会員掲示板

Back Number - これまでの寄稿など
(2020年)

これまで、ホームページに掲載した、当協会の開催イベントの様子、協会会員からの寄稿を、 ここに掲載しています

 【2020年】
  新型コロナヴィールス問題に想うこと(松野 義明)
  男はつらいよ! 寅次郎 in Bonn(大久保 明)
  「クラシック音楽の楽しみ方」  第6回(高橋 善彦)

  西鎌倉山親寿会のお手伝いをさせて頂いて(松野 義明)
  西鎌倉山親寿会主催 「ドイツロマンと文化の会」を1年間開催(池田 隆明)
  湘南日独協会に心より感謝(佐々木 俊文)
  1月例会 講演会「戦前日独の競合と協調の歴史」(望月 恭一)
  イナ・レーペル ドイツ大使歓迎懇親会に出席して(勝亦 正安)
  かまくら国際交流フェスティバルへ参加(鬼久保 洋治)
  2019年 望年会(中嶋 照夫)
  「クラシック音楽の楽しみ方」第5回(高橋 善彦)

過去の情報は、
  2019年の情報2018年の情報2017〜2018年3月の寄稿以前のイベント情報
からご覧頂けます


新型コロナヴィールス問題に想うこと

湘南日独協会会長 松野 義明

2019年12月半ば頃から2020年1月頃にかけて、新型コロナヴィールスという言葉が、 新聞やテレビの報道でしばしば話題になり始めました。 横浜港に入港していたクルーズ船ダイアモンド・プリンセス号の乗客への感染拡大が話題になり始めたころは、 正直に白状すると、私は、まだ、あまり大きな関心を持っておりませんでした。 しかし、その後、感染者数の増加速度が異常に大きく、しかも、 感染範囲がほぼ全世界に拡大していることを知るに至って、 非常に深刻な問題として考えるようになりました。 日本政府も、諸外国に比べると少々決断が遅れたようですが、 4月7日には緊急事態宣言を発令しました。それと共に、 様々な商業施設の営業自粛要請などとともに、我々の日常生活には、 三密の回避、手洗い、うがいの励行、マスク着用などが推奨され、COVID-19、 パンデミック、クラスター、オーバーシュート、ステイ・ホーム、テレワーク、ロックダウン、 ソーシアル・ディスタンス、PCR検査などといった耳慣れない言葉が飛び交い、 それらによって経済活動、教育活動、文化活動、家庭生活等に大きな制限が加えられました。

湘南日独協会もその例外ではなく、会員の皆様が心待ちにしてくださっていた3月、5月、6月の講演会はすべて中止、談話室SAS、 読書会もしばらくお休みにせざるを得ない状況で、 上記催事に多大なご関心をお寄せくださっている皆様には大変なご迷惑をかけることになってしまいました。 ドイツ語講座に関しましては、講師の先生方の熱心なご協力のお陰で、 オンライン講座という形をとって継続しております。 また、本来ならば、4月26日に、 会員の皆様のご出席を得て行うことになっておりました当協会の年次総会も、 電子メールと郵便の両方を用いた書面議決という異例な措置を取らざるを得ない事態でしたが、 会員の皆様のご理解とご協力のお陰で、無事済ませることができました。この場を借りまして、感謝の意を表させて頂きたいと思います。

私事ではありますが、ステイ・ホームの有効利用を模索しているうちに、 高校時代に読んだアルベール・カミュの「ペスト(1947年初版)」を思い出し、 我が家の書架の世界文学全集の中から引っ張り出して、読み返してみました。 そして、大変驚きました。正に、現代の新型コロナヴィールス問題そのままを予言する小説であったからです。 カミュは中世ヨーロッパを襲って人口の30%以上の命を奪ったペストを不条理の最たるものと捉えて、 自らが生まれ育ったアルジェリアの港町オランを舞台として、壮大な思考実験を行ったのでしょう。 港町オランがペストに侵されて、町全体が先の見えないロックダウンを余儀なくされた結果、 住民の普通の生活や経済活動が完全に麻痺し、肉親も引き割かれかねない究極の状況に直面して、 人間はどんな反応するのかという壮大な思考実験の報告書でもあったからです。

現在、我々が文化交流の相手国として長い間親しくお付き合いしているドイツといえども、 今回の新型コロナヴィールス災害のように、日本とドイツが全く同じ時期に、 全く同じ災害に襲われたことは、そう頻繁に見られる現象ではないと思います。 つまり、パンデミックはそう頻繁には起こらないものだとすれば、 日本とドイツ両政府の同一災害に対する施策の底を流れる基本的価値観の違いや、 施策立案に関して基本的なものの考え方の違いや、両国の各都市の災害対応措置の違い、及び、 その都市の住民の反応の違いを比較検討する貴重な機会かもしれません。 このような切り口から、両国文化の相互理解を深めることにより、互いに学び合えれば、 将来同じような災害に見舞われた時のより優れた施策立案のためによい参考になるでしょう。

