10月例会 織田正雄氏の講演会「織田幹雄は世界人」に出席して

会員 勝亦正安



織田正雄氏


 今回は、1928年第9回アムステルダムオリンピック三段跳で、日本初の金メダルを獲得した織田幹雄について、そのご子息から直接話が聞けるという幸運な講演会でした。淡々と、しかしユーモアを交えた語りを聞き入る内、織田幹雄の偉大さと、些か耳慣れない表題の「世界人」の意味が明らかになります。

 幹雄は、スポーツの才能に恵まれていただけでなく、努力と勉励の人と知りました。旧制中1年の時校内8マイルマラソンでの優勝を皮切に、数々の活躍がその練習振りと共に注目され、18才以降極東選手権大会に4回出場、すべて優勝しています。しかし、1924年(17才)パリ・オリンピックの際、他国選手との差が大きいことを知り、相手から学ぶことと練習に集中したようです。

 織田幹雄が陸上競技を始めた頃は、指導書も解説書もなく、アメリカから文献を取り寄せ、辞書を引きながら勉強したそうです。また、アムステルダム五輪での2年前から、各国選手の跳び方、着地、走方等々を研究、円盤投げや砲丸投げの他競技も練習し、これら研究結果と記録を毎日書き記した日記が残されています。

 極東大会、オリンピックで、幾多の外国人と競い、言葉を交しながらも織田幹雄には外国人を異人と見る差別意識が全く無く、競技仲間と認識していたようです。現在より遥かに強く国を意識せざるを得なかった当時、極めて稀有な事と思われます。

 本題に戻ります。世界人と国際人はどう違うのでしょうか。正雄氏の話から、日本人が日本と言う国籍を背負って海外で何かを行うとすれば、それは国際人であり、国籍に捉われず、国の為でもなく個人として海外で活動すれば、それは世界人であると私は理解しました。この思想を早稲田大学在学中に学んだと幹雄は書いていますが、正雄氏は、本人はそれ以前から意識していたと述べています。

 生い立ちが関係しているようです。生地広島は和歌山と並びアメリカへの移民が多く、幹雄の次兄は幹雄が中学の頃アメリカへ移住し、32年ロスオリンピックの際、兄夫婦がロスの岸壁に出迎えてくれた由。

 戦前から優れた競技者として世界に知られた織田幹雄は、戦後も各国から指導コーチとして招かれ、世界人の思想を実践します。

 東京オリンピックの時、オリンピック村近くのレストランを個人で借り切り、各国のコーチが自由に飲み食いし、意見交換を行える場を提供しました。98年93才で没するまでコーチとして訪れた国は40ケ国以上と言います。

 織田幹雄の理念は、子供達へ伝えられ、また立派に継承されています。中学の頃正雄氏が父幹雄から貰った壺には「世界人たるべし」と書かれていたそうです。また、子息正雄氏は、米国スタンフォード大学に交換留学、更にドイツ政府奨学生としてベルリン工科大学にも留学、卒業後は東京銀行ハンブルグ支店長を歴任されました。

 紛争がなお絶えない現下の世界情勢を思うに、世界人織田幹雄の理想が、スポーツ関係者のみならず、各国為政者により正しく理解され、平和実現に向け広まって欲しいと願う次第です。


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