会員掲示板







日独のモノレール2社の提携の橋渡し

   
湘南モノレール           ブッパータール空中鉄道

湘南モノレール社とドイツ・ブッパータール空中鉄道社の2社は 「姉妹懸垂式モノレール提携」を9月13日に締結の運びになりました。 この日は、120年前の1898年9月13日、ブッパータールの400mのテストトラックで 最初の懸垂式モノレールの試験走行が行われた記念すべき日です。

湘南モノレール社は9月8日(土)朝10時より大船駅に於いて、記念式典を行う予定です。 また、9月9日(日)〜16日(日)の間、江の島に於いて、 セーリング競技ワールドカップ(兼・五輪テスト大会)が開催されますが、これに先立ち、 8日(土)11:30より江の島に於いて、同Welcome Festivalが催されることもあり、 同社記念式典は8日(土)10:00開催としたものです。

本式典後、本提携を記念した特別列車を、本年末まで運行の予定です。 また、9月8日(土)の式典時・以降に、幾つかの記念イベントを計画しております。
上記に係るプレスリリースにつきましては、8月28日(火)夕刻にリリース予定です。

一方、ドイツWSW社側は、前述の通り、9月13日(木)が記念すべき日ですので、 同日にプレスリリースを行い、その後にイベント開催を計画されています。

この提携には、湘南日独協会西山忠壬顧問が協力し湘南モノレール尾渡英生社長から多変感謝されています。 8月28日のプレスリリース等祝賀行事の詳細などは 湘南モノレール社のホームページ をご覧下さい。


出版のお知らせ


『黒おばさん』
クララ・フェヒナー原作(ドイツ語)、19世紀メルヘン集の初の日本語翻訳が出版されました。
会員中村茂子氏の翻訳、発行 幻冬舎、1,080円(税込み)です。


湘南日独協会 創立20周年記念行事
記念コンサートが盛会に終了

湘南日独協会創立20周年・混声合唱団アムゼル15周年記念コンサートは、 鎌倉芸術館小ホール600席をほぼ満席にして盛会に終了致しました。 当日は晴天で早くから並ばれる方も多く予定を早め開場し、 ドイツ大使館フォン・リムシャ公使、鈴木藤沢市長、 創立当初に協会運営に尽力された鎌田哲男夫妻がいわき市から、 川本美臣氏夫妻が佐倉市から駆け付けられました。

松野美智子会員のヴァイオリン演奏と合唱団アムゼルの熱い演奏で盛り上がり、 フィナーレをオペレッタ「こうもり」を共演賑やかに、笑顔笑顔のコンサートでした。

    
(左)公使の通訳をする松野会長    (右)挨拶される鈴木藤沢市長
松尾鎌倉市長からは祝電を頂きました。


    
(左)ヴァイオリン演奏          (右)いわき日独協会よりの額の贈呈



出演者とコンサートの運営に関わった皆様



湘南日独協会創立20周年おめでとうございます
 合せて 混声合唱団「アムゼル」創立15周年おめでとうございます

合唱団「アムゼル」で歌う楽しみを知る

会員  アムゼル団員 橋本周也

結成後1年の2004年の春に入団。当時団員は20人位だったでしょうか、それから14年が経過した今、 50人の大合唱団に成長したのは正に夢のようです。

そんな中、今年5月18日に開催された「創立15周年記念コンサート」にメンバーの一員としてステージに立ち、 仲間達と歌えたことに大いに喜びを感じています。そんな「アムゼル」の活動を通して自分を振り返ってみたいと思い筆を執りました。
入団した頃は「湘南日独協会」が主催する行事のアトラクションへの出演や、「ウルマー・カンマ―・アンサンブル」、 「ジルヒャー男声合唱団」など、訪日の合唱団と共演する「日独交流のコンサート」で毎年のようにステージに立つ機会がありました。 もちろん原語で歌うわけですが、私たちの歌が果たしてドイツからやってきた人たちに理解してもらえたかは疑わしく、 私は少なからず緊張して歌っていたことを覚えています。 入団5年後の2009年には藤沢市合唱連盟に加盟し、 その年から毎年夏に開催される「ふじさわ合唱祭」に参加することが一つの目標となりました。 それに伴って団の纏まりも一段と良くなり、梶井智子先生の情熱的なご指導と内海祥子先生の素晴らしいピアノ伴奏とが相俟って、 レパートリーを広げながら合唱団の歌唱力を上げることが出来たことと思います。 そして2013年開催の「10周年のコンサート」では、数多のドイツ歌曲に取組み、歌う楽しみを体感しました。


橋本氏の入団した当時のアムゼル

アムゼルの「15周年記念コンサート」に寄せて
先の10周年コンサートを経験して5年、成長したアムゼルの「15周年記念コンサート」の出来栄えなど、私なりの感想について触れてみます。

第1部の日本歌曲では、日本人なら誰でも思わず口ずさんで歌える日本の四季の歌4曲で、 観客の皆さんの雰囲気を和らげることが出来たかなと思います。 最初の「荒城の月」は無伴奏でじっくりと歌い、次に湘南の辻堂海岸で作詞されたという「浜辺の歌」は、 ご当地に因んだ選曲でした。 続く「赤とんぼ」、「雪の降るまちを」は、季節外れの感もなく普段の練習通りに歌えて、まずまずのスタートでした。

第2部はこのコンサートのメインイヴェント。先ずはモーツアルトの「夕べの想い」、「別離の歌」の2曲、 そしてブラームスのワルツ集「愛の歌」より6つの小曲、最後はクラッシクファンなら誰でもご存じの曲、 J.シュトラウスUの「美しく青きドナウ」のドイツ歌曲を歌い上げて、客席からは盛大な拍手を頂きました。 ここで歌った曲はいずれも2年を超えるレッスンを積み重ねてきました。 特にブラームスの「愛の歌」は私たちアムゼルのこれまでの歌唱力を超えた難度の高い曲で、 習い始めの頃は音程やリズムの調和がうまくとれず、なかなか練習に気乗りしませんでした。 今振り返ると正直な気持ち、“お客さまに聴いて頂ける代物” になるとは、私にはとても思えませんでした。 それでも、私たち団員の退く心の中に踏み込んだ熱意あふれる我らが智子先生の指揮・指導のお蔭で、 各パートがまとまりアンサンブルらしいものが徐々に出来てきました。 “練習はウソつかない”との喩は、 こういう時に使う言葉であったと認識した次第で、 練習にお付き合い下さった両先生には心から感謝しております。

そして第2部の後半は映画音楽とオペレッタ。 F.デーレ「すみれの花咲く頃(宝塚歌劇のテーマ)」、ハイマンの「ただ一度だけ」(会議は踊るより)の2曲を歌う。 その後は、ステージ一杯に広がってJ.シュトラウスUの喜歌劇「こうもり」より「シャンパンを讃える歌」を歌う。 女声合唱、梶井先生のソロ、男声合唱があり、 続いて「こうもりのワルツ」を歌いながらステップを踏むという合唱団「アムゼル」ならではの得意ワザを披露すると、 このアトラクションに会場一杯の聴衆からは拍手喝采の大受けでした。

私はダンスが下手で元々踊りながら歌うなどという器用なことはできないので、 このステージは遠慮させて頂きましたが、舞台の裾で頑張った皆さんに拍手。 その後、アンコールに応えジーチンスキー作曲の「ウィーン、わが夢の街」で再登場し、 ほぼ1時間近くのステージを終えて最後はロビースマイルでお越し下さった友人、知人に感謝とお礼を申し上げました。