今回の新型コロナヴィールスによる災害が自然災害として不可避なものであったのか、 あるいは、人為災害で、原理的にはパンデミックは避けられるものであったのか、 私には判断する能力はありませんが、いずれにせよ、災害を被ることは不幸なことです。 しかし、それを克服する過程から得られる知見はかけがえのない貴重な宝でもあります。 日本に比して移民、難民が多く、宗教の違いも絡んでくるドイツでは、 医療活動にも複雑さが表面化する場面もあったことが想像されます。 今後予想される日本の状態も勘案しながら、ドイツから学んでおくことが沢山あるようです。


男はつらいよ! 寅次郎 in Bonn

会員 大久保 明


館内の螺旋状の見学路を上がった途端思わずぎょっとした。写真の場面に出会った。 どうして「男はつらいよ」の寅さんの像がここにあるのだろうと。ケットに帽子そしてトランクを持って・・  寅さんはウイーンへは出かけたことは知っていたが、ボンへは知らなかった。 早速写真を撮り傍らの説明板を読んだ。寅さんではなく、所謂ガストアルバイター(外人労働者)の像であった。

この写真は説明によると、私が3度目の赴任をした、ベルリンの壁が落ちた1989年に、「Der Auslander 外国人」と題されて、 1950年代中ごろに多くの外国人がドイツへ、全財産を詰めてトランクひとつでやってきた、 その最初の外人労働者の象徴として、彫刻家のGuido Messerの製作した作品である。 彼は「外人労働者なのか移民者なのか?」と問いを投げかけているようだが、 彼らを迎える社会に対し「寛容」を呼びかけている、とある。 こんなところに、数年前からの欧州における移民問題にドイツが大きな役割を果たしている、 深いドイツ人の思いを、ボンの寅さんに感じた次第です。 (ちょうど一年前、友人のドイツ人の案内でボンの歴史博物館を訪ねました)


「クラシック音楽の楽しみ方」  第6回

会員 高橋 善彦

大バッハのお話(その3) 最終回です。
バッハの宗教曲の最高峰、ロ短調ミサ曲(h-moll Messe)から始めます。 ミサ曲とされているのですが、実際に教会でのミサに使われていません。 この曲は、演奏時間が2時間近く、実際の典礼には長すぎます。 全27曲 1部 Kyrie 3曲, 2部 Gloria 9曲, 3部 Symbolum Nicenum ニカイア信条 9曲, 4部 Sanctus, Hosanna, Benedictus, Agnus Dei に6曲と4部構成となっています。

きっかけは、1733年2月1日、バッハをDresdenから支援していたザクセン選帝侯、ポーランド国王のAugust II世の逝去です。 ザクセン選帝侯領内は、2月15日から7月2日まで喪に服し、音楽演奏を禁じます。 この間に、亡き国王を追悼するKyrieと、新国王August III世の即位を祝するGloriaからなる、 Dresden宮廷の為の小ミサ曲を完成させます。

この2曲構成の小ミサ曲を元に、ミサ通常文全文にまで拡張し、27曲の大作「ロ短調ミサ曲」にしています。 しかし、作曲の理由は不明です。バッハは自身の事を書き留める習慣が無く、曲についてのメモ以外、何も書き残していません。

曲の内容は、既に作曲していたカンタータ(12, 29, 46番等)から8曲を転用しています。 逆に、新しいカンタータ(191, 215番)へ5曲を転用している曲もあります。 バッハは敬虔なルター福音派で、ルターがラテン語の典礼文の使用を認めた範囲内で、 カソリック教会とルター派教会の両派の典礼文の差に配慮し、Sanctusの典礼文の一語だけを入れ替えています。
   カソリック派 gloria tua  あなたの栄光
   ルター派版  gloria ejus  彼の栄光
バッハの最後の3年間、既に目が不自由になり譜面を書くのが厳しい時期、 ミサの第3部 Credo (Symbolum Nicenum, ニカイア信条)に手を入れ、 ルターの重要視したCredo(信条)の対称性を明確にしようとした、と推察されています。 そして、最晩年1747年頃に完成し、1748年/49年に全曲を浄書しています。 バッハの生涯に、ロ短調ミサ全曲を演奏した記録はありません。

バッハは、1730年代中期から、Goldberg変奏曲集、クリスマスオラトリオ、フーガの技法など、 特定の目的を持った連作、全集を創作し始めています。 ロ短調ミサを完成させた動機に、自分の解釈する、宗教音楽の様式と全ての技術を集大成し、 後の音楽家のために遺産として残そうとした意図があるように思えます。 バッハは、ロ短調ミサの中で、教会の派を越えた宗教音楽の本質を示し、後進の音楽家たちの研究対象となっています。

Collegium Musicum コレギウム・ムジクム
Leipzigの街を歩いていると、Katharinenstraseという街の中心にある道の14番地、Thomas教会から歩いて 6分程の場所に、次の写真のような石盤が建物の壁に有ります。ZimmermannのCaffee-Haus 跡に残る石碑プレートです。


1729年3月、バッハはTelemannが創設したCollegium Musicum(音楽の集まり)を引き継いでいます。 珈琲が大変好きだったバッハが、活動場所をLeipzig大学から、ZimmermannのCaffee店に移しています。

