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Die Rote Katze 赤毛の猫

Luise Rinser ルイーゼ・リンザー (前号よりの続き)

翻訳 山崎正(翻訳総括)、小田武司、御木理恵、森永京子



作者Luiese Rinserは1911年生まれのドイツの小説家。ミュンヘン大学で心理学、教育学を学び、小学校教師を経て作家生活に入る。ナチスに対する反逆罪で、投獄の経験を持つ。



(前号よりの続き)

2011年10月から始まったドイツ語講座「入門コース」で文法を半年間(20回)勉強した後に最初に読んだのがルイーゼ・リンザー(1911-2002)の短編の一つである "Die Rote Katze" でした。以来、作家の意図を正確に読み取ることを目指して、いくつかの短編を読んできましたが、まず、講座参加者の皆様が最初に手掛けた苦心の翻訳に対して会員の皆様のご講評を頂きたく Der Wind に掲載させていただくことになりました。(注:紙面の編集上、3月会報に前半5月会報に後半を掲載致します)現在は、かつての「入門コース」を「原書講読コース」と名称を変え、ヘルマン・ヘッセの短編 "Augustus" に挑戦しています。(松野)


Sie ist immer fetter geworden, und eigentlich war es eine schone Katze, glaub ich. Und dann ist der Winter sechsundvierzig auf siebenundvierzig gekommen. Da haben wir wirklich kaum mehr was zu essen gehabt. Es hat ein paar Wochen lang kein Gramm Fleisch gegeben und nur gefrorene Kartoffeln, und die Kleider haben nur so geschlottert an uns. Und einmal hat Leni ein Stuck Brot gestohlen beim Backer vor Hunger. Aber das weis nur ich. Und Anfang Februar, da hab ich zur Mutter gesagt: ?Jetzt schlachten wir das Vieh.“ − ?Was fur ein Vieh?“ hat sie gefragt und hat mich scharf angeschaut. ?Die Katze halt“, hab ich gesagt und hab gleichgultig getan, aber ich hab schon gewust, was kommt. Sie sind alle uber mich hergefallen. ?Was? Unsere Katze? Schamst du dich nicht?“ − ?Nein“, hab ich gesagt, ?ich scham mich nicht. Wir haben sie von unserem Essen gemastet, und sie ist fett wie ein Spanferkel, jung ist sie auch noch, also?“ Aber Leni hat angefangen zu heulen, und Peter hat mir unterm Tisch einen Fustritt gegeben, und Mutter hat traurig gesagt: ?Das du so ein boses Herz hast, hab ich nicht geglaubt.“ Die Katze ist auf dem Herd gesessen und hat geschlafen. Sie war wirklich ganz rund und sie war so faul, das sie kaum mehr aus dem Haus zu jagen war. Wie es dann im April keine Kartoffeln mehr gegeben hat, da haben wir nicht mehr gewust, was wir essen sollen. Eines Tages, ich war schon ganz verruckt, da hab ich sie mir vorgenommen und hab gesagt: ?Also hor mal, wir haben nichts mehr, siehst du das nicht ein?“ Und ich hab ihr die leere Kartoffelkiste gezeigt und den leeren Brotkasten. ?Geh fort“, hab ich ihr gesagt, ?du siehst ja, wie's bei uns ist.“ Aber sie hat nur geblinzelt und sich auf dem Herd herumgedreht.

猫はますます太ってきた。もともと美しい猫だったのだろうと僕は思った。それから1946年から47年にかけての冬がやってきた。僕達は本当に食べる物が手に入らなくなった。二、三週間のあいだ凍ったジャガイモの他は1グラムの肉も手に入らなくなり、僕達の着ている服はだぶだぶになった。たった一回だけだったが、レニーが空腹のあまりパン屋でパンを一個盗んだ。しかし、それを知っているのは僕だけだ。二月のはじめ、僕は母に「もう僕達の家畜を屠殺しようよ」と云った。母は「家畜って?」と云い鋭い目で僕を睨んだ。「猫に決まってるじゃないか」と僕はさりげなく云ったつもりだった。しかし、もちろん僕はそのあと何がおきるかは、とっくに分かっていた。家族の全員が僕を激しく非難した。「なんですって、私達の猫をですって、あんたは恥ずかしいと思わないの?」「いや、僕は恥ずかしいとは思わない、僕達は猫に食べ物をやった。それで猫は小豚のように太った。その上、猫はまだ若い、だから…」レニーは大声で泣き始めた。そしてペーターはテーブルの下で僕を足で蹴とばした。そして母は「あんたがそんなに根性が曲ってるとは思ってもみなかったよ」と悲しげに云った。猫はかまどの上に横たわって眠っていた。猫は丸まると太り、怠け癖がついて、食物を漁るため家から出ることはもう全くなかった。四月になり、ジャガイモももう手に入らなくなり、僕達は何を食べたらよいのか分からなくなった。ある日のこと僕はもうすっかり気がおかしくなって、猫に云い聞かした。「まあ、聴けよ、僕達はもう食べる物は何もないんだよ。お前にはそれがわからないのかい?」と云って猫に空のジャガイモの箱と空のパンの入れ物を見せた。「どこかへ行ってくれよ、僕達のところがどんな状態かわかるだろう」と云った。しかし猫はただ瞬きをしただけで、かまどの上で寝返りをうった。