第一部の舞台


ブラームスのワルツ集「愛の歌」より


J.シュトラウスUの喜歌劇「こうもり」より「シャンパンを讃える歌」



湘南日独協会創立20周年を迎えて


会員  大石 則忠


大石氏は前から2列目の向かって右の1番目、奥様は同列3番目です

1998年11月湘南日独協会の設立総会が鎌倉のPark Hotelで催されたのを鮮明に記憶している。初代会長は岩崎英二郎氏でした。 後の二代目織田正雄氏及び三代目松野義明現会長も出席されていました。 来賓としては藤沢、鎌倉の市長、鎌倉市の姉妹都市Weimar市の独日協会会長ほかを囲んでの発会式記念写真がスタートポイントです。 発起人の要として大活躍された江ノ電沿線新聞社の当時社長の吉田克彦さんの設立意欲に負うところ大でありまた。

湘南地域には戦前からドイツに関連が深い名士が多かったと存じますが、 殆んどの方々が東京サイドで活躍しておられたせいか当地での協会設立はむしろ遅かったのではないかと思います。 発起人の皆様の熱意の賜物で今日があると思います。

私事になりますが、家内の母親Hedwig Weckel Koh (1909−2012)はLeipzig出身でLeipzig国立歌劇場に所属したバレリーナでした。 大正時代にLeipzig高等音楽院に留学中の高勇吉と知り合い、 高勇吉の帰国後、昭和初期(1928)に霊南坂教会で結婚し渋谷の桜ケ丘に新居を構えたそうです。 ほどなく逗子に移り住みドイツ人の仲間も増え、戦後は鎌倉に転居し湘南とは縁が深くなりました。 “遥かなる波の音”と題したNHKのテレビ番組に取り上げられた、 ヴァイオリン英才教育として 知られる鈴木メソッド創立者の夫人ワルトラウト・ブランケさんは仲の良い友人で番組でも紹介されています。 其のほかにもドイツ人の友人は多く、釜石市長(1955-62)であった鈴木東民氏夫人トウルーデさん、 日本薬学界の創成期に貢献された長井長義氏(1845-1929)のテレーゼ・シューマッハ夫(1862-1924)、 その長男亜歴山(1877-1966)とはベルリンの日本大使館商務官時代に既知を得、戦後まで交流が続いたそうです。


Hedwigさん

由比ヶ浜のドイツ料理店“シー・キャッスル”では家内の母親Hedwigの100歳の誕生日には オーナーのカーラ・ライフさんが大変骨を折ってくださり、 長年白金台に在住のクリステイーネ今道夫人他多くのドイツ夫人がお祝いに参加して下さいました。 母親はその後湘南鎌倉総合病院に隣接のかまくらの愛の郷にて余生を送りましたが、 その間には、アムゼル会員のギゼリンデ志賀夫人、逗子のジグリンデ松尾夫人、 秋谷のヨハンナ川村夫人が最後までお世話をして下さり、103歳で天国に召されました。

私は独身時代に1961年から64年に掛けて、Wankel氏の発明になるロータリーエンジンのNSU・Wankel研究所に リエゾン・エンジニアーとして駐在しておりました。 デイーゼル・エンジンメーカー(ヤンマー)社員であり、 ドイツとの関係がほかならぬ繋がりがありました。 其のドイツ勤務時代に後に日本で結婚することになりました女性を私の大学時代の先輩に紹介されたのです。 当時彼女はHeilbronnの伯母の家に寄宿してドイツ語の習得中だったのです。 我々はそれぞれが東京へ帰国後、東京オリンピックの年1964年に結婚しました。 私達が藤沢に移り住んでから家内が吉田さんと知り合い誘われて当協会の発起人の末席に加えて頂き、 私もメンバーとなって20周年を迎える栄誉に浴している次第です。

思い出に残る2度のドイツ旅行


ヴァルトブルク城での一行

例えば2007年5月の旅行ではGoethe街道沿いのEisenach郊外のWartburg城の訪問でした。 音楽に造詣の深い方には馴染みの深い城内の音楽堂、 また宗教裁判に掛けられたマルチン・ルーターが囚われた小部屋にて 新約聖書のドイツ語への翻訳をされた歴史的お城だそうです。 地方ごとに方言が強く相互には通じない時代だったそうですが標準的ドイツ語に整えたと言う業績は特筆すべきであると存じます。

その旅行の最後の訪問地のPassauでは元の駐独の木村大使並びに高野大使夫妻が馳せ参じられました。 歓迎式典でのPassau市長の演説では方言は特異で、なるほど標準語の必要性を実感した次第でした。


Passau市長の挨拶

2013年5月の北ドイツめぐりでは、 東方への護りに備えたザクセン公の備えたElbe河沿いのKoenigstein要塞は岩盤の高さ240メートルの岩山にそびえ、 ノミとハンマーで150メートル以上の深さの井戸を掘り抜き、飲み水を確保した技には驚かされた。 ドイツ北海に面したRuegen島のSassnitzがドイツ人の長年の保養地ともなっており、 以西のBinzを経てBad DoberanからKuehlungsborn間のミニ鉄道約37Kmの旅は印象的でした。 其の鉄道は日本の鉄道マニアの垂涎の的であり、日本でもTV放映されました。

トーマス・マンの著作、ブッテンブロー家の人々の舞台であるLuebeckは海上保険発祥の地であり、 その発祥の地、船員会館(Schiffersgesellschaft)での昼食は貿易に携わる者にとっては感動させられる企画でした。

最後の訪問地はHamburgであったが駐独領事御臨席でのHamburg独日協会との盛大なフェアーウエル夕食会では アムゼルの皆様の合唱で締めくられました。


ケーニッヒシュタイン要塞


ノミとハンマーでの150メートル以上の深井戸


リューゲン島で


ミニ鉄道の車内

湘南日独協会20年間の活動は目覚ましい発展を遂げられています。 前半の十年にはドイツ語教室、アムゼル合唱団の設立とオクトーバーフェストの恒例化がすすみました。 また後半の十年には、藤沢市、鎌倉市の国際行事への参画も定着し、Singen Wir ZussammenやStammtisch等の行事が゙加わりました。 協会の体制としては、理事の若返り、若手会員の増大とますます、協会の活性化が顕著になったと存じます。

今後の益々の発展を祈念してお祝いの言葉といたします。



湘南日独協会小史

主な出来事
1998 湘南日独協会創立(11月14日)初代会長岩ア英二郎氏
1999 全国日独協会連合会加盟(2月)、ワイマール独日協会と姉妹提携(5月16日)

    

会報Der Wind(風)発行など協会の基盤が固まる。 また、7月にドイツフェア(湘南オクトーバーフェストの前身)開催。講演会や音楽会などを例会として開催。 ワイマール訪問とドイツ周遊の旅(9月)。
2000 引き続き、岩ア英二郎先生による「ドイツ語あれこれ」など講演会、例会開催。4月にドイツ語講座が開講。
2002 例会、ドイツフェアなどに加えてこの年ドイツ料理教室開催
2003 ワイマール独日協会一行が来訪(5月)。記念バレエ公演、祝賀会開催などで創立5周年を祝う。
2004 ワイマール市長、ワイマール独日協会一行来訪(11月)
2005 織田正雄氏が2代目会長に就任。日本におけるドイツ年にちなむ各種行事に参加。鎌倉交流フェスティバルに初参加。
2006 2月にワイマール市民訪問団来訪、鎌倉中央公園に菩提樹を記念植樹。来訪団と文化交流会開催

        鎌倉中央公園へ植樹


2007 5月に「ワイマール等ドイツ訪問の旅」。この年よりドイツフェアを湘南オクトーバーフェストと改め開催
2008 協会創立10周年。祝賀会にドイツ大使館プリンツ公使・ワイマール独日協会来訪団参加(12月)。HP開設(7月)