音楽学生や音楽家達に、新しい音楽を経験し研究する機会を与えています。 バッハは、教会でミサ開催以外の時間に、多くの新作の世俗カンタータや器楽曲を演奏し、 定期的に演奏会と練習風景も公開しています。バッハの珈琲カンタータも、ここで初演しています。 当時のLeipzigの街は交易で栄え、珈琲を普及させる核となった街です。 珈琲がまだKaffeeではなくCaffeeと、 流行の飲み物であった時期です。ここでの演奏会は、Leipzig市民に広く楽しまれていたのですが、 1741年に持ち主のZimmermannが亡くなり演奏会は終わります。 しかし、この活動が、Leipzig市民に音楽への愛好心を醸成し、 1743年の市民によるGewandhaus - orchesterの創設に結び付いたとされています。


Bach自身がデザインした 封印章 Siegel

音楽科学文書交流協会 (Correspondierenden Societät der musikalischen Wissenschaften) は、 作曲家と音楽理論家が参加し、音楽理論的な論文を回覧し議論し、音楽科学を推し進めることを目的とした協会です。 1738年にバッハの生徒であった Lorenz Christoph Mizlerが創設しています。 TelemannやHändelも既に会員で、バッハも1747年6月に14番目の会員となります。

会員になるために、肖像画と理論的で実践的な作品を提出します。この時のバッハの肖像画が、本稿の最初にある、 Elias Gottlob Haußmannによる「有名な」肖像画です。 バッハは、音楽の捧げ物の6声部の謎のカノン等数曲を提出しています。


ここまでのお話の、ロ短調ミサ曲、Collegium Musicum, そして上記の協会、いずれも方法は異なりますが、音楽の発展と後進の育成を目指しています。 これは、バッハに限らず、多くの作曲家、音楽理論家が持っている志です。 しかし、バッハは例外的に多くの後の作曲家によって研究されています。 明らかになっている例を少し挙げてみると、

Haydnは平均律クラヴィア曲集とロ短調の写本を所有、MozartはMotet集の写本から曲(K.404a, 405)を書き、 Beethovenは若い時期に平均律クラヴィア曲集を演奏し「和声の創始者」と呼んでいます。 Mendelssohnはバッハの音楽を復興していますので、多くの譜面を研究しています。 受難曲、カンタータ、ロ短調ミサ曲、オルガン曲などです。 Chopin, Schumann, Liszt, Gounod, Brahms, Bruckner, Wagner, Shostakovich, Villa-Lobos等の作曲家が研究しています。

Das Wohltemperierte Klavier 平均律クラヴィア曲集
直訳は「巧く調律された鍵盤楽器(Klavier)曲集」です。 意味から「平均律」と訳されています。全2巻の曲集で、第1巻は1722年、第2巻は1742年に完成しています。 第1巻の表紙には「指導を求めて止まぬ音楽青年の利用と実用のため、 又同様に既に今迄この研究を行ってきた人々に特別な娯楽として役立つために」と書かれています。 各巻ともに、全て24の調性の長調、短調を用い「前奏曲とフーガ」1組で全24曲となっています。

平均律の鍵盤楽器は、17世紀初頭には実用化されています。 平均律は音程の幅を均一にして、全ての鍵盤を均等な音程幅にしています。 均等な配置ですので、どのような調性でも、即ち、何個♭や♯が付いても、使う白鍵や黒鍵が変わるだけで演奏出来ます。

他の純正律や中全音律などの調律は、各調によって、鍵盤間の音程幅が均等ではなく不均一です。 演奏する曲の調に合わせて調律しなおす必要があります。 このような事情から、♯や♭が多く付く調性が使われることは希でした。 この様な調性の作品を演奏すると、どうなるのか?に応えた作品が、この平均律曲集で、音楽家達には刺激的だった訳です。

解りにくい「音程の幅を調整する」調律の話で恐縮ですが、調律についての議論は、 17世紀初頭、地域を越えて多くの作曲家が論文などで考えを述べ議論されています。 この曲は、平均律の決定版となるような作品です。

Die Kunst der Fuge, BWV 1080 フーガの技法
1748年8月頃、63歳のBach は目に問題が出はじめ、視力が徐々に弱っていますが、バッハ絶筆の作品、 「フーガの技法」に取り組みます。 フーガとは、最初に示された旋律を追いかけるように、次々と異なる音から始まる、最初の旋律を基にした旋律が現れる形式の音楽です。

14のフーガと4つのカノンを含み、未完成の最終19曲目のフーガを除き、 全てが同じ基本となる旋律を使っています。この作品には、考え得る全種類のフーガの技法と、構造の規則が描かれています。 また、絶筆した最後の曲の中音域に、BACHの文字を音名に置き換え、次のように埋め込んでいます。


バッハの音楽は、中世からルネサンス時代に確立されたフーガを代表とする対位法音楽と、 バロック時代のMonteverdi, Corelli, Vivaldiらが確立してきた、 和音を中心にする和声法的音楽を、理論とともに集大成しています。 また、美しい旋律に恵まれ、色彩に富んだ和声の変化とともに、魅力的な音楽を作っています。 このことが、後の作曲家達が研究する第一の対象とした理由ではないかと思います。