Da hab ich vor Zorn geheult und auf den Kuchentisch geschlagen. Aber sie hat sich nicht darum gekummert. Da hab ich sie gepackt und untern Arm genommen. Es war schon ein bischen dunkel drausen, und die Kleinen waren mit der Mutter fort, Kohlen am Bahndamm zusammensuchen. Das rote Vieh war so faul, das es sich einfach forttragen hat lassen. Ich bin an den Flus gegangen. Auf einmal ist mir ein Mann begegnet, der hat gefragt, ob ich die Katze verkauf. ?Ja“, hab ich gesagt, und hab mich schon gefreut. Aber er hat nur gelacht und ist weitergegangen. Und dann war ich auf einmal am Flus. Da war Treibeis und Nebel und kalt war es. Da hat sich die Katze ganz nah an mich gekuschelt, und dann hab ich sie gestreichelt und mit ihr geredet. ?Ich kann das nicht mehr sehen“, hab ich ihr gesagt, ?es geht nicht, das meine Geschwister hungern, und du bist fett, ich kann das einfach nicht mehr mit ansehen.“ Und auf einmal hab ich ganz laut geschrien, und dann hab‘s ich das rote Vieh an den Hinterlaufen genommen und habs an einen Baumstamm geschlagen. Aber sie hat blos geschrien. Tot war sie noch lange nicht. Da hab ich sie an eine Eisscholle gehaut, aber davon hat sie nur ein Loch im Kopf bekommen, und da ist das Blut herausgeflossen, und uberall im Schnee waren dunkle Flecken. Sie hat geschrien wie ein Kind. Ich hatt gern aufgehort, aber jetzt hab ich's schon fertig tun mussen. Ich hab sie immer wieder an die Eisscholle geschlagen, es hat gekracht, ich weis nicht, ob es ihre Knochen waren oder das Eis, und sie war immer noch nicht tot. Eine Katze hat sieben Leben, sagen die Leute, aber die hat mehr gehabt. Bei jedem Schlag hat sie laut geschrien, und auf einmal hab ich auch geschrien, und ich war ganz nas vor Schweis bei aller Kalte. Aber einmal war sie dann doch tot. Da hab ich sie in den Flus geworfen und hab mir meine Hande im Schnee gewaschen, und wie ich noch einmal nach dem Vieh schau, da schwimmt es schon weit drausen mitten unter den Eisschollen, dann war es im Nebel verschwunden. Dann hat mich gefroren, aber ich hab noch nicht heimgehen mogen. Ich bin noch in der Stadt herumgelaufen, aber dann bin ich doch heimgegangen. ?Was hast du denn?“ hat die Mutter gefragt, ?du bist ja kasweis. Und was ist das fur Blut an deiner Jacke?“ − ?Ich hab Nasenbluten gehabt“, hab ich gesagt. Sie hat mich nicht angeschaut und ist an den Herd gegangen und hat mir Pfefferminztee gemacht.
Auf einmal ist mir schlecht geworden, da hab ich schnell hinausgehen mussen, dann bin ich gleich ins Bett gegangen. Spater ist die Mutter gekommen und hat ganz ruhig gesagt: ?Ich versteh dich schon. Denk nimmer dran.“ Aber nachher hab ich Peter und Leni die halbe Nacht unterm Kissen heulen horen. Und jetzt weis ich nicht, ob es richtig war, das ich das rote Biest umgebracht hab. Eigentlich frist so ein Tier doch gar nicht viel.

