、献呈句と共にフランス語で、"Six Concerts avec plusieurs instruments"
  「幾つかの楽器のための6曲の協奏曲集」
となっています。次図は、献呈用の手書きの表紙です。


Berlin州立図書館のAmalia蔵書が所蔵しています。 19世紀のドイツの音楽歴史家 Philipp Spittaが、この曲を作曲の経緯から「ブランデンブルグ協奏曲集」と呼び、 この呼び名が普及します。 この協奏曲集は、6曲の協奏曲を含みます。Köthen時代に書かれている器楽曲には、 フランス組曲や無伴奏など6曲を一組としている例が多く、この時期の特徴です。 6曲の協奏曲には番号が付いていますが、作曲の時期は早い方から、 6番, 3番がWeimarで, 1番, 2番, 4番, 5番がKöthenで作曲されています。 バッハは、特徴のある協奏曲6曲を選んでいます。

Köthen侯国の宮廷に優秀な器楽奏者が揃っていた事で、バッハは各楽器の特性を学び、 各楽器を独奏楽器として巧く使い、奏者に名人芸を発揮させています。 この協奏曲集では、非常に大胆な楽器の組み合わせを採用しています。 特に、協奏曲第2番の独奏楽器は、Trumpet, Recorder, Oboe, Violinです。 勿論、この時代の楽器と現在の楽器の特性は大きく異なりますが、 TrumpetがRecorderと並んで演奏するというのは、とても珍しいことです。 しかし、実際に演奏すると音量のバランスを保てるように巧く書かれています。

そして、それまで伴奏用に使われていたCembaloを独奏楽器として使い、 初のCembalo協奏曲と言える曲が、第5番の協奏曲です。 第5番が、最初にKöthenで書かれた初稿と献呈された譜面を比べると、 第1楽章の最後にあるCembaloの独奏部分の長さが、初稿の19小節から、献呈稿では65小節に拡がっています。

この経緯ですが、1719年、Köthen宮廷がBerlinの工房にCembaloを注文しています。 おそらく、事前にバッハがBerlinに出向き、2回目に楽器を受け取る為に訪れた帰り、 辺境伯の御前で、新調したCembaloをお披露目し、その時に演奏した第5番が献呈稿となり、 Cembaloの独奏部が見事に拡張されたと考えられます。


Cembalo独奏が始まる部分 献呈稿自筆譜面(1721年)

J.S.Bach Brandenburgischen Konzerte Nr.5 の参考音源はこちら(You Tube)から
(Freiburger Barockorchester @ Schloß Köthen)
J.S.Bach Brandenburgischen Konzerte Nr.2 の参考音源はこちら(You Tube)から
(Claudio Abbado @ Teatro Municipale Romolo Valli, Reggio Emilia, 21 4 2007)

Matthäuspassion マタイ受難曲
正式な題名は「福音史家聖マタイによる我らの主イエス・キリストの受難 : Passion unseres Herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」です。 新約聖書「マタイによる福音書」のキリストの受難を題材にしています。福音書に書かれている聖句と、 筆名Picander (本名Christian Friedrich Henrici)という同時期に活躍し、 バッハとは親しくカンタータでも一緒に働いている作家が書いた、宗教的な自由詩をテキストとして使っています。

Leipzigに着任後4年、1727年の受難日、聖金曜日4月11日に、カンタータ1年分に匹敵する大作を演奏します。 マタイ受難曲は二部構成で全68曲、合唱とオーケストラとオルガンが各2組で、演奏は3時間を越えます。

福音史家(Evangelist)が聖句にある物語を語り、イエス、ピラトら弟子、大祭司達、シオンの娘、 罪の女等の登場人物、群衆で物語の情景を描いて行きます。この時代には普通に使われ、今は見慣れない楽器、 Viola da gambaが独奏楽器として登場します。 バッハの時代、教会内で女性が歌唱することはありません。女声は少年合唱とカウンターテナーが歌います。
物語の情景、人々の感情、登場人物の関係、言葉の意味などに従って、楽器だけでなく、 合唱の声部の数、和音とユニゾン、音楽の様式など、 音楽の構造を非常に精緻に考えて作られた名曲です。 イエスの言葉には、常に弦楽器が後光を表現し、最後の言葉では、一息、沈黙します。 物語と心象風景を音楽で表現しています。 2つのオーケストラと合唱が交互に対向で歌う場面は、最初の曲にも出て来ます。 合唱を2つに分けて交互に歌う交唱(Antiphona)は古くから教会音楽で使われている様式ですが、 「見よ」/「誰を?」のように、歌詞に従った「必然的な」表現方法として使っています。 演奏すると、物語に沿った問いかけと応答の言葉が左右から聞こえる劇的な効果も持っています。

J.S.Bach Matthäuspassion の参考音源はこちら(You Tube)から
(Leitung: Kay Johannsen, Stuttgarter Kantorei, Stuttgarter Hymnus Chorknaben, Stiftsbarock Stuttgart)
Aufführung im Rahmen des Zyklus' Bach:vokal, Stiftskirche Stuttgart