バッハは1000曲を越える作品を残しています。是非、自由に聴いて頂いて、ご贔屓の曲を見つけて下さい。

ご質問、ご希望、ご意見などは、協会の公式メールアドレス でご連絡ください。
記事の内容に全く関係の無い、音楽についてのご質問でも何でも結構です。ご遠慮なく、ご質問ください。 全てに巧く応えられるかどうかは、定かではありませんが、調べた上でご回答致します。

筆者

西鎌倉山親寿会のお手伝いをさせて頂いて

湘南日独協会会長 松野 義明

西鎌倉山に「親寿会」という、誠に家庭的で、温かい雰囲気のシニアクラブがあります。 このシニアクラブが、2019年5月から1年間をかけて「ドイツロマンと文化の会」 という一連の催し物を行うので、湘南日独協会も協力してほしいというお話を頂きました。 湘南日独協会としましても、地元の皆様と一緒に何かできるということは大変喜ばしいことなので、 一も二もなくお引き受けしたわけです。

初めての打ち合わせに西鎌倉山自治会館に伺い、佐々木名誉会長、 池田会長をはじめ数名のメンバーの方々とお話しした時、すぐに感じたことは、 このシニアクラブは、ただ家庭的なぬくもりに浸り、 老後の寂しさをお互いに漫然と慰め会おうという後ろ向きのクラブではなく、 全く正反対に、常に前を向き、常により高い文化教養を求める飽くなき意欲に燃えるクラブであるということでした。 メンバーの一人一人の方々のひたむきな知識欲と、得られた知識を心の糧にして、 それぞれの人生を豊かにしようという強靭な貪欲さが滲み出ており、 今、世間に喧伝されている老人の引き籠りや、はては、孤独死などという悲しい話とは無縁の社会でした。

このようなクラブの活動をお手伝いできることに、大きな意味と責任を感ずると同時に、 心の奥底から満足していただくにはどんなお手伝いをしたらよいのだろうと真剣に考えずにはいられませんでした。

いろいろ心配も致しましたが、親寿会の佐々木名誉会長や池田会長から頂いた書状を拝見しますと、 結果的には、なんとかご満足いただけたようなので、ほっと胸をなでおろすと同時に、 お手伝いをさせて頂けたことを本当によかったと思っています。 この期間中、全面的に関与していただいた勝亦正安副会長、伊藤志津子理事、 吉田克彦顧問、高橋愉紀氏、八尾とし子氏、赤崎玲子氏の皆様に、この場を借りまして、深く御礼申し上げます。


西鎌倉山親寿会主催
「ドイツロマンと文化の会」を
1年間湘南日独協会の協力で開催


西鎌倉山親寿会会長
池田 隆明 氏

親寿会とは、鎌倉市の西鎌倉山にある住宅地の住人を中心とした 60歳以上約100人の会員からなるシニアクラブです。 14年前に創設した歴史的には比較的新しい高齢者の団体ですが、ボランテイア活動、 健康活動などいろいろな活動を活発に行っています。 その中で教養文化活動の一つとして、2019年5月から始めたのがこの「ドイツロマンと文化の会」です。 老人会独自の事業でこのような講座を1年間継続して毎月開催することは、 他に殆ど例が無くかなりの困難性が予想されましたが、 会員の中に昔ドイツで勤務して生活していた人や業務出張や観光でなじみのある人などがいる事 またドイツの経験の薄い人でもドイツの文化や歴史に関心のある人もいる事、 そして何よりもドイツ大使館などを通じて知り得た、 湘南日独協会さんの支援を得られそうだとの事が決め手になり、 この会を開催することになりました。

第1回目が5月19日に西鎌倉山自治会館でスタートしました。 先ずは初回という事で、前半はドイツの現況、歴史、地理その他について、 元ドイツ在住の親寿会会員の三枝樹元子さんのご次男で前ドイツNRW州経済振興公社取締役であった 三枝樹洋さんに、講師となってもらい概説をお願いしました。 後半はドイツクラシック音楽をバックにドイツ主要都市を映像で鑑賞し合間には 音楽や都市の情景を講師及び参加者が話し合う形で進めました。 当日の参加者は前評人気もあつて会員以外の当地域外の方なども含め34名の多くの方が参加しました。

湘南日独協会さんからも、松野会長、勝亦副会長、 伊藤理事も出席して頂き大変盛り上がった会となりました。 その後6月、7月「世界遺産の旅」8月「ドイツの食文化について」 9月「ドイツオペラを楽しもう」10月ドイツ映画「菩提樹」 11月「ピアノトークコンサート」12月「南ドイツを旅して」1月「パネル座談会」 と続けて開催してきました。 この間、湘南日独協会松野会長にお願いして前記の 10月、11月、1月の内容について全面的にご協力を頂きました。 10月は協会さん所有のDVDをお借りして、 当日は江ノ電沿線新聞取締役の吉田さんに解説をお願いしてドイツ版「菩提樹」を上映しました。 11月には、36年間オーストリア、ドイツでプロピアニストとして活躍してこられた 高橋愉紀さんに特別にお願いして「ピアノトークコンサート」を開催しました。 バッハ、シユーマン、ショバン、ブラームス、リスト、モーツアルトなどから 馴染み深い曲から選んでいただいた素晴らしい演奏と長年の海外生活での ユーモアあふれたトークに参加の皆さん大変な感銘を受けました。