        10周年式典

2009 湘南日独協会の会報Der Windの紙面を一新し、会員が寄稿などを通じて積極的に参加する現在のスタイルになる。
2010 10月16日横浜のドイツ学園で「日独修好150年」の開会式が開かれ参加、当協会の記念行事も開始。
2011 日独修好150周年、ドイツから贈られた菩提樹を植樹(鎌倉、藤沢市内)

       奥田公園に植樹

会員の吉田克彦氏、久住多賀子氏が日独友好賞受賞、独日協会来訪団と交流会開催(4月)

       受賞後のパーティ
2012 例会、懇話会に加えて、「歌で楽しむドイツ語」など新機軸の催しが始まる、藤沢フェスティバルに参加。 宮下啓三先生逝去(5月)、後日偲ぶ会を開催
2013 アムゼル10周年記念コンサート(5月)、湘南日独協会創立15周年記念して、 ワイマールでの祝賀会と東部ドイツ・ユネスコ世界遺産を訪ねる旅、 小岩井農場見学会など実施
2014 例会を(8月を除く)通年実施へ。新企画「ドイツ人と話す会」が始まり(6月)毎月の催し3本体制が始まる。
ワイマール独日協会からBauhaus会長など23名が来訪。ヴォルフワイマール市長も同行、 各種行事で交流。フォン・ベアテルン独大使夫妻を迎えて歓迎交流会を開催(11月)
2015 松野義明氏が第3代会長に就任。月例行事に加え、 ケンペル・バーニー祭(箱根)鎌倉川喜田映画記念館の国際映画週間(ドイツ篇)への協力など協会活動の多様化が進む。
2016 会報Der Windの全面カラー化、増ページ、 連載企画などHPと両輪で協会行事の外部発信の一層の充実を図る。
2017 ドイツ語コースの拡充(入門コースの新設)湘南地区のドイツ語学習者へ確実に定着。 創立メンバーで初代会長岩ア英二郎先生逝去(7月)、追悼特集号を発行。



ミュンヘンでのチャリティーピアノリサイタル


会員 西川 麻里子


演奏する西川さんと荻野さん

2018年3月11日ドイツ、ミュンヘンのMOVIMENTOにおいて、東日本大震災チャリティーピアノリサイタル、 Benefizkonzert für die Tsunami-Waisenkinder in Japan 「震災孤児たちの希望ある未来のために〜ピアノの響きに乗せて」が無事終了いたしました。 今回のコンサートは、ドイツ在住のリヒター恵子様が主催してくださいました。また、 バイエルン独日協会 (会員数800名、ドイツ国内最大の独日協会) の皆様もコンサートの主旨に賛同してくださり、 独日協会の共催という形をご提案頂いてコンサートの宣伝活動に多大なるご協力を頂戴いたしました。


会場の皆さん

コンサート当日は、独日協会の浅野昭博様、主催のリヒター恵子様のご挨拶に始まり、 在ミュンヘン領事館より木村総領事様が日本語とドイツ語でご挨拶をしてくださいました。 総領事様は、ご家族お揃いでいらしてくださいました。


挨拶されるミュンヘンの木村総領事

皆様のご挨拶に続き、荻野美恵子、西川麻里子、塩塚美知子によるピアノリサイタルです。 荻野・西川のデュオによる、メンデルスゾーン作曲のデュエット、中田喜直作曲の組曲 「日本の四季」、ブラームス作曲のハンガリアン舞曲、塩塚のソロでショパンのノクターン、 ラフマニノフの前奏曲、エチュード、リストの「オーベルマンの谷」を演奏いたしました。

休憩なしで80分ほどのコンサートでしたが、満席のお客様が暖かく迎えてくださり、 本当に幸せな気持ちで演奏させて頂きました。 会場に集った方々が、国籍を超えて被災地に思いを馳せ、会場はなんとも言えない暖かい雰囲気に包まれていました。 また、 ドイツダイジェスト (ドイツに住む日本人のための日本語フリーペーパー)の記者の方が取材に来てくださいました。 これから、コンサートについての記事を書いてくださるそうです。


日本語の地元紙

休憩をはさみ、震災の教訓を紙芝居にしたもののDVD「吉浜のおゆき」英語版の上映がありました。 大船渡津波伝承館の斉藤館長のメッセージも流され、 震災や津波の怖さや被害を知らないドイツの方や若い世代にも、興味深く感じて頂けたようでした。

また、お洋服をご寄付いただく形でご協賛頂きました「うさと」の「うさとができるまで」の上映がありました。 日本から、タイのチェンマイから、ドイツ地方都市から、 たくさんの方が自費で足を運んでこのコンサートのためにご尽力くださいました。

私たち3名も、たくさんの方々のお気持ち、お支えの中で演奏をさせて頂けましたこと、 このような機会に恵まれたことに心からの感謝を感じております。

ご来賓9名、お客様61名、無料の中学生以下のお子様は5名で、合計75名の方に ご参加頂きました。入場料金と募金は1,895ユーロになりました。 こちらは羽田空港で両替をして、240,039円になりました。 渡独前に、日本でも募金したい、というお声に応えて2箇所でハウスコンサートを行いました。 日本円での募金が、93,700円ございましたので、募金額の合計は333,739円になりました。 たくさんの方のお気持ちが、被災地の子供たちに届くことを願っております。



ケンペルバーニー祭 参加


会員 大澤 由美子


記念碑の前で 左端が大澤さん

天気予報通り、15日は朝から雨、風の荒れ模様。 途中で、電車が止まるのではないかとドキドキしながら小田原へ。

小田原駅改札口で、「ケンペルが馬に乗り箱根の杉並木を行く姿とそれを眺めるバーニーらしき人物が描かれている」 幟と会員の関口氏、中村氏に迎えられ、三谷副会長、長谷川氏、中嶋氏と共に箱根に向かう。

傘もさせない風と雨の中をびしょ濡れになりながら箱根公民館に向かう。 この天候のため、第1部の碑前祭が箱根公民館で行われることになった。 式場の正面にはケンペル・バーニーの顕彰碑のほぼ実物大と思われる写真が貼られている。 式典の御多分に漏れず来賓の祝辞が続いたが,今年はバーニーの孫夫妻が参列され、アレキサンドラ・マナース夫人から祝辞があった。

バーニーが建てた碑文の思いを受け継ぎ箱根の自然保護活動をしているケンペル・バーニー会が 100年近く経ってもバーニーの子孫との関りを大切にしていることに感激した。 第1部の締めくくりは、地元の小学生たちの楽器伴奏で「箱根八里」を歌う。
箱根八里を大声で歌ったせいか雨に濡れ鬱々していた気持ちが晴れる。

第2部は講演会
講演は東海大学海洋学部 土井航氏の「ケンペルが見たタカアシガニ」であった。

1600年代に来日したケンペルが江戸参府の途中(静岡市興津付近)で見たタカアシガニを「シマガニ」 として著書『日本誌』に記述している。 このカニは岩手県から台湾までの太平洋西部の水深30m〜650mの海底に分布しているが、 数が多いのは相模湾、駿河湾、土佐湾で 他の海域では珍しいのだそうだ。 大きいものでは、両足を伸ばすと4mちかくあるそうだ。

そのほぼ100年後に来日したシーボルトは尊敬するケンペルが見つけたタカアシガニを 標本にしてオランダに持ち帰った。 持ち帰った標本からタカアシガニが新種であるとされた。

現在ではMacrocheira kaempferiという学名が付いている。 Macrocheiraは「巨大なはさみ」を意味する属名であり、 種小名のKaempferiはケンペルへの献名だそうである。