Viola da gamba


バッハがLeipzigのトーマス教会の楽長という重責に就任してからの苦労話を少し、輪郭だけですが。。。

トーマス教会は市の評議会下にあります。トーマス教会の上司には教区監督がいます。 また、1409年創立の古いLeipzig大学があり、 大学に付属する聖パウロ大学付属教会での礼拝はトーマス教会楽長が行う事になっています。 ということで、音楽の発展を望むバッハが、音楽活動のために調整する相手は3人も居ます。 勿論、バッハを支援する人も居ましたが、市の慣習に無い、予算が無いと反対されることも多く有りました。 (実は、マタイ受難曲の初演の時も、場所や予算、慣例などでもめていますが、最終的にはバッハの希望通り、トーマス教会で初演しています)

面倒な状況の中、救済を与えたのは、Dresdenに居たバッハの音楽を支持する、ザクセン選帝侯で、 ポーランド王であったAugust II世とAugust III世です。二人の国王はバッハからの請願を聞き入れ、 宮廷作曲家の肩書を与え、Leipzigでの音楽活動の環境は整います。

     
Friedrich August I., August II. (Polen)   Friedrich August II., August III. (Polen)

おそらく、この様な面倒を経験したバッハは、トーマス教会の付属学校からLeipzig大学と、 膝元で育った次男のCarl Philipp Emanuel Bachが音楽家になると決めた1738年に、 後のプロイセン王となるFriedrich II世の王宮に奉職することを薦めたようです。 Carl自身、この配慮に感謝し、教えを守ります。 Friedrich II世は、バッハに逢うことを熱望し、充分な敬意を持って接したという話が残っています。


   Friedrich II.      C.P.Emanuel Bach      Johann Quantz
A. Menzel: Sanssouci宮殿でFlute演奏するFriedrich大帝

1747年5月、バッハはBerlinを再び訪れます。この訪問は、7年前に戴冠したFriedrich王 II世が、 バッハと知り合えるように、王室奏者のCarlに父親と同行するようにと、 新築のサンスーシ宮殿への招待に応えたものです。 バッハの馬車が門に到着した時、大帝は「諸君、大Bachの到着だ!」と演奏を中断して出迎えます。

Friedrich大帝は音楽に造詣が深く、フルートは名手Quantzに師事し大変巧く作曲もします。 音楽を充分に理解し、バッハに何を望み、依頼すれば良いのかを承知しています。 バッハも、充分に理解して貰えると知りつつ、“音楽的な難題”を見事に解決し、 作品として仕上げた「音楽の捧げもの」を献呈しています。

次回、あと1回バッハのお話を続けたいと思います。


ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。
記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。

筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第4回

会員 高橋 善彦

今回は、大バッハのお話(その1)です。Johann Sebastian Bach は 1685年3月21日、Eisenachの三代前から音楽家の大家族に生まれています。 バッハは10歳の時に両親を亡くし、Ohrdrufに住んでいた長兄 Johann Christophの元に引き取られ、音楽教育を受けて育ちます。

バッハが兄のもとに行く1年前の1694年、兄Johannの結婚式の時、Erfurt系のJohann Christian Bach家に世話になり、 兄に音楽を教え、既に有名だったPachelbelに、9歳のバッハは逢っているようです。

バッハと同世代の音楽家には、逢うことは無かったのですが、大きな影響を受けるVeneziaのVivaldi (7歳先輩)、 音楽家となったバッハが、親しくし、色々と世話になるTelemann (4歳先輩)、 結局、逢うことが無かった Händel、D.Scarlatti (同歳)という巨星が揃い、バロック音楽の最盛期の中で活動します。

バッハが音楽家として活動し始めるのは1703年3月です。 Lüneburgにある聖ミカエル修道院付属学校を卒業した18歳のバッハは、Sachsen-Weimar公国の Johann Ernst 公爵の宮廷楽団に、Violinistと見習いとして働き始めます。 しかし、4ヶ月後の7月には、Weimar を離れ、ArnstadtのNeue Kircheの教会Organistとなり、 学生たちを教育し、作曲活動を始め、最初のOrgan曲を作っています。 このArnstadtには、バッハの望む音楽活動の環境が整い、作曲にも充分な時間を持てたようです。 1705年、Lübeckへ旅行し、既にドイツではOrgan名手で、68歳のDietrich Buxtehudeの基で、 主にOrgan演奏を学んでいます。 この時、20歳のバッハがBuxtehudeから学んだことは、音楽だけでなく、音楽家の心得、 教会の管理心得も教えて貰い、信頼を寄せ、大きな影響を受けています。

1708年6月、23歳のバッハは再びWeimarの宮廷に戻り、宮廷Organist、室内楽楽師に就任します。 この時の主君、Wilhelm Ernst公は、18歳の時の雇い主、Johann Ernst 公の長男です。 次男のJohann Ernst III世の次男Johann Ernst IV世は、オランダのUtrechtに留学中で、 1713年の夏に、多くのイタリアの作曲家の楽譜を入手し、Weimarに戻り、 バッハに鍵盤で演奏できるように編曲を依頼します。 これが、巨星Vivaldiの音楽を正対して学ぶ好機となります。