2020年1月には、本会の集大成的な意味合いで、長年ドイツ、 オーストリア、スイス等で生活されてきた方々を中心に「パネル座談会」を開催しました。 湘南日独協会さんから、松野会長、勝亦副会長、伊藤理事、赤崎玲子さん、 八尾とし子さんに参加して頂きました。特にパネラーとして、 ドイツ在住30年当地で寿司カフェを営んでいた赤崎さんの最近のドイツ事情の話など、 多くの興味深い話で皆さんの会話も弾みました。

このドイツの会のもう一つの特徴は、 毎回第2部として参加者の懇親会を持ったことです。 親寿会でドイツの会の開催にあたり最も熱意をもつて対応してきた佐々木名誉会長が、 毎回簡単ではありますが何らかのドイツ風の手つくり料理を提供してくれました。 この懇親会には湘南日独協会の皆さんも参加して頂き、 親寿会の会員との間でドイツの話を中心に大いに盛り上がりました。 この中で、松野会長の同じ旧制中学の同学年で約70年ぶりに初めて出会ったという、 親寿会員の小須田理事との出会いや、スイス在住の同じ時期に同じドイツ語の先生に 習っていたという伊藤理事と三枝樹洋さんの出会いなど、 奇遇というのか人の出会いの偶然さも経験した会でした。 本会の開催、実施に当たりご協力、ご支援を頂いた湘南日独協会さんの役員の皆さん、 特に理事の伊藤志津子さんにはいろいろとお世話を頂きました事に関し心から感謝を申し上げます。


湘南日独協会に心より感謝

親寿会名誉会長 佐々木 俊文

2019年4月より開始した、私共親寿会の文化事業の一つ、 ドイツロマンと文化の会に多大のご指導・ご援助を頂きましたことにあつく御礼申し上げます。 親寿会は本年4月には創立十五周年を迎えますが、 会の基本理念を「友好と親睦」「相互啓発に相互支援」「社会貢献」 「文化教養活動」「健康福祉活動」に置き、会員仲良く楽しくしております。 此の度の湘南日独協会の素晴らしい組織と活動内容を知るにつけ、 皆様方の豊かな人間性、実に深い学識、高い教養に触れ、感銘を受けております。 私個人の過ぎし青春の中に、ドイツの音楽・文学・芸術にあこがれていた思い出が数多くあります。 何卒、今後共種々ご教示下さるようお願いいたします。湘南日独協会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。


高橋 愉紀さんの演奏


高橋 愉紀さんのへの花束贈呈
向かって右から2番目が佐々木名誉会長


1月例会 講演会
「戦前日独の競合と協調の歴史」

     講師 五百旗頭 薫 東大大学院教授


会員 望月 恭一

松野会長から新年のご挨拶と今日の講師を紹介された。五百旗頭薫教授は お父上をはじめ、内外で活躍されている学者が輩出された家庭の中で育ち、 日本政治外交史の若き新鋭の学究であると紹介され、早速ご講演が始まった。

東日本震災の中、ベルリンに滞在していたため、日本についての関心が集まり、 ボッタムに保管されていた日本に対する新しい分野の資料が比較的容易に公開されたので、 日本の視点から、調査研究ができた。

ドイツ側の日本に対する国家モデルとして開国、維新当時の重要な存在意義として、 将軍、大名、侍、天皇があるとみている。先生は、特に下級武士の活躍に目を向けられていた。

当時幕府側は、アメリカに関心を示していたが、官軍側は、英国の政体を重視していた。 しかし、岩倉使節団の最初に訪問したのは、米国であり、 清廉潔白な大統領ジョージワシントンに感銘した。 1968年6月に発布された維新新政府の政体書は、議政官、行政官、 刑法官の三権分立をうたいアメリカ的であった。つまり維新を主導する薩長政府は、 アメリカの影響を大きく受けていたわけである。

維新政府が北海道開拓を重視し、クラーク博士、新渡戸稲造、新島襄など、 アメリカ関係の人たちを送り込んだことでも理解できる。 1878年大久保利通が暗殺された後、政治は伊藤博文(ドイツ寄り)と大隈重信(英国寄り)の時代となる。 1882年伊藤博文は渡独し憲法調査では苦労するのだが、シュタインからスピード感ある行政の重要性を学ぶ。 1889年に明治憲法が公布され、1900年に伊藤は立憲政友会を作るが、これが今の自民党の原型である。