大正時代までは水揚げされても見向きもされなかったが、 最近は沼津あたりの食堂で名物料理として売り出されている。

第3部は懇親会、いよいよ、ワカサギとのご対面。 芦ノ湖のワカサギは大正7年に種卵を霞ケ浦から移植したものだそうだ。 高度成長期に温泉街から垂れ流される下水により湖の汚染は深刻となるが、 下水処理施設の整備により2000年代には10mまでの透明度が復活した。 時を同じくして、ワカサギの「芦ノ湖水槽内自然産卵法」が確立され、 沢山のおいしいワカサギが獲れるようになった。

懇親会のテーブルには、ワカサギのフライ、天ぷら、唐揚げの3種類がならんだ。 会の女性会員の方々が手作りしてくれたものである。 私はワカサギの目鼻立ちがはっきりわかる唐揚げが気に入った。 会員の方が注いで下さるお酒と会員の方が教えてくださるワカサギの話を 楽しむことができたひと時だった。

昼過ぎには青空がのぞく。式典終了後、6人で泥濘の道をケンぺル・バーニーの顕彰碑まで行き、 黙祷を捧げ帰路についた。(会員の関口様、中村様には、朝早くから、1日、あれこれお世話いただきありがとうございました。)




「モース博士と江の島」



「モース博士と江の島」藤沢市史ブックレット9

湘南日独協会の顧問吉田克彦氏は長年モース博士の研究をしておられます。 この度藤沢市の依頼により掲題のブックレットが藤沢市文書館より出版されました。

江の島を中心にしたモース博士の業績とともに、当時の近辺の歴史や生活、 またモース記念碑の設置経緯などが詳しく書かれています。 藤沢文書館及び藤沢市役所で取り扱っています。定価800円。


ワイマール独日協会会長夫妻と懇談

湘南日独協会と姉妹提携を結んでいるワイマール独日協会のPeter Käckell会長と夫人で同協会理事の制野かおりさんが来日し、 当協会の役員と両協会の関係発展について1月7日、 昼食を摂りながら懇談いたしました。 Käckell会長は物性物理で学位を取得し、つくば市の産業技術研究所に2年間在籍し、 アトムテクノロジー研究プロジェクトに参加した経歴を持つ知日家で、 現在は弁理士として活躍されておられます。 制野かおりさんは神奈川県出身で十数年前に渡独し、イエナ大学で職に就いた、現在も第一線で活躍する物性物理の研究者です。

ワイマール独日協会は会員数約60名、去年6月にIngrid Bauhaus前会長から現体制に変わり、 現在、ホームページの公開準備などを進めているとの事です。 席上、ワイマール独日協会から書道作品の展示などを通した交流促進などいくつかの具体的提案がなされ、 当協会からも双方の会員の関心事について会員限定のホームページなどで 情報提供してゆくなどのアイディアが出されました。 滞在中の多忙なスケジュールの合間を縫っての3時間余りの懇談でしたが、 互いに顔の見える交流をめざして連絡を取り合ってゆくことを約して終了いたしました。


両会長の固い握手


歓迎会の開場前で出席者全員



Bayreuther Festspiele 2017を観劇して

会員 中嶋 照夫

世界で一番チケットの入手が困難なオペラとして有名なRichard Wagnerの音楽祭に当選して、 ドイツのバイロイトという小さな町に行って来た。申し込みから10年以上かかる所を3年目で当選。超早い方だ。

演目:ニ-ベルングの指環(Der Ring Des Nibelungen)
指揮:マレク・ヤノフスキ-(Marek Janowski)
演出:フランク・カストルフ(Frank Castorf)
Das Rheingold
序夜 18時00分〜20時25分(休憩なし)
Die Walküre
第1夜 16時00分〜21時35分(休憩2回)
Siegfried
第2夜 16時00分〜21時50分(休憩2回)
Götterdämmerung
第3夜 16時00分〜22時15分(休憩2回)

今年が例年と違うのは、ヨーロッパ地区を襲うテロの脅威があるという事だ。Bayreuther Festspiele GmbHの公式事前発表に因ると、 祝祭劇場周辺は人と車の進入を数百mから規制してるとの事。持ち物も規制。(バック、飲み物、クッション等はNG) イブニングバックしか認めない。今年は特に厳しかったようだ。建物劇場に入るにはチケットを見せ、更にホール入場時にチケットのバーコードで情報をチェックする。 音楽祭には当選した世界46ヶ国から6万人ともいわれるワグネリアンが集まって4部作10幕(35場)+序幕に聞き惚れた。


バイロイト詣で


夜も綺麗だ!

毎日演目開始前15分前に数秒バルコニーで演奏があり、また10分前に予鈴、更に5分前にまた予鈴がある。 会場はコロシアム型なので1人が遅れて入場席に着こうとするとその列全員が席を立つような不便な造りだ。 (会場は2000人弱)定刻になると劇場内側から鍵がかけられ暗くなり、即劇が始まる。

Wagnerは音響効果を最高に保つため、エアコン設備は造らず、 座席はどこからでも見えるように急斜面になっていて、 オーケストラピットは天蓋に覆われて、指揮者すら見えない。 舞台に集中させるWagnerの工夫がある。 オペラには、演出、舞台装置、衣装、演技、歌手の声等による総合芸術とよく言われるが、 演出の占める割合が、その公演の大部分の印象を決めると思う。筋書は常に不変、 音楽も不変のはずなので演出家がどう読み替えて表現するかで良し悪しが決まる。 近年、ちまたでは演出の評判が悪かった。観客に伝わらず、難解であると。 音楽はどの場面も素晴らしく、100以上ある短い施律の断片、 つまり示導動機(Leitmotiv)が何度も何度も場を盛上げる。 音楽でも次の場面を知らせてくれる。BRÜNNHILDE役のCATHERINE FOSTER、SIEGLINDE役の CAMILLA NYLUND等々の哀愁を込めた切ない程までに精一杯歌い上げるソプラノ歌手に心が動いた。 特にDie Walküre第3幕1場で子供が胎内にいることに感激したSIEGLINDEが「愛の救済の動機」のLeitmotivが最も感動的な旋律だった。 『O hehrstes Wunder ! Herrlichste Maid !』 (こよなく貴い奇蹟よ!輝かしい乙女よ!)。 他にも印象的な旋律はある。そして終わればカーテンコールの大歓声でブラボーの嵐、 いつ終わるとも知れないカーテンコール(最大40分位)。 日本を出る時に心配してた眠気と暑さとトイレと木製椅子の居心地の悪さは忘れる程だった。 ようやく長年の夢が叶い、一息つかぬ間、素晴らしさに興奮冷めやらず、 Bayreuther Festspiele 2018の演目「Parsifal(舞台神聖祝典劇)」「Tristan und Isolde」等と宿泊ホテルを申し込んだ。 来年またこの感動が味わえるのを願っている。


開演前のファンファーレ


カーテンコール



湘南日独協会創立20周年記念
インターネットのドイツ語


岩ア 英二郎

岩ア英二郎先生は2017年7月逝去されました。20周年記念には「若者へのドイツ語の勧め」のご寄稿を約束頂いておりましたが叶わず、 2012年1月号ご寄稿を再度掲載しました。