以降、バッハがイタリア様式を取り入れ、発展させ、洗練された名曲を作る原点となっています。 イタリア様式を使って、Brandenburg協奏曲集の第6番、第3番をWeimarで作曲し始めています。 1714年、バッハはWeimar宮廷楽長に就任し、ドイツ各地で音楽家、名Organistとして知られるようになります。

1717年8月、バッハはAnhalt-Köthen侯国 Leopold侯の宮廷楽長に招聘されます。 しかし、この時Weimar 公は辞職を承諾せず、バッハを1ヶ月間、城に幽閉するという逸話があり、 WeimarのStadtschlossには、幽閉されたとされる場所が、"Bastille"として残っています。


Das Weimarer Stadtschloss (auch Residenzschloss)

KöthenのLeopold候は、音楽を好み、ViolineやCembaloを自ら演奏します。 カルヴァン派のLeopold侯は、宗教についておおらかで、あまり宗教曲に興味を示さなかったようです。 Leopold侯の幼少時代の後見人が、初代プロイセン王でその息子のプロイセン王 Friedrich Wilhelm I 世と親しく、 プロイセン王の楽師17名を含む優秀な演奏家が揃っていたため、バッハはこの時期に、 多くの器楽曲の名曲を作曲します。例えば、Violinの独奏曲、協奏曲、管弦楽組曲、平均律クラヴィーア曲集(vol.I)、 Brandenburg協奏曲集などがKöthen 時代の作品です。

1723年4月、Leipzigのトーマス教会楽長に就任します。

Leipzigに移った後も、バッハは Köthenの宮廷楽長として、毎年、 Leopold 候の誕生日を祝うカンタータを作り、友好を継続しています。1728年11月、34歳でLeopold 候が亡くなると、 葬送用カンタータを「最も好きな雇い主」に奉悼しています。最後の地 Leipzigで、バッハは、ヨハネ、マタイ受難曲、カンタータ、 モテットなど声楽を含む曲を残しています。 この時代に特筆すべきは、200曲を越えるカンタータを作り、特に1723年から25年の2年間、 毎週、新しいカンタータを作曲し、約100曲の多様な作品を作っています。 1750年7月28日、バッハはLeipzigで27年間を過ごし、65歳で亡くなっています。

バッハは生涯に2度結婚しています。1707年、遠戚(従姉妹)で1歳年上のMaria Barbaraと結婚し、 5男2女の子供が産まれています。1720年7月、妻のMariaが35歳で急逝します。翌年、Köthenの宮廷歌手(Sop.)であった、 Anna Magdalene Wilckeと再婚し、6男7女、合わせて11男9女の20人の子供をもうけ、 10人は夭逝し、成長したのは男子6人と女子4人の10人です。

LeipzigのThomas教会の前にあるバッハ像

Anna Magdaleneはバッハを敬愛し、音楽活動を支えています。 Magdalenaは楽譜の作成を手伝うことも多く、二人の手書きの譜面はとても似ています。 Leipzigのバッハの家には多くの弟子や客が訪れ、各地からOrgan検定の依頼でバッハが出掛けている留守宅を、 いつもお腹の大きなMagdalenaが差配していたようです。 長男 Wilhelm Friedemannと次男 Carl Philipp Emanuel Bachは二人とも音楽家と成り、 LeipzigのバッハとMagdaleneを最後まで支えています。


バッハ作品番号(BVW)
Johann Sebastian Bachの作品は、独の音楽学者 Wolfgang Schmieder氏によって、バッハ作品目録として整理されています。 この目録で使われている番号をBWV (Bach Werke Verzeichnis)と呼びます。 1990年に第二版が発行され、BWVは1120曲、BWV Anh (Anhang 補遺)は205曲となっています。 まだ、見つかっていない作品があるかもしれません。

カンタータ(Kantate)
カンタータ(cantata)は声楽に器楽による伴奏が付いている曲です。 BWV作品目録番号で、1〜224番がカンタータです。 200番までが教会用のカンタータで、201〜224が教会以外での目的で作られた世俗カンタータで、 農民カンタータや珈琲カンタータなどがあります。衣装、舞台、演技のないオペラという感じです。

バッハの教会カンタータの大半は後年のLeipzigで書かれたものですが、 Weimarでも20曲以上書いています。やや古いスタイル、教会コンチェルト形式から、 新しいイタリア様式のカンタータへと作風が変化しています。

教会コンチェルト(concerto da chiesa)形式とは、コレッリの時代、合奏協奏曲で使われていた形式で、 ゆっくりとした楽章と、早い楽章が交互に出てくる形式です。