1894〜95年の日清戦争があり、独ソ対立や日本への三国干渉などを通して、 ドイツの東アジア進出が始まり、1897年膠州湾をドイツが占領し、租借を始める。1904年日露開戦。
1914年第一次世界大戦が勃発し、日本は対独参戦し、西太平洋のドイツ諸島を平和的に占領し、 青島は武力で占領した。中国政府には21カ条要求を提出している。
一次大戦後、1919年パリ講和会議が開催し、ヴェルサイユ条約が調印されたが、ドイツに対して厳しい内容であった。
1934年ヒトラー、首相と大統領を兼任。1936年日独防共協定調印、1939年第二次世界大戦はじまる、 1945年第二次世界大戦終了。
1949年ワシントン外相会議でドイツ連邦共和国(西独)とドイツ民主共和国(東独)が成立。西独、ヨーロッパ経済協力機構に加盟。
1955年西独は主権を回復し、NATOに加盟。ソ連、東独の主権を承認。1961年ベルリンの壁構築。1989年ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一へ。
1992年マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)調印し批准した。
1995年ドイツ、フランス、ベルギーなど7ケ国の人の移動自由化。2002年欧州単一通貨ユーロの流通が始まる。
2020年英国、欧州連合(EU)から離脱。

先生のご講演は、第一次世界大戦終了までであったので、私自身の勉強のため、 英国EU離脱まで書き加えました。聴講の皆様は、先生のご講演をよく理解され、 質問内容も鋭かった。私は、このようなレベルに達していないが、少し感じたことを書くことにした。

伊藤博文を含めて、倒幕の主要な役割を果たした薩長の若侍たちは、 みな英国かぶれと思っていたが、これは私の固定観念であった。 それにしても、伊藤博文は、いろいろ苦労を重ねた上、シュタインに会えて、 憲法問題だけでなく、行政の大切さを学んだことは、彼自身だけでなく、日本にとっても幸せなことであったと思う。

先生のご講演から私が感じたのは、 「日本の行政、外交、安全保障の問題について、守りの姿勢だけでなく、 冷静に科学的にそして力強く対処することが求められている」ということであった。 しかし、最近の新型肺炎の問題など、限られた事実関係の中で、 どう対応してゆくのか現実の問題は厳しい状況に置かれているのも事実である。

  
五百旗頭 先生                懇親会      


イナ・レーペル ドイツ大使歓迎懇親会に出席して

副会長 勝亦 正安

日独協会主催により、昨年9月に着任されたイナ・レーペルドイツ大使の歓迎懇親会 が、2月10日、広尾にあるドイツ大使館に直ぐ近いレストランで開催され、松野会長 ご指名により、中嶋理事と勝亦が出席しました。


大使を中に向かって左より中嶋、勝亦、大久保

大使は、北ドイツ、ニーダーザクセン州の小都市クックスハーフェンのお生まれ、 キール大学、ボン大学、また米国インデイアナ大学等で経済学を学ばれた後、 1988年ドイツ外務省に入省、各国のドイツ大使館や国連などに勤務、 ドイツ外務省アジア・太平洋局長の要職を経て、私の知る限り、女性初の駐日大使として来日されました。

歓迎懇親会は、ミニケストラの音楽演奏で始まり、東京日独協会中根猛副会長(元駐ドイツ大使) による歓迎の辞の後、レーペル大使が挨拶されました。 「日本全国各地を訪問して日本と日本人を十分に理解したい、 来年は160周年となる日独交流の歴史を踏まえて日独の友好関係を深め、一層発展させたい」旨、 力強く新任の抱負を述べられました。

大使挨拶の後は、日独協会出原悠副会長の音頭で乾杯があり、その後は飲食と出席者交歓の時間が続きました。
全国各地約25の日独協会関係者70名程が参加、主賓の大使を中心に大いに歓談、 懇親の実を挙げました。大使は出席者の応対に追われていましたが、中嶋理事、 勝亦、更に東京日独協会役員として出席の大久保理事と共に、 短時間ながら言葉を交わすことが出来ました。 大使は、眼鏡と真珠の首飾りが良く似合い、背は高く、理知的な、お優しい風貌ながら、 言葉は極めて明快でした。当方の講演依頼を快くお引き受け頂きましたが、年内は難しいとのことでした。

エーペル大使の他に、早瀬勇横浜日独協会会長、ゲオルグ・ロエルNRWジャパン社長、 野村松信秋田公立大学教授、末岡眞純仙台日独協会副会長、 更には6月ご講演予定のハインリッヒ・メンクハウス明治大学教授等々にもご挨拶出来ました。

予定の2時間は瞬く間に過ぎ、大使の日本でのこれからのご活躍と任務の成功を祈念しつつ、 夜の8時頃、中嶋理事と共に家路につきました。


かまくら国際交流フェスティバルへ参加

理事 鬼久保 洋治


恒例のかまくら国際交流フェスティバル2019は11月10日好天の中鎌倉大仏、 高徳院にて開催されました。 紅葉も始まり院内には外国人観光客も多くにぎわい各ブースは模擬店、 バザー、各国の活動紹介、展示、民族衣装、生花等体験コーナーと演技団体 (琉球舞踊、バリ舞踊、古典芸能、カントリーダンス、剣舞、武士、和太鼓) そして湘南日独協会のアルプホルン演奏がありました。 ドイツからの外国人を含む観光客が足を止めて観賞していました。 ダンケシェーンはアルプホルン、カウベル、 そしてアコーディオン演奏ではお客様が音楽にあわせて ダンスをされる方もおり大いに盛り上がり国際交流ができました。 出演者は8名サポートに4名と水谷理事、アムゼルの志賀リンデさんが応援に来てくれました。 協会行事が重なり手分けしての参加となりました。