「ルゥー不要!デミグラスソース不要!長時間の煮込みも不要!おうちにある材料で超簡単に出来る、 一押しの一品です」 これはたまたまインターネットで拾ったもので、 どうやらライスカレーのコマーシャルらしいが、 「超簡単に」や「一押し」は、明治や大正はもちろん、 昭和初期の人たちとっても読解不能の日本語にちがいない。 「超」について言えば、「超満員」「超一流」のように日本語特有の〈体言〉につけるならまだしも、 「いま超とてもスマホが欲しいんです!」や「当日朝から調整をはじめて、 すぐにグラススキーを乗りこなしてしまうあたりは超さすがでした」 などのように副詞と結びつけたりするのは、ネット言語ならではのことだろう。 「一押し」を「ひとおし」と読む人は正常な言語感覚の持ち主だが、正しく(?) は「イチオシ」と読むらしい。 どうやら「いちばんのお勧め」の意味らしく、「イチオシ番組」「通販イチオシ商品」等々、例を挙げればきりがない。

インターネットに風変わりな表現が氾濫するのはドイツ語でも御同様だが、 ここではその一例として、So Leute gibt es auch. を取り上げてみたい。 直訳すれば「そんな人々も存在する」ということで、たとえば、「あいつにも困ったものだ、平気で嘘をつくんだから」という相手の言葉を受けて、 Tja, so Leute gibt es auch.(でもねえ、そんな連中もいるのさ)と答えたりするわけだが、 正しくは Solche Leute gibt es auch. とすべきであって、Ist er wirklich krank? - So habe ich gehört. (あの人、ほんとに病気なの?― そう聞いたけど)やSei nicht so böse!(そんなに怒るな)などに見られるような副詞soが、 直接 Leute のような名詞を修飾することはあり得ない。厳密に言えば、これは誤用である。 いささか専門的になって恐縮だが、おおまかに説明しよう。so が「そのよう」「それほど」を意味することは、 上の例文でも明らかだが、「そのような人間」、「そのような考え」、「そのようなこと」のようにsoが名詞に直接かかる場合には、 so ein Mensch、so ein Gedanke. so eine Sache のように、かならず不定冠詞を介さねばならず、 so Mensch、so Gedanke、so Sache のような表現はあり得ない。 それでは複数形はどうなのか、ということになるが、その場合にも so Menschen、so Gedanken, so Sachen とするわけにはいかないので、指示代名詞(正確には指示形容詞)solch の助けを借りて、 solche Menschen、solche Gedanken、solche Sachen とするのが通例である。 十八世紀あたりから今日までの文芸作品にも、筆者の知るかぎり、so Menschen、so Sachen 的な具体例は、 皆無とは言わないまでも、ほとんどないに等しいし、現に、ドイツ語圏の native speaker に so ein Mensch の複数形は? と尋ねてごらんになれば、異口同音に solche Menschen という答えが返ってくるはずである。

上に So Leute gibt es auch. という例を挙げたが、それでは趣向を変えて、So Dumme gibt es auch. の場合ははどうだろうか。 両者は一見よく似てはいるが、前者が厳密には非文(文法的に正しくない文、ungrammatical sentence)であるのに反して、 後者は文法的にも非の打ち所のない文、という大きな違いがある。それはなぜか。文頭の So Dumme は、実は so dumm(それほど愚か、そんなばか) という形容詞が名詞化したもので、So Dumme gibt es auch. の文意は「それほどの愚か者も存在する」であり、 Ja, so Dumme gibt es auch bei uns in der Klasse. なら、「ああ、おれたちのクラスにはそんなばかな連中もいるのさ」ということになる。 つまりこの場合の so は、冒頭のSo Leute gibt es auch. に見られるような指示形容詞ではなく、 Wir müssen allmählich nach Hause. - Ist es schon so spät?(そろそろ帰らなくては ― もうそんなに遅いのかい?)、 Ich habe so Hunger! (すごく腹がへったな)などのように、程度の高さを示す副詞だからである。

ネット上に跋扈するこの種の実例をいくつかお目にかけることにしよう。Ich verstehe so Menschen wie dich nicht. (ぼくにはきみみたいな人間が理解できないね)/ Ich wünschte, es gäbe mehr so Lehrer wie Dich. (きみみたいな教師がもっといればいいのに)/ Auf so Bücher halt ich gar nichts. (そんな本には全然興味ないね)/ Ich suche so Bücher oder Texte auf Englisch, die einem Niveau der 9. /10. Klasse Gymnasium entsprechen. Kann mir da jemand etwas empfehlen? (ギムナジウムの9学年から10学年にかけての学力に相当する英語の本またはテキストを探しています。どなたか教えていただけないでしょうか?) / Dass so Verbrecher wie Hitler überhaupt an die Macht kommen konnten, war auch eine Mitschuld der Siegermächte des 1.WK. (ヒトラーのような犯罪者がそもそも政権を掌握できたということは、第一次世界大戦の戦勝国側にも共同責任があったのだ)。

それではそろそろ紙数も尽きたので、最後にso が不定冠詞を介さずに単数名詞と結びついている例(むろん誤用) を一つだけお目にかけよう。 So Musik wie die von Michael Jackson zum Beispiel, der Mann hat ein deprimierendes Leben, aber das merkt man seiner Musik nicht an. (たとえばマイケル・ジャクソンの作るような音楽だけど、 あの男はわれわれの気持を滅入らせるような暗い生活を送っているのに、 彼の音楽にはそれが感じられないんだよ)。英国出身の歌手ブレット・アンダーソン(Brett Anderson) がライン河畔の都市ケルンでドイツの雑誌記者と対談したさいのジャクソン批判の言葉だから、 英語での対話の独訳と思われるが、ということは、so Musik のような表現が、 ドイツのジャーナリズムの世界でもすでにごくふつうに使われているということだろう。(了)



老後の楽しみ ‐Der Wissensdurst-

随筆:松野 義明

齢を重ねると、若い時と違って、時間を限られたものとして感ずるようになり、 限られた長さの時間の中で自分が生きていることを自覚すると、 人間とは面白いもので、残された時間内に、 あと何をどれだけ「知る」ことができるだろうかということに関心が出てくるものらしい。 その関心の幅と深さは残り時間に反比例してどんどん高まってくるようだ。 「知る」ということは「なるほど!よく解った!納得した!」ということで、 それが達成された時の満足感たるや何物にも代えがたく、 その満足感に酔いしれて、興奮し、夜眠れないことすらある。 こうなると、限られた時間内にいろんな満足感を目一杯楽しもうという欲張った魂胆が頭をもたげ、 なかなか忙しくて、緊張感のある一日があっという間に過ぎてしまう。 「知識欲」は、多分、人間の本能なのだろう。ドイツ語にも“der Wissensdrang”とか“der Wissensdurst”など という「止むに止まれぬ逼迫感」が窺える言葉があるくらいだ。

話はがらりと変わるが、共に100km/hで並走する2台の車の一方からもう一方を見ると、 静止しているように見える。 でも、一方が速度を90km/hに落とすと、もう一方は10km/hの速度で追い抜いて行くように見えるだろう。 つまり、相手の速さは自分と相手の相対的な動きによって変わって見えることは誰でも経験していることだ。 ところが、Einsteinは、どんなに速く走る乗物から見ても光は一定の速度(ca.300,000km/sec)であるという 大胆な仮説を立て(特殊相対性理論1905)、今でもその仮説は生きている。 この仮説が正しいという解説も多々あるが、私は腹の底にコトンと落ち着く納得には至っていない。 Einsteinの顔に泥を塗るつもりは毛頭ないが、納得するにはどうしたらよいかを考えるのが私の現在の楽しみの一つで、 毎朝、胸をわくわくさせながらベッドから起き出している。こんなことは全く生活の役には立たないが、 ボケ防止にはなりそうだ。お奨めである。