新しいイタリア様式は、言葉、語りが中心のRecitativoと、歌が中心のDa capoアリアを対比させる様式です。 Da capoとは「曲のはじめに戻る」という意味で、序奏から始まり、最初の曲想のアリアを歌い、 次に、雰囲気の違う対称的な曲想を歌い、もう一度、曲の最初に戻り、最初の曲想で終わる形式です。 この形式は、単に曲の形式だけでなく、適度な曲想の変化が、独唱、独奏パートの色彩を豊かにし、 名人芸を発揮出来る枠組みを与えます。後のW.A.Mozartや、G.Verdi などのオペラ、協奏曲などでも多く使われています。 おそらく、この新しいイタリア様式が、バッハが多様なカンタータを多く作るための大きな味方となっています。

ここで、私の好きなカンタータを1曲だけ、推薦曲として、ご紹介しておきます。

 カンタータ第78番「イエスよ、汝わが魂を」"Jesu, der du meine Seele" BWV 78
Leipzig時代の名曲で、1724年9月10日の三位一体節後第14日曜日の礼拝のために作曲した教会カンタータです。 全7曲の曲で、最初と最後に配置された2曲の合唱によるコラールと、3曲の独唱によるアリアを含んでいます。 どの曲も歌詞にあわせ、独特の雰囲気を持ち、バッハの音楽の多様性、持ち味が発揮された曲になっています。 特に2曲目のソプラノとアルトによる二重唱アリア「われは急ぐ、Wir eilen mit schwachen」は、 場面の陰陽を見事に描いた、Da capoアリアで、後に、楽器用に編曲されたりする人気のある曲です。

J.S.Bach Kantate Nr.78 の参考音源はこちら(You Tube)から
(Van Veldhoven | Netherlands Bach Society)


Kantate Nr.78 第1曲目 "イェス 我が心を救い出し"と神秘的に始まります


第2曲目のソプラノとアルトによる二重唱アリアは人気があります


第4曲目のフルートが美しく装飾的に伴奏するテナーのアリアです

他にも教会カンタータでは、第51番、第80番、第147番、世俗カンタータでは、第211番、 当時のLeipzigで流行始めた珈琲を取り上げた「珈琲カンタータ」などは、 是非、お薦めしたいカンタータです。カンタータはバッハの魅力の宝庫です。是非、聴いて みてください。

まだ、バッハの音楽、凄いところ、Leipzigでの物語などお話したいことがありますので、次回に続きます。



ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第3回

会員 高橋 善彦

今回は、音楽と譜面のお話です。これまで「譜面は音楽の目安」と書いて来ましたが、 譜面と演奏にどのような差があるのか、演奏家はどのように楽譜を音楽にしているのかを、お話します。

音楽は、作曲家と演奏家による協同作業で成立する芸術です。 作曲家は音楽を創作し楽譜の形にします。 演奏家は楽譜に従い、作曲家の想いに寄り添いながら、知識、経験、感性、 技術で隙間を埋めながら再生し音楽を作り上げていきます。 この音楽の特性によって、例えば、Mozartの時代の音楽に、現在の解釈を加え、 聴衆の前で活き活きとした音楽を再生します。 この事で、長い歴史を通じて愛された名曲が、今でも色あせることなく演奏され、 名曲が生き残り、見直されています。音楽の要素毎に、楽譜の記述と音楽の差を見てみます。

まずは、音楽演奏の時間についてです。音楽の速さを決めるテンポは、例えば、 AllegroやAndanteのような速度記号で記述しています。 更に「ややAllegro」、普通はAllegroよりも少し遅いテンポを示す Allegrettoのような派生形もあります。 具体的にどれ程の速度で演奏するのかは、演奏者に任せることになり、指揮者による演奏時間の差になります。

Beethovenの第九交響曲の演奏時間を、極端な例で比べてみると、 Furtwangler指揮 Bayreuth祝祭管弦楽団の1955年の演奏は74分32秒、 Gardiner指揮 Orchestre Révolutionnaire et Romantiqueの1992年の演奏で59分43秒という差が出ます。

音楽演奏の時間について、もう少し細かく見てみると、音楽全体の音が無くなる「間」や、 テンポが変化する「揺れ」があります。


J.Strauss II : Operetta Die Fledermaus - Overture

上記の譜面は、J. Strauss II のWiener Operetteの最高峰とされる喜歌劇「こうもり」序曲に出てくるワルツ(Tempo di Valse)の部分です。 最初の4小節間は、序奏です。譜面には弦楽器が弓で弾く arco.の指定と強弱記号の pp (ピアニッシモ)から、 だんだん音を大きくする cresc. molto が書かれています。(クレッシェンド・モルト : だんだん強く)

有名な曲ですから聴き馴染みもあると思いますが、この部分は音が大きくなる cresc.とともに、 テンポも、ややゆっくりから速くなり、
赤矢印の箇所で一時停止して、ワルツに入ります。 速くするという指示(accel.)も、一時停止の印( ‘ や フェルマータ)も書かれていませんが、この様に演奏することが通例になっています。 1874年の直筆譜面にも何も書かれていません。 おそらく、曲の持つ楽しい雰囲気の中で、ワルツの登場を強調する効果を狙って、テンポの揺れを取っているのだと思います。 初演の時に、Strauss自身がこのように振ったのかもしれません・・・、わかりません。