ご協力ありがとうございました。


2019年 望年会

理事 中嶋 照夫

湘南日独協会の望年会(忘年会)が昨年の12月15日に藤沢駅北口の 「さいかや」8階で開催されました。 今年の望年会は新企画として「音楽の起源」と題して、 高橋理事により30分程度の講演頂きました(講演資料付き)。 「音楽の起源」の資料は、こちらから、ご覧頂けます

イタリアン料理とワインを飲食しながら拝聴、講演は紀元前メソポタミアから中世、 ルネサンスに至るあたりまでの話。 「演奏出来る最も古い楽器の話」「楽器はいつ頃のモノが残っているのか」 「音楽はどこでいつ頃生まれ楽しまれていたのか」 「東洋と西洋の音楽は、いつ頃に影響しあったのか」「音楽の基礎的な理論は誰が整えたのか」等々。 興味深い話、ピタゴラスが音階の音程を物理、数学的に定義した話等、 質問等も交えてわかり易く講演して頂き音楽の楽しさが伝わりました。

   
エジプトの楽器の壁画    ピタゴラスの実験(木版)
 

現存する最古の有線楽譜

同時に今年の新規入会員の方、非会員の方にも参加頂き、お酒が苦手の人にも楽しんで頂けたみたいです。 参加者も30人の内(女性9人:昨年は2人)と膨れあがり会場のイタリアン料理店 「トラットリア・ポッテ」いっぱいに参加者であふれ、 2時間の予定が会場の好意で3時間になり、恒例の如く自然発生的にドイツの歌の合唱で終わりました。 最後にはクリスマスプレゼントも頂きました。


「クラシック音楽の楽しみ方」  第5回

会員 高橋 善彦

前回に続き、大バッハのお話(その2)です。まず、Die sechs Brandenburgischen Konzerte ブランデンブルグ協奏曲集のお話から始めます。

1718年から19年にかけての冬、バッハがKöthen侯国Leopold候に仕えている頃、 Berlinを訪ねた際、Christian Ludwigブランデンブルグ辺境伯の御前で演奏する機会に恵まれます。 詳細は不明ですが、Christian辺境伯は、Leopold候の友人である当時のプロイセン王の息子ですので、 この旅にLeopold候の何らかの差配があったと思われます。 Christian辺境伯は、プロイセンの黒鷲勲章を受け、1721年春の受勲に際し演奏できる曲をバッハに依頼したようです。

曲の献呈句には「2年前に伯の御前演奏に際し賜った下命に従い」とあります。 献呈された曲の題名は、献呈句と共にフランス語で、"Six Concerts avec plusieurs instruments"
  「幾つかの楽器のための6曲の協奏曲集」
となっています。次図は、献呈用の手書きの表紙です。


Berlin州立図書館のAmalia蔵書が所蔵しています。 19世紀のドイツの音楽歴史家 Philipp Spittaが、この曲を作曲の経緯から「ブランデンブルグ協奏曲集」と呼び、 この呼び名が普及します。 この協奏曲集は、6曲の協奏曲を含みます。Köthen時代に書かれている器楽曲には、 フランス組曲や無伴奏など6曲を一組としている例が多く、この時期の特徴です。 6曲の協奏曲には番号が付いていますが、作曲の時期は早い方から、 6番, 3番がWeimarで, 1番, 2番, 4番, 5番がKöthenで作曲されています。 バッハは、特徴のある協奏曲6曲を選んでいます。

Köthen侯国の宮廷に優秀な器楽奏者が揃っていた事で、バッハは各楽器の特性を学び、 各楽器を独奏楽器として巧く使い、奏者に名人芸を発揮させています。 この協奏曲集では、非常に大胆な楽器の組み合わせを採用しています。 特に、協奏曲第2番の独奏楽器は、Trumpet, Recorder, Oboe, Violinです。 勿論、この時代の楽器と現在の楽器の特性は大きく異なりますが、 TrumpetがRecorderと並んで演奏するというのは、とても珍しいことです。 しかし、実際に演奏すると音量のバランスを保てるように巧く書かれています。

そして、それまで伴奏用に使われていたCembaloを独奏楽器として使い、 初のCembalo協奏曲と言える曲が、第5番の協奏曲です。 第5番が、最初にKöthenで書かれた初稿と献呈された譜面を比べると、 第1楽章の最後にあるCembaloの独奏部分の長さが、初稿の19小節から、献呈稿では65小節に拡がっています。

この経緯ですが、1719年、Köthen宮廷がBerlinの工房にCembaloを注文しています。 おそらく、事前にバッハがBerlinに出向き、2回目に楽器を受け取る為に訪れた帰り、 辺境伯の御前で、新調したCembaloをお披露目し、その時に演奏した第5番が献呈稿となり、 Cembaloの独奏部が見事に拡張されたと考えられます。


Cembalo独奏が始まる部分 献呈稿自筆譜面(1721年)