Sommerfest in der Residenz des Botschafters
−ドイツ駐日大使主催 夏祭りに参加して−

会員 本澤 交



von Werthern大使と筆者




公邸のエントランス

台風一過で快晴に恵まれた9月18日、 ドイツ駐日大使公邸での夏祭りに参加するという貴重な機会をいただき、 広尾の街に15年ぶりに訪れることとなりました。

通りを少し歩くとすぐに聞こえてくるドイツ語、 お茶を飲もうと立ち寄ったカフェでも耳に飛び込んでくるドイツ語の会話…。 アーベーツェーも知らなかった15年前には感じなかった聞ける喜びワクワク感に、 いくつになっても学ぶことの素晴らしさを再認識させられた一瞬でした。

南部坂のドイツ大使館壁一面に貼られた絵画の数々“わたしのドイツ”は、 ドイツとの関わりを持った日本各地の小中学生の作品とのこと。 たくさんの子どもたちがそれぞれの経験や思いを描いた美しい絵からは、 微笑ましさや懐かしさと共に未来への希望が感じられました。

夏祭り冒頭、Dr.Hans Carl von Werthern駐日大使のお話の中でも、 若者たちへの期待のメッセージは印象に残りました。 未来の日独関係や世界を担う若い世代には語学を習得し、 大いに海外に出て自分の意見を述べて欲しいと仰いました。

皆様とのおしゃべりを通して日独協会各地に青年部の活動があること、 協会が行っている取り組みの中には日独双方学生の留学やホームステイ斡旋があることを知りました。 私もかねてから興味のあったホームステイ受け入れに挑戦し、 微力ながら若者のサポートに貢献できればと考えています。

日本各地60か所余り点在する日独協会とその歴史を木村敬三  元ドイツ大使からうかがうことができましたが、 大使をはじめ老若男女国籍問わず、北は函館、 南は鹿児島から来られた会員の皆様との交流は本当に楽しく大きな刺激となりました。

日々挫折しそうになりがちなドイツ語の勉強も、 先生方や会員の皆様との良い出会いがあってこそ。 継続は力なりを信じて今後も邁進し、 いつもどこかでドイツとの関わりを持ち続けていきたいとあらためて感じました。



2017年の夏休み、メンザ


会員 伊藤 志津子


友人と筆者(中央)


古いメンザの大きなコーヒーカップ

今年の夏はスイスのチューリッヒを訪れた。日中は連日30度を超える暑さで、 下着で歩いているのかと振り向くほどの軽装の人が行きかっていた。 チューリッヒ湖やそこに流れ込むリマート川の水辺で泳ぐ人もいた。 チューリッヒ駅正面口を出て左へ、リマート川にかかる橋を渡ると市電停留所「セントラル」。 市電のカナメとなる大切な停留所は大がかりな工事の真っ最中だった。線路ははぎとられ道路の形さえわからない。 歩行者は鉄板の上を歩き、迂回の連続で苦労した。その工事現場の先に目をやると赤いケーブルカーが見える。 ポリバーンだ。「ポリ」は「総合」を意味する。総合大学や総合病院などを表すのに頭に付ける。ここでのポリはETH*のこと。 ポリバーンは大学線とでもいうところである。 ポリバーンは片道乗車わずか5分ほどのケーブルカーで中央駅近くの繁華街と坂の上の大学街を結び、往復している。 片道300円で市電と共通の乗車券になっている。

大学前の出口で外に出ると目前にスイス理工科大学(ETF)がそびえている。 ここでの私のお目当てはポリメンザ、ETHの学生食堂である。 1970年代の古い話だが、私がこの大学で仕事をしていた5年半の間、ほぼ毎日昼食はメンザで食べていた。 美味しい安い、量が多い。若者(私は20代)には魅力の三拍子が揃っていた。 70年の後半に新メンザが出来上がったのだが、それまでは平屋の古めかしい食堂だった。 この大学で学び博士になった学生時代のアインシュタインさんもきっとその古いメンザで食べていたのだと思う。

考えてみれば、「新しいメンザ」もすでに40年も経ていて、現在の学生から見ると「新」とは程遠いものであろう。 入ってみると廊下の階段下にバケツが置かれていた。見上げると雨漏りか、水道管の傷みか、天井が濡れていた。 その現実に納得しながらも、それでも私にはやはり「新メンザ」だった。

さらに進んで食堂に入った。昔と変わらない雰囲気と匂いだ。斜面を利用した建物で、 食堂内部は四層になっていて階段だらけである。お盆に皿やグラスをのせて席を捜す。 手すりどこ?と一瞬思った私は確かにもう若くない。

住み始めた頃、慣れない習慣や物品の相違で戸惑ったことは数限りないが、メンザで苦労したのはその一食の分量だった。 多い。日本から来たばかりの女の子のお腹にすんなりとは収まらない。

山と積み上げられたポムフリッツの上にでっかいブラートブルストが姿のままのる。 ブラウンソースがたっぷりかかって、高カロリー。定食なのでさらにパン、サラダ、デザートが付く。 自分が注文したものを残すのはイヤだった。何よりもまわりの誰もが完食している。 負けず嫌いの私にはそれで十分頑張る理由になった。

皆の食事スピードに取り残されず、しかもひと皿平らげるようになるのに数か月かかった。 話には聞くが胃が拡張することを実体験した。それからはモリモリ、パクパクで、 着る物のサイズが変わってしまった。その後体重は少しずつ元に戻ったが、拡張した胃袋はそのまま今も健在である。 この夏の旅行中も食事を残すことはなかった
古いメンザが閉鎖する時に、不要になる食器やナイフ・フォーク類が20円、30円で販売された。 そのとき買った分厚くて大きなコーヒーカップや古めかしいナイフ・フォークが我が家にまだ置いてある。

皿の大きさが気になりサイズを日本仕様のものとスイスで購入した皿を比較した。 直径22と24、その差はわずか2センチ。ついでにナイフとフォークの長さも同じく2センチの差。 私が闘った“大盛り”には2センチという異文化が存在していた。

メンザは学生食堂であるが一般人も利用できる。価格は学生、職員、一般と分かれていて、 いずれの値段にしても街なかのレストランの約半額で食事ができる。観光客や近所の方々も来ている。

昼食の後テラスでコーヒーを飲みながらチューリッヒの旧市街を見下ろした。 いつ見てもどこを見ても切り取れば絵はがきになるような景色である。

観光案内のようになってしまったが、チューリッヒを訪ねたらお勧めの一か所である。


ポリバーン


1200mにあるレストランで


  *ETH (Eidgenössische Technische Hochschule)
   Poly (旧称, Eidgenössisches Polytechnikum に由来)

タベアさんの著作案内

オクトーバーフェストと言えばタベアさんとフロリアン君!タベアさんの本が出版されました。 ドイツ語と日本語の対訳でまさにリーディングに最適です。


バイロイト音楽祭の申し込み!
4回目で当選しました!