同じくStrauss IIの有名なワルツ「美しく青きドナウ」の最初の第一ワルツにもテンポの揺れがあります。 ゆっくり始まり、徐々に速くなりますが、譜面には何も書かれていません。
   ★上記の喜歌劇「こうもり」序曲のワルツ
青い矢印 の箇所も少し遅くしている演奏が多いです・・・私もそうしています


J.Strauss II : An der schönen blauen Donau p.5

徐々に速くなって行く、この第一ワルツが一定のテンポに落ち着くのが、次の譜面にある青い線 ff の箇所です。その直前にある、8分休符(赤丸印)のある箇所で、 オーケストラの音は無くなります。多くの演奏では、この8分休符、普通の8分休符より、少し長めに休みを取り、を作ります。 前の「こうもり」序曲の間の例と同じく、次の ff で演奏されるワルツを強調することになり、「自然な音楽の流れ」(必然)を作ります。


J.Strauss II : An der schönen blauen Donau p.6

このようなは、一定のテンポで音楽が流れるのを、一瞬止めることになります。 この瞬間、オーケストラの奏者は、全員が息を止め、指揮者の棒の先に意識を集中します。 棒が降ろされた瞬間に、緊張感が解けて、オーケストラ全体が一体となった音を響かせます。

演奏時間の差を生むような、基本となるテンポをどのような速度にするのか以上に、 このようなテンポの揺れや間は、音楽に表情をつけることになり、同じ曲でも、 指揮者を含めた演奏者によって、印象が異なる音楽となる大きな要因です。 実際の音楽の演奏場面で、意識的に、もしくは無意識のうちに、 この揺れや間は多く使われています。歌を歌い始める時やフレーズの切れ目で「息をつく」が、この間の原点です。


次に音の強弱についてです。強弱記号の p f をどのような音量で演奏するのか、演奏者に委ねられます。 次の例、 A. BrucknerのSymphony No.4 第一楽章冒頭にあるように、弦楽器群に pp, ホルンのSoloに p と、 曲の同じタイミングで異なる強弱記号を使う場合も多くあります。 勿論、BrucknerはホルンのSoloを聴かせるために、このような強弱記号の使い分けをしていますが、 音量のバランスは演奏家が演奏場所の音響なども考えて答えを出していきます。


Anton Bruckner : IV. Symphonie Es, I Satz

指揮者によっては、弦楽器に最初の2小節間より、 ホルンが吹き始める3小節以降の音量を下げる演奏を求める場合もあります。 また、MozartのViolin協奏曲の5番(Kv219)には、f をどのように演奏すべきか、議論になる箇所があります。


楽譜に書かれている音の高さ(音高)はどうでしょうか? 実際の演奏場面では、主に奏者が微妙に調整しています。これは、細かな話は省きますが、 人が和音の響きで心地よく感じる音階と、旋律を演奏する時に心地よく感じる音階に差があるため、 自分の演奏する音の役割を考えた上で、もしくは、無意識に自然と使い分けています。


楽譜にある、更に抽象的な記述は、発想記号です。例えば、 animato 活き活きと、appassionato 熱情的に、cantabile 歌うように、 dolce 甘美に、espressivo 表情豊かに、spiritoso 精神を込めて等は、 演奏家に問いかけているような記述です。 勿論、比較的わかりやすい、alla marcia 行進曲風に、legato 滑らかに、 leggero 軽く、marcato はっきりと、morendo 絶え入りそうに、 等もあります。発想記号は作曲家の想いを表現している重要な要素ですが、 演奏方法は演奏者の感覚に委ねられます。


Sergei Rachmaninoff : Vocalise / Вокализ

RachmaninoffのVocaliseには、Lentamente. Molto cantabileという速度記号と発想記号が書かれています。 意味は「ゆっくり、より歌うように」となります。Vocaliseですので歌詞の無い声楽の曲です。 cantabile は“歌う(cantare)”に由来する発想記号ですが、ここでは「流れるように」と訳した方がわかりやすいかもしれません。

勿論、日本の音楽、例えば、佐藤 眞さんの合唱曲「旅」の中には「なつかしく」 という発想記号が書かれた曲があります。日本人なら、この言葉で伝わるものがありますね。 この発想記号の言葉が、その時代に、各人がどのように感じるかの多様性に、 音楽の魅力の秘密が有るように思います。ここまで、楽譜には書ききれない音楽の要素を書いてきました。

発想記号には、dolceとかsotto voceのように、音色に近い記述もありますが、 大切な「音色」は楽譜では書き切れない筆頭です。
音色の話は、また、別の機会に改めて。

次回については思案中です
ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第2回

会員 高橋 善彦

今回は、音楽の言葉となる譜面のお話です。最初の譜面はいつ頃作られたのか、ハッキリしていません。 現存する最古の譜面は、エジプトのオクシリンコス(Oxyrhynchus)遺跡で19世紀末に、古代エジプト、 プトレマイオス朝時代、紀元前3世紀頃のパピルスが大量に見つかり、その中に聖歌が残っています。 また、6世紀頃の聖歌を、修道院でパピルスに書き写した写本の断片がエジプトで見つかっています。(下図)