J.S.Bach Brandenburgischen Konzerte Nr.5 の参考音源はこちら(You Tube)から
(Freiburger Barockorchester @ Schloß Köthen)
J.S.Bach Brandenburgischen Konzerte Nr.2 の参考音源はこちら(You Tube)から
(Claudio Abbado @ Teatro Municipale Romolo Valli, Reggio Emilia, 21 4 2007)

Matthäuspassion マタイ受難曲
正式な題名は「福音史家聖マタイによる我らの主イエス・キリストの受難 : Passion unseres Herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」です。 新約聖書「マタイによる福音書」のキリストの受難を題材にしています。福音書に書かれている聖句と、 筆名Picander (本名Christian Friedrich Henrici)という同時期に活躍し、 バッハとは親しくカンタータでも一緒に働いている作家が書いた、宗教的な自由詩をテキストとして使っています。

Leipzigに着任後4年、1727年の受難日、聖金曜日4月11日に、カンタータ1年分に匹敵する大作を演奏します。 マタイ受難曲は二部構成で全68曲、合唱とオーケストラとオルガンが各2組で、演奏は3時間を越えます。

福音史家(Evangelist)が聖句にある物語を語り、イエス、ピラトら弟子、大祭司達、シオンの娘、 罪の女等の登場人物、群衆で物語の情景を描いて行きます。この時代には普通に使われ、今は見慣れない楽器、 Viola da gambaが独奏楽器として登場します。 バッハの時代、教会内で女性が歌唱することはありません。女声は少年合唱とカウンターテナーが歌います。
物語の情景、人々の感情、登場人物の関係、言葉の意味などに従って、楽器だけでなく、 合唱の声部の数、和音とユニゾン、音楽の様式など、 音楽の構造を非常に精緻に考えて作られた名曲です。 イエスの言葉には、常に弦楽器が後光を表現し、最後の言葉では、一息、沈黙します。 物語と心象風景を音楽で表現しています。 2つのオーケストラと合唱が交互に対向で歌う場面は、最初の曲にも出て来ます。 合唱を2つに分けて交互に歌う交唱(Antiphona)は古くから教会音楽で使われている様式ですが、 「見よ」/「誰を?」のように、歌詞に従った「必然的な」表現方法として使っています。 演奏すると、物語に沿った問いかけと応答の言葉が左右から聞こえる劇的な効果も持っています。

J.S.Bach Matthäuspassion の参考音源はこちら(You Tube)から
(Georg Christoph Biller ; Thomaskantor @ Thomaskirche Leipzig)


Viola da gamba


バッハがLeipzigのトーマス教会の楽長という重責に就任してからの苦労話を少し、輪郭だけですが。。。

トーマス教会は市の評議会下にあります。トーマス教会の上司には教区監督がいます。 また、1409年創立の古いLeipzig大学があり、 大学に付属する聖パウロ大学付属教会での礼拝はトーマス教会楽長が行う事になっています。 ということで、音楽の発展を望むバッハが、音楽活動のために調整する相手は3人も居ます。 勿論、バッハを支援する人も居ましたが、市の慣習に無い、予算が無いと反対されることも多く有りました。 (実は、マタイ受難曲の初演の時も、場所や予算、慣例などでもめていますが、最終的にはバッハの希望通り、トーマス教会で初演しています)

面倒な状況の中、救済を与えたのは、Dresdenに居たバッハの音楽を支持する、ザクセン選帝侯で、 ポーランド王であったAugust II世とAugust III世です。二人の国王はバッハからの請願を聞き入れ、 宮廷作曲家の肩書を与え、Leipzigでの音楽活動の環境は整います。

     
Friedrich August I., August II. (Polen)   Friedrich August II., August III. (Polen)

おそらく、この様な面倒を経験したバッハは、トーマス教会の付属学校からLeipzig大学と、 膝元で育った次男のCarl Philipp Emanuel Bachが音楽家になると決めた1738年に、 後のプロイセン王となるFriedrich II世の王宮に奉職することを薦めたようです。 Carl自身、この配慮に感謝し、教えを守ります。 Friedrich II世は、バッハに逢うことを熱望し、充分な敬意を持って接したという話が残っています。


   Friedrich II.      C.P.Emanuel Bach      Johann Quantz
A. Menzel: Sanssouci宮殿でFlute演奏するFriedrich大帝

1747年5月、バッハはBerlinを再び訪れます。この訪問は、7年前に戴冠したFriedrich王 II世が、 バッハと知り合えるように、王室奏者のCarlに父親と同行するようにと、 新築のサンスーシ宮殿への招待に応えたものです。 バッハの馬車が門に到着した時、大帝は「諸君、大Bachの到着だ!」と演奏を中断して出迎えます。

Friedrich大帝は音楽に造詣が深く、フルートは名手Quantzに師事し大変巧く作曲もします。 音楽を充分に理解し、バッハに何を望み、依頼すれば良いのかを承知しています。 バッハも、充分に理解して貰えると知りつつ、“音楽的な難題”を見事に解決し、 作品として仕上げた「音楽の捧げもの」を献呈しています。

次回、あと1回バッハのお話を続けたいと思います。


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筆者



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