会員 中嶋 照夫

Wilhelm Richard Wagner:ワグナーはブルックナー、マーラー、R・シュトラウス等に影響を与え、 後期ロマン派の総合芸術「楽劇」(Musikdrama)として「ニーベルングの指環」を35歳の1848年から61歳の1874年に掛けて完成させた。 演奏時間計15時間、4つの楽劇からなる。7日間(演奏は内4日間)。 ドイツのバイロイトにある祝祭劇場で毎年夏期だけ行われ、ワグナーの演目のみが演奏される。 世界一、コンサートチケットの入手が困難な事でも有名です。10年連続で申し込んでも当選する可能性は少ない・・・。

まだ、私が若い20歳の頃、学校の部室で夏休み、大音量でワグナーのオペラを聞いた。 曲名は忘れたが、何故か感極まって涙が留まらなかった、と記憶している。 それから月日は流れ、定年前に「あのオペラを生で一度聴きたい!」と考えるようになり、 ワグナー関係の資料を調べた。あまりにも壮大で気の遠くなるオペラだから、 里中真知子の漫画本を読み、本も読み、そして12枚組みDVDを何度も聞いた。 でも物足りなかった。そこでドイツ語の勉強を始めたが進まなく湘南日独協会のドイツ語講座に入り勉強した。 まさに60の手習いだ。バイロイト音楽祭の申し込み方法がわからなくネットで教わり、 手紙をバイロイト祝祭音楽祭劇場ビューローに熱く思いを書いてみた。数週間後に返事が来た。 (与えられたID番号100万代であり、ネットではチケットはバイロイト祝祭音楽祭の後援会の取り分を 引いた残りの1/3が一般用。)当時は郵送のみの受付で、申し込み期限が9月中旬だった。 毎年申し込むことでカウントされている噂もあり、毎年夏期下旬に演奏演目とスケジュール等の 申し込み用紙が送られて来て毎年毎年!申し込んだ! 最近は郵送ではなくネットでただクリックするだけ (何の返事もなく届いているのか?今年も無理なのか分からなく!)の4年。 (2013から申し込みを開始し、2016年に当選した。)連続して申し込んでから10年かかると! 言われていたが、何故か、 今回(2016年)は申し込みに対してバイロイト祝祭劇場ビューローのワグナーの子孫である カタリーナ・ワグナーから申込みに関する問い合わせがメールで4回もあった。 時差もあり、いつも酔ってるときだ。メールでの返答をした。 でも諦めて、昨年11月バイロイトに行って見た。現地では英語ではなく、すべてドイツ語で (本当は上手くは通じなかった)。 バイロイトの街を把握するためできる限り歩いた。 ワグナー博物館では私が熱心に見聞きしていたから。 館長らしき人にたいそう気に入られ親切に教えてくれた。 あまり親切にされたので、何通もの申し込み用封筒を見せて、どうにかならないかと! 思ったが、不正はないみたいだった。 そして、もう来られないだろうと『さよならバイロイト!』と呟きながら日本に戻った。 その後昨年12月24日のイブの日にバイロイトから手紙が届いた。 開封したらどう考えてみても当選してるみたいだ!

   
手紙の束            この夏のプログラム

『ニーベルングの指環』4夜 演奏時間計15時間。 毎日毎日でないにしろ夕方17時〜23時30分過ぎまで4夜。 示導動機(Leitmotiv)で表現された音楽はドラマの進行に応じて(登場人物の心まで) 音の強弱、速度、表情、奏でる楽器等で微妙に音が変化し、何度聴いてもそのたびに新しい発見がある。 眠気と暑さとトイレと木製椅子に耐えられるかなー。でも行ってきます。!


ワイマール独日協会バウハウス会長からの礼状

3月会報でお知らせしました、バウハウス会長の叙勲お祝いに対する礼状が届きました。

拝啓、
日本の功労賞(旭日双光章)授与は私にとって大変な名誉であり、今後の人生に於いても大変重要な 出来事経験であり続けるでしょう。又、在ベルリン日本大使館での印象深い式典・レセプションも 大きな喜びとなりました。織田さん(湘南日独協会・織田名誉会長)が書かれ、独日協会連合会の Reiber副会長が披露された表彰スピーチでは私達が一緒に実施した諸活動・催物が挙げられていました。 これらの一つ一つは、永い時間の経過を経て、日独間の又、とりわけ湘南日独協会とワイマール独日協会の 間を結ぶ橋となった、その礎をなす多くの石を象徴するものだと思います。私は皆さんと一緒にこの橋を 築く仕事に参加できましたが、その仕事を私は心から喜んで行って参りました。お贈り頂いた2点の 素晴らしい「書」は、数日前に届きました。大変嬉しく、自宅の然るべき場所に飾りました。 その優美さは私の視線を引き付けて止まず、その度に自然と幸せな気分に包まれます。このような特別な贈 り物を頂き、松野会長及び会員の皆様に心より御礼申し上げます。どうも有難う御座いました。

心からの御礼を申し上げ、又、再会を楽しみにしております。               敬具

(訳 木原理事)



Bauhaus ワイマール独日協会会長叙勲

湘南日独協会と姉妹提携をしているワイマール独日協会会長 Ingrid Bauhausさんが、長年のドイツにおける「生花」活動に対する旭日双光章の叙勲を受けられました。 早速、湘南日独協会全会員よりとしてお祝いのメッセージを差し上げると共に、お祝いの色紙二枚「和」「壽」を お贈りいたしました。この色紙は会員の書家畑佳乃さんにお願いいたしました。


生花をするバウハウスさん

     

写真は、お祝い品の包み(日独国旗をイメージした折鶴が添えられています)と、
「和」と「壽」の色紙です。

バウハウスさんより3月1日感謝のメールが届きました。2018年当協会の創立20年の秋には来日され、 鎌倉で地元の生け花の皆さんとの交流会を持たれる予定で、当協会で準備のお手伝いを始めております。 詳細が決まり次第お知らせいたします。

ワイマール独日協会からは2014年に訪問団が、湘南日独協会は2013年に訪問し交流を深めています。



講演会
「箱根の自然を守って50年」に参加して


会員 昔農 英夫


2016年11月23日に川崎英憲氏(会員)が会長を務める「箱根を守る会」が発足50周年記念特別講演会を開催し参加しました。 小田原市にある県立生命の星・地球博物館の広い会場はほぼ満員の聴衆で埋まっており、 地元の方々の箱根を愛して止まない気持ちが開演前からひしひしと伝わってまいりました。 記念講演は箱根を守る会発足に至る経緯や50年のあゆみ、箱根の動物、箱根の植物に焦点をあてたもので会場を後にするときには、 いっぱしの箱根の自然通になった気分でした。

会設立の発端はハコネコメツツジという固有種を盗掘の被害から守るという市民運動と伺いました。 50年前は、高度成長期の只中で、箱根でも開発を進め目先の利益追求をという当時の社会風潮とは無縁ではなかったようです。 昭和43年には、芦ノ湖畔に大規模な国際会議場建設計画が持ち上がり、国や県、地元箱根町もが開発を 推し進めようとした。守る会はこれに異を唱え、最終的に自然や景観を守ることにつなげ、 今日の国際観光地として価値を維持し高めた慧眼と地道な努力に感心させられました。

会の経験した大きな活動に、箱根町仙石原小塚山のポーラ美術館建設反対運動があります。 結果的に、大規模なブナ林破壊を伴い美術館は建設されたのですが、将来同様な運動への 教訓をとの趣旨で活動の詳細な経緯が同会のホームページで公開されています。 私も美術館を訪れましたが、林の中に不釣合いなコンクリートとガラスの構造物、 それに大面積の有料駐車場に先ず違和感を覚えました。 自然の中の立地にも係らず、絵画展示スペースは外界と完全に隔絶され、 なぜ自然破壊までしてアクセスの悪いこの地に美術館を建設する必要があったのかとの 素朴な疑問が湧いてきました。ホームページで紹介されている活動の顛末記に、 開発の検討過程で県が実施した事業の環境アセスについて触れられています。 本来環境を守るべき目的の判断指標が逆に開発にお墨付きを与えるに至ったとの 記述に公共財である自然保護と営利追求の開発をめぐる許認可行政の問題の根深さを 垣間見たような気がします。