このパピルスの断片の中には、赤い丸で囲んだ所に、旋律の抑揚を示す記号が使われていて、 複数の人が音楽(歌)を共有して、一緒に演奏していたことがわかります。


Berlin, Staatliche Museen : P. 21319: Marianische „Troparia“

勿論、私たちが今よく見る譜面とはだいぶ違います。 聖歌は、教会の初期から何世紀もの間、口伝により伝承されています。 布教が進み、広く教会が建ち始めると、聖歌も普及させるために、 このような写本を作るようになります。 聖歌の旋律は、聖歌の言葉が持つ自然な抑揚(声調)に沿って組み立て、 言葉が正しく伝わるようにしています。 また、民謡のようによく歌われる旋律を基に、言葉の抑揚を当てはめている歌も多くあります。 次の例で、赤で囲った記号群が旋律の抑揚を表しています。


このような初期の譜面で使う記譜方法を「ネウマ記譜法」と呼びます。 このネウマ(Neume)という言葉は、ギリシャ語の「合図」「身振り」「息」という意味の言葉に由来しています。 初期の譜面は、礼拝の時、皆で聖歌を歌う時に、一緒に歌うために書かれた添え書きを起源にして、 各地域で実に多くの方法が考案され、地域の伝統として体系を受け継ぎ、統廃合を経て発展します。


抑揚を表す記号を、現在の譜面に対応させると、およそ、このようになります

その後、東ローマ帝国配下のビザンチン文化の中で、教会で行われる礼拝を見直し、 礼拝も聖歌も増え、旋律の抑揚を大まかに表す印では聖歌を区別出来なくなり、 旋律を明らかに表す記譜法が使われるようになります。 まだ、音の高さを表す五線は使われていませんが、この時代に、それまでの記譜法を集大成し、現在の記譜法の起源が生まれています。

音の高さを示す線が最初に使われる記譜法は、9世紀に出現します。 860年頃のフランク王国 Caroling朝の頃に書かれた音楽の理論書(Musica Enchiriadis)の中に、音の高さを表す線の間に歌詞を書き込む、 ダジアン(Daseian)の記譜法が紹介されています。まだ、線の間だけで、線の上は使われていません。

音の高さは示されるようになりますが、まだ、音の長さを示していません。 歌詞の言葉が話されるときの各母音の長さを、そのまま音の長さと解釈します。 歌によって、速く歌う旋律、ゆっくり歌う旋律という、今の速度記号にあたる記述があります。

11世紀になると、音の高さを示す線(譜線)を使ったNeume譜面が現れ、4本譜線を用いるようになります。 この譜面には、高い声用と低い声用の譜面が区別され、現在のハ音記号(下図の
赤丸印)、 ヘ音記号の基となる記述が使われています。

   


このような現代記譜法の基になる記譜法は、中世イタリアのアレッツォ大聖堂で合唱の指導をしていた修道士で音楽教師の グイード・ダレッツォ(Guido d‘Arezzo)が考案し、1025年頃、”アンティフォナリウム(Antiphonarium ; 聖歌曲集)序説”という著書の中で、 解説しています。グイードは、記譜法を整備しただけでなく、ドレミ(階名)の基となるUt-Re-Mi-Faなども考案し、音楽の教育に大きな影響を与えています。

譜線の本数は、その時代に活躍した歌手や楽器の音域の広さに沿って、本数が増えます。 その後、17世紀になって五線が定着します。それまで、4本線が主流の時代に、印刷の都合で6本の線を引き、 2本は単に間隔を確保するだけという譜面も残っています。 また、9〜11本の線が引かれている譜面もありますが、流石に見にくかったのでしょう、多くの線を使っている例は僅かで、五線譜に集約していきます。


9線譜が使われている、Viola d'Amoreのための譜面
Heinrich Ignaz Franz von Biber(1644 - 1704)
- Harmonia Artificiosa VII scordatura notatati(1696)

譜面の横方向=時間の流れは、歌詞の言葉の長さで表していたのですが、 14世紀頃から楽器だけで演奏する曲、器楽曲が増え、音の長さ(音価)を楽譜で表すようになります。 定量記譜法(mensural notation)と呼び、時代によって使われる記号は変化します。 17世紀に、ほぼ現在、使っている記号になります。
記譜法で使われる音価記号の種類の数は、時代の音楽の表現や、演奏技術によって変化しています。

楽譜の発展に大きな影響を与えたのが、楽譜の商用印刷です。 グーテンベルクが活版印刷を開発した20年後に、当時、音楽の中心地であったVeneziaで、 ペトルッチ(Ottaviano Petrucci)が商用の楽譜印刷を始め、1501年にHarmonice Musices Odhecatonという歌集を出版しています。


Harmonice Musices Odhecaton
Josquin des Prez : Adieu mes amours

楽譜が印刷出来る前は、譜面は手で写し写本を作って、音楽を広めていました。 譜面を写す専門職が居ました。楽譜の印刷が出来るようになった以降も、譜面は常に必要とされ、 つい最近まで写譜職は健在でした。楽譜の印刷技術は、当時の音楽家に新しい収入の道を与え、その後の音楽の発展に大きく寄与しています。

