ルールの炭鉱跡を訪ねて

会員 山崎正





山崎正氏



 ほとんど知られていないが、昭和32年から37年にかけて400名余の若い現役の日本人炭鉱マンが西ドイツの炭鉱へ派遣された。戦後復興期から高度成長期に入った西ドイツの炭鉱は労働力不足に悩んでいたが、これは出稼ぎでも炭鉱移民でもなく、日独政府間協定による3年期限の派遣事業であった。彼らが働いた現場や住処はどんな処であったのか。若い頃炭鉱に勤務した私には、彼らの足跡を辿ることは長年の夢であった。この度、日独協会のツアーに参加し、個人行動の許しを得たのでこれが実現した。
 5月30日、片岡惇さん(独日協会ニーダーライン副会長)がホテルに迎えに来られた。日本語が堪能なファビアン・シュミット君(ルール大学東洋学科学生)の運転で、高口さん(元三井鉱山社員、派遣第二陣)らが派遣されたゲルゼンキルヘンのコンゾリダチオン炭鉱群3/4/9鉱跡を訪れた。当時日産8,600トンの石炭を生産した大炭鉱。昭和33年から累計約100名の日本人が働いたという。今は公園と化し、巨大な4滑車式の立坑櫓が昔日の名残を留め、近くに、彼らが入り浸りだったという酒場「メトロポール」があった。当時は地ビールの銘柄「グリュックアウフ」の大きな文字が看板であった。緑が多い閑静な住宅街だが、当時は煤煙が空を覆い、街路樹もまばらな路面電車が通る炭鉱街だったという。




案内をしてくれたシュミット氏と



 次いで4キロ程南西の同炭鉱のオーバーシュアー立坑施設へ行った。古い立坑櫓が残っており、クラシックな巻き座建造物は博物館だが施錠されていた。隣の1909年建造のレリーフを残すネオ・ルネサンス様式のレンガの建物は、高口さん達の最初の宿舎だった。彼らが到着した日に町の若い娘たちや子供たちが殺到して、サインをせがまれ、その夜、近くのビヤホールに入ったら、席に着くなりビールが3、4本運ばれて来て、遠くの席から「俺のおごりだ」と中年の男が合図したと言う。日本人を戦友と見た復員兵だったろう。往時の親日ぶりが想像出来る。
 「行っても何も残っていないですよ」と北村さん(元宇部興産社員、派遣第一陣、再渡独で連絡員、グリュックアウフ会長)は言うが、私は、彼が働いたデュースブルク・ハンボルンのフリートリヒ・ティッセン2/5鉱へもぜひ行きたかった。6月4日北村さんの友人、檜山さん(元デュッセルドルフ日本人クラブ事務局長、同市在住)の案内でこの炭鉱跡を訪れた。ようやく場所を探し当て、金網をくぐって侵入したが、広い草むらの陰に石畳と舗装面を見ただけで、炭鉱の痕跡は皆無。ここに年間100万トンを出炭した炭鉱があって、累計200名余の日本人が働いたという。炭層の傾斜は緩く、派遣された炭鉱の中で作業条件は最も良かったそうだ。日本人寮のあった付近は、大きなモスクがあってトルコ人が目立つ界隈であった。
 もう一か所のカストロープ・ラウクセルの炭鉱(累計約140名の日本人が働いた)には行けなかったが、ボーフムの「ドイツ鉱山博物館」やエッセンの世界遺産「ツォルフェライン炭鉱業遺産群」を見学出来たので大いに満足した。
 終わりに、この旅行計画に教示とガイドの手配までしていただいた高口さんと北村さん、さらに現地を案内して下さった片岡さん、檜山さん、シュミット君に、紙面を借りて厚く御礼申し上げます。




現在は公園になっている





煤煙の町の様子「メトロポール」が左にある




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