頻繁に箱根の自然と温泉の魅力を享受する者として今回の講演を契機に自然保護にも関心を寄せてゆこうと思います。 最後になりましたが素晴らしい企画に感謝いたします。



映画「ヒトラーの忘れもの」

会員 勝亦 正安

昨年11月、この映画を試写会で見る機会を得ました。

先の大戦がもたらした悲劇と残酷さを描いたデンマークとドイツの合作映画、セリフの9割はドイツ語です。

大戦中ドイツ軍の占領下にあったデンマークの海岸には連合軍の反攻を防ぐ為、 ドイツ軍によって200万個以上の地雷が敷設され、大戦直後の1945年、 地雷除去にドイツ兵捕虜が駆り出され、多くの命が失われました。

映画は、この危険な作業を強制されたドイツ少年兵捕虜11名と彼らを監督監視する デンマーク人軍曹の物語です。ドイツ憎しの軍曹は、当初、少年兵捕虜を過酷に扱いますが、 極度の緊張と空腹の中、帰国に夢を託して危険な作業に従事する彼らに接する内にナチスの罪を少年兵に 償わせることに疑問を抱くようになります。最後は、生き残った4人の少年兵を軍曹は逃がしてしまいます。

美しい海岸で匍匐しつつ、棒1本を頼りに地雷を探り当て、信管を抜く、一つ誤れば死です。 デンマークでもあまり知られていないが、多くは事実に基くそうです。

戦争のもたらす残酷さとその事実は忘れるべきではない一方、憎しみと復讐の連鎖を断ち切る、 歴史的「赦し」の必要性もあることを映画は訴えているのではないのでしょうか。

捕虜を逃がした軍曹のその後、生き残った少年兵捕虜4人の帰国後の人生、 映画は余韻を残しています。2年前に見た、ドイツ系ユダヤ人哲学者を描いた ドイツ映画「ハンナ・アーレント」とは違った角度から歴史の事実と人間を描いた映画です。

邦題は軽いのですが、内容は重厚、お勧めしたい名画です。
昨年12月17日から劇場公開されています。


Schwatzerei am Stammtischについて

会員 木原 健次郎
会員 大澤 由美子


湘南日独協会では、月に一度、ドイツ人とのお喋りの会(Schwatzerei am Stammtisch)を開催し、 事前に設定したテーマについて、ドイツ語・日本語で意見交換・情報交換をしております。 因みに、これまで以下のような多様なテーマでお喋りしてきました。(と言っても、議論が時にヒートアップしますが):
家族、余暇、環境、女性、外国人、国境、スマートフォン、動物、住生活、 生存本能、難民、人間関係、平和、モラル崩壊、身仕舞、貧困、日独関係。




6月28日の参加者、もう一名カメラマン役も


今回は、@ 5/14「個人情報保護」と、A 6/28「Inklusion」での概要を以下にご紹介いたします。 (議論の捉え方は、あくまで筆者の主観です)
会の目的は飽くまでお喋りですので、結論めいたものが有るわけではありませんが、 会合の内容・雰囲気から御興味をお持ちいただき、ご参加申込み頂ければ、幸いです。 又、本テーマに関してご意見が御座いましたら、お聞かせ下さい。

@「個人情報保護」Wie weit soll Persönlichesdaten geschützt werden ?

・新種犯罪増の背景もあって、個人が情報を、権利として提出しないという現象が各所で起きているが、これは社会全体としての効率低下・相互不信感に繋がっていないか?
個人情報保護法(2003年公布)自体は、個人情報の適切な取り扱い・保護を目的としたものだが、実際には以下のような混乱例が発生している:

a. JRの事故で、病院に負傷者が運び込まれた。その中に家族が居るか、負傷の程度は、との家族からの問い合わせに、病院は法を理由に情報開示を拒否した。
b. エスカレーターで転んだ人のまきぞえになって怪我をした人の例
 原因を作った人は誰かとの問い合わせに対し、エスカレーターを管理する鉄道会社が、第三者への個人情報提供として、回答を拒否。
c. 5千件超の個人情報を持つ同窓会の例
HP上に連絡先不明者の氏名・卒業年度を掲載し、情報提供を求めてきており、十分機能していたが、法律違反になるとの声で、中止せざるを得なくなった。
d. 団地自治会として、団地住民の家族構成等、基礎データとして有用だが、一部住民が提出を拒否する為、全体把握に繋がらず、実施できていない。

・法律を誤解した結果と思われる例もある一方、争い・訴訟(トラブル)に巻き込まれたくないという姿勢の表れもある。 犯罪の可能性があるならまだしも、そうでない場合は、余りに神経過敏ではないか?世の中が段々不便になって来た。

・オレオレ詐欺、ネット犯罪、名簿業者や悪質業者(訪問販売、押し売り)などの犯罪を考えれば、神経質にならざるを得ない。 特に団地住民の中には、濃密な人間関係を避ける為に団地生活を選んだ人もおり、昔のような近所関係にはもう戻らない。

・外国(欧米)では、日本の自治会にあたるものは聞いたことがない。隣人の個人情報は、友人関係の中で処理されるもので、 プライバシーに属するとの考えではないか。完全なリストの整備は管理の為の物で、管理は行政の役割という考えではないか。 日本では、伝統的に、災害経験などから、行政を補完する形で、民間が自主的にやって来たが、崩れつつある。

阪神淡路大震災に於ける人命救助の例では、所謂公助によるものが僅か3%に対し、隣人等共助によるものが30%であった事を考えれば、 日本の伝統的な近隣関係の重要性は、過剰に濃密にならない限り、貴重なもので、日本社会の特徴と言えるのでは?

・社会生活・人間関係の基本は、相互の信頼だと思うが、逆に不信が原点のような考え方は、個人だけでなく社会的にも不健康な事だ。 残念ながら、最近の日本は、その傾向が進んでいるように思える。

A「Inklusion」(障害を持つ生徒達を通常クラスに含めて行う教育)

・昔は障害児は障害児として、普通の生徒と区分して教育(盲学校等)をするのが一般的であったが、最近は日独とも、 色々な形で普通の生徒と共に学ばせるという形になって来ている。その思想的背景は、「障害」を各個人の持つ個性(特殊性) と見、それらの特殊性からなる多様性こそがあたりまえの事(通常)であるという見方であり、共生社会形成と同じ考え方である。

・障害と言っても身体的なものだけでなく精神的なものもあり、かつ知的障害を伴わないものもあり、 外見からは見分けにくい。精神的障害としては、学習障害、注意欠陥多動性障害、自閉症、アスペルガー症候群 (知的障害は伴わない。Einstein, Edison, Bill Gatesなども)等がある。

・日本の教育現場では以下のような指導実例がある: 低血糖のため、10時に甘いものを食べているAさん、バスに乗って出かけ買い物学習をしてくるBさん、 神経覚醒のためにブランコに乗ったりボール遊びをしたりするCさん、普通授業を受けいる子供たちに とっては羨ましいことだけれど、ここで、自分とは違う他者を理解させるという指導が行われる。

・実際の教育現場では、教師の負担、親の理解など課題が多そうだが、上手くいけば人間愛を実現した 理想的な教育と言える。又、教師としても、埋もれた才能を見つけ出す喜びを味わえるだろう。

・Inklusionの考えは、異質性を積極的に包含してゆくという事なので、教育のみならず、 社会的な展開の可能性(独の移民対応の例など)も持つ。但し、概念として必然的に境界を 取り除くという事になるので、慎重に進めなければ、Chaosに陥るリスクも孕んでいると思われる。

参加者の感想の一部
 ちょっと難しいテーマが続きましたが、ドイツ語日本語が飛び交い、熱いまた楽しい時間でした。
湘南在住のドイツ人の参加者からドイツと日本の比較等具体的発言が聞け、自分自身の経験と重ねて新しい 発見がありました。(A.O)


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