ペトルッチの印刷譜面を見ると、充分に綺麗です。五線、歌詞、音符の順番で3回に分けて印刷しています。 1520年頃の英国で、ラステル(John Rastell)が1回の印刷で済む廉価版印刷を始め、楽譜の印刷は広く普及します。 例えば、宗教改革の影響で、前宗派の音楽が大量に廃棄されていた時代の英国の名作曲家、ウィリアム・バード(William Byrd)等の作品が現在まで残ることが出来たのは、 印刷技術の恩恵を受け、大量の印刷楽譜がドイツ等大陸側に残っていたからです。

ペトルッチの印刷譜面を見ると、今の譜面と違うところが幾つかあります。 まだ、小節線がありません。小節線(縦線)が最初に使われるのは、 15世紀から16世紀の鍵盤楽器とvihuelaという楽器の曲から始まります。但し、一定の拍数を区切る線ではなく、 音楽の区切り、拍の印のように使われます。 現在のような小節線が拍子記号と共に一般的になるのは、17世紀中盤です。 モンテベルディ(Claudio Monteverdi)の印刷譜面の中には、小節線が使われ始めている曲が有ります。

もう一つ、大きな差は、装飾音符です。ペトルッチの頃の印刷技術では、小さな音符を印刷することは出来ずに記号で装飾音符を表しています。 装飾音符が印刷出来るようになるのは、もう少し後、J.S.Bachの時代に、銅板や亜鉛板を使い、表面に彫刻(engraving)し印刷する凹版印刷技術からです。


Johann Sebastian Bach : Goldberg-Variationen, Aria mit 30 Veranderungen
Nuremberg: Balthasar Schmid (engraved copper plates)

この譜面は、BachのGoldberg 変奏曲集の冒頭で、単音の装飾音符が使われています(赤矢印)。 装飾音のトリルも、tr.ではなく、+、髭付きのギザギザなどの記号を使っています(青矢印 )。

そして、Mozartの時代になると現在使われているような、小さな音符を使った装飾音符が、普通に使われるようになります。


Mozartの時代の装飾音符 (Klaviersonate Nr. 11, Kv.331)

まだ、譜面の歴史の話は途中ですが、今回はここまでです。非常に長い歴史の中で、 多くの人が音楽を伝える譜面を、その時々の音楽からの要請に応えながら、知恵と工夫を凝らして、 判りやすく使い易い記譜法を発展させてきました。 現在の記譜法は、非常に高い精度を持った、音楽を表現する言葉となっています。 是非一度、譜面を見て、譜面は音楽の目安でしかないことを実感してみてください。面白いですよ。

次回について

次回は「譜面は目安でしかない」とはどういう事なのか、音楽を演奏する時、指揮者や演奏者が何を補っているのか? を取り上げてみたいと思っています。

以降は、まだ未定ですが、音楽の表現方法についてベートーベンとヴィバルディの名曲を例に取り上げてみたいと思っています。
尚、ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

筆者

「クラシック音楽の楽しみ方」  第1回

会員 高橋 善彦

クラシック音楽の楽しみ方と題して、湘南日独協会の会報で、クラシック音楽を楽しむ方法を、 何回かに分けて、ご紹介させて頂くことになりました。 まず、簡単に自己紹介をさせて頂きます。 私が音楽を始めるきっかけになったのは、前回の東京オリンピック開会式、 当時中学一年生だった私は、ファンファーレを見て「トランペットを始める!」と思ったことです。 その後、高校生になって、鎌倉交響楽団と学校のオーケストラに所属し、バッハの音楽に出会い、 一気にクラシック音楽にのめり込みました。 その後、今でも演奏活動、指揮活動、音楽史の研究活動を続けています。

皆さんの中にも、クラシック音楽を聴いたり、見たり親しまれている方は多いと思います。 もう少し楽しんでみませんか?と、お薦めしているのが、「家で」音楽を楽しまれる時、 手元に「楽譜」を置いて楽しんでみませんか?ということです。演奏会ではありません。 家で楽しまれる時の話です。ここで、楽譜とは、指揮者が見るスコアのことです。スコアは英語のScore、 日本語では総譜、イタリア語ではPartitura、ドイツ語ではPartiturで、 オーケストラ全部の楽器の譜面をまとめたものです。

「譜面は読めない」と思われる方が多いのですが「読む」ではなく「見る」です。 楽譜とは長い歴史の中で生まれてきた、音楽を記述する方法で、実に良く出来ています。 作曲家が音楽を作るとき、スコアの形にまとめます。有名な曲のスコアをご紹介します。 大作曲家ベートーベンの有名な、第5番交響曲「運命」の冒頭のスコアです。


Ludwig van Beethoven : Fünfte Sinfonie c-Moll, Opus 67 / Erster Satz

楽器の名前がイタリア語の複数形で書かれています。管楽器は、各パート2人です。 上から、木管楽器 Flautiフルート、Oboiオーボエ、Clarinettiクラリネット、Fagottiファゴットです。 次が金管楽器、Corniホルン、Trombaトランペット、Timpaniティンパニ、続いて弦楽器の5部という順番です。 Allegro con brioは音楽の演奏速度の目安を表しています。 Allegroは、日本語で「速く」「活発に」と訳します。曲がゆっくりなら、 Andante「歩くように」、Adagio「ゆるやかに」となります。でも、音楽を聴きながら、 スコアをご覧になる訳ですから、「この音楽は、Allegroなんだ」と思って頂ければ、それで充分です。

このように、音楽用語はイタリア語が中心です。細かなことを知らなくても、 感覚的に音楽を「目で見る」ことが出来るようになっています。 もう少し見てみると、冒頭はff (fortissimo フォルティッシモ)と書かれていて、 6小節からp (piano ピアノ)となっています。これはご存じの方、多いと思いますが、 強弱記号で、音の大きさの目安を表しています。

次の例は、同じく第5番交響曲の第二楽章、ゆっくりな曲ですので、速度記号は、Andanteとなっています。


Ludwig van Beethoven : Fünfte Sinfonie c-Moll, Opus 67 / Zweiter Satz

第二楽章の冒頭は、ビオラとチェロが旋律を演奏しています。譜面の下には、dolceと書かれています。 デザートのことではありません。「甘く」という意味の発想記号です。一番下のコントラバスには、 pizz.と書かれています。これは、ピッチカート(pizzicatoの省略形)、弦を、指で弾く奏法の指定です。 この第二楽章の最初を聴いていて、コントラバスが、指で弾いている音が、聞こえるでしょうか?

スコアを見て、知っていると聞こえてきます。これが、スコアを見る、一つのポイントです。「知っていると聞こえる」

次の例は、同じくベートーベンの第6番交響曲「田園」の冒頭です。


Ludwig van Beethoven : Sechste Sinfonie F-Dur, Opus 68 - Pastorale/ Erster Satz

第一楽章*の最初から少し後に続く、スコアでは次のページに、以下のような箇所があります。
(会報には「第二楽章」となっていますが、「第一楽章」の間違いです)


赤矢印の箇所:クラリネットが少し吹いて、これに引き続いて、オーボエが吹き始め、田園に着いた時の、 ワクワクするような旋律を演奏します。この時、下で2本のホルンが柔らかな田園風景の雰囲気を表す、 長いだけの音を鳴らします。チェロは風を表しているのでしょうか?

スコアを見ていると、
・どの楽器が何をやっていて、音楽を作っているのか
・楽器をどのように組み合わせ、一緒に演奏させると、どの様な音がするのか
・作曲家は、どんな思いを込めて、楽譜を書いているのか
というような、新しい発見があります。

スコアは、作曲家が書いた音楽を伝えられる全てですが、スコアに書かれている各記号を、ここで少し説明したように、 目安でしかないことがわかります。ここから先、どのように解釈して、どのように具現化するのかは、 指揮者を含めた演奏家の仕事です。ですから、スコアを見ていると、 カラヤンとバーンスタインの解釈の差が見えてくるかもしれません。

スコアを見ることは、音楽について、色々な発見、疑問など興味をお持ちになる、きっかけとなります。 オーケストラや音楽の歴史も潜んでいます。それに、美しい音楽の楽譜は美しいです。

スコアの入手方法

便利な時代です。ネットワークには、各著作権の消滅している、Public domainのスコアを、 いつでも見ることが出来るようにという趣旨で、 IMSLP(International Music Score Library Project)というサイトがあります。 非会員の場合、ダウンロード開始まで15秒ほど待たされますが、基本的に無料で使えます。 日本語で曲名、例えば、「ベートーベン 交響曲第5番 imslp」と検索すると出て来ます。

有名な通販サイトでも、スコアは入手できます。スコアには、小型スコアという、私の目には無理なサイズと、 大型スコアがありますので、ご利用になる場合はご注意下さい。料金も様々です。私は、Dover出版社から出ている、 ペーパーバックで、割安なものを愛用しています。 こちらは、例えば、ベートーベンの交響曲第5番、第6番、第7番の3曲が一冊になっている曲もあります。 内容については、じっくり確かめた上でご利用ください。

次回以降についての見込み

音楽と楽譜の歴史概要:どのように楽譜は生まれたのか、を知ると「楽譜は読めない」などと言う恐れは無用です。を予定しています。

以降は、まだ未定ですが、音楽の発展、弦楽器の歴史、管楽器の話、打楽器の話、何故、指揮者は必要なのか? 作曲家の話、 名曲の話などを取り上げて行きたいと思います。
尚、ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。

筆者

ご参考(IMSLP) - Die Sinfonien des Komponisten Ludwig van Beethoven:
  Beethovenの交響曲は、こちらからが便利です

  第五番交響曲 : 第一楽章 第二楽章 第三楽章 第四楽章
  第六番交響曲 : 第一楽章 第二楽章 第三楽章 第四楽章 第五楽章



Copyright(C) 2019- 湘南日独協会 All Rights Reserved.