そこで僕は怒りのあまりどなりちらして、調理台を叩いた。しかし、それにもかかわらず猫は気にかけなかった。そこで僕は猫を捕まえて腕の下にかかえた。もう外は少し薄暗くなっており、妹や弟は母と一緒に鉄道の線路わきに落ちた石炭を探しに行って家にいなかった。赤い猫は怠けものなので、簡単に運ぶことができた。僕は川の方に歩いて行った。たまたま一人の男に出会った。彼は僕がこの猫を売る気があるかと尋ねた。僕は「はい」と答え、嬉しくなった。しかし、彼はただ笑っただけで行ってしまった。そして、それからすぐに川の畔に着いてしまった。川には氷が流れており、霧がかかっていて寒かった。猫は僕にすっかり身をまかせてされるままになっていた。僕は猫を撫でながら話しかけた。「僕はもう見ていられないんだよ。僕の妹や弟は飢えていて、お前は太っている、これは間違っているよね。僕はこれ以上見てられないんだよ」僕はいきなり大声を上げながら、猫の後脚を掴まえて、木の幹に打ちつけた。しかし、猫は叫んだだけで、なかなか死ななかった。そこで僕は猫を氷の塊りに叩きつけた。猫の頭が割れ、血が迸り出た。そしていたる所雪は赤黒く汚れた。猫は子供のような声で悲鳴をあげた。僕は止められるものなら止めたかったが、とにかく始末をつけなければならなかった。僕は繰り返えし猫を氷の塊りに打ちつけた。そのたびにパキパキと音を立てたが、それが猫の骨が砕ける音なのか氷の砕ける音なのか僕には分からなかった。それでもなお猫は死ななかった。世間では猫は七つの生命を持っていると云うが、この猫はもっと持っていた。打ちつける度に猫は大きな悲鳴をあげた。僕もいきなり大声で叫んだ。ひどい寒さにかかわらず汗をびっしょりかいていた。猫はとうとう死んだ。そこで僕は猫を流れに投げこみ、雪で手を洗い、そしてもう一度だけ猫がどうなったかを見たとき、猫は氷の間を縫ってもう遠く流れ去り、霧の中に消えていた。僕は非常に寒かったが、まだ家に帰る気にはなれなかった。僕はなお街の中をうろついていたが、結局、家に帰った。「一体何があったの、真っ青な顔をして、上着の血は何んなの?」と母は尋ねた。「鼻血が出たんだ」と答えた。母は僕を見なかった。そして、かまどへ行って、僕にペパーミント茶を淹れてくれた。突然僕は気分が悪くなり、急いで外に出て行かなければならなかった。その後、すぐにベッドにもぐりこんだ。しばらくして、母が来て「あんたの気持ちはよく分かっていますよ、考えるのはもうお止めなさい」と静かに云った。その後ペーターとレニーが夜半過ぎまで、枕の下で大声で泣くのが聞こえてきた。今になってみると、あの赤毛の奴を殺したことが正しかったかどうか僕には分からない。猫のような動物は、どっちみちそうたくさん食べるわけではないのだから。



ケンペル・バーニー祭へ参加

報告者:大久保 明



祝辞を述べる松野会長と湘南日独協会のプラカードを持つ会員関口茂雄氏




参加の皆さん



4月12日(日)元箱根で開催された、第29回ケンペル・バーニー祭へ、4月例会として参加しました。午前8時40分JR小田原駅、小田原在住の会員関口茂雄氏と中村武夫氏の出迎えを受け、バスにて元箱根へ向かう、総勢12名。

式典はケンペルの著した「日本誌」の序文を碑文とした、バーニーの建てた記念碑の前で行われ、松野会長も祝辞を述べられ、子どもたちのバンドの演奏と合唱で「箱根八里」を参列者も歌い終了。その後昼食と箱根の植物の講話があり、午後の部は、箱根神社の宝物殿へ移動、普段は一般公開していない「神宝」の説明を受けました。これらはケンペルの「江戸参府旅行日記」に記載されている「珍しい宝物」とのことでありました。
その後小田原へ戻り、小田原の新入会員の福泉さんを交えて、駅前で愉快な懇親会を開き散会しました。

エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kompferの故郷
北ドイツのレムゴの、ケンペル協会=日独友好の会と長年相互訪問等の交流のある、「ケンペル・バーニーを讃える会」(川崎英憲会長)との今後の友好関係を築くことが出来ました。お世話頂いた関口さん、中村さんのお二人に感謝いたします。

ケンペルの研究で名高い、ジョーゼフ・クライナー氏はオーストリア生まれで長年日本の研究で数々の活躍をされ功績を讃えられています。ケンペルに関する著書も多く、松野会長とは若い頃より兄弟のようなお付き合いがあります。これまでにも湘南日独協会の例会で講演をして頂きましたが、お忙しい中今年も年内での講演の調整をして頂いております。


大勢の子どもたちも参加歌いました

私はここで思いがけぬ出会いを経験しました。
2011年11月家内とトルコ・ツアーに参加、10日間ご一緒であった、今村昌明夫妻にお会いしたのです。更に、今村氏はケンペルの弟子(通訳)として歴史に名を残す今村源右衛門英生の8代目にあたるご子孫でした。
  私がケンペルに関心を持ったのは、2013年湘南日独協会のドイツ旅行でドレスデンの郊外のピルニッツ宮殿で出会った巨大な日本由来のやぶつばきの樹(移動式ガラス温室で保護された)でした。その後そのつばきを題材にした小説「安永の椿」に出会い、今年に入り作者柄戸正氏とも親交を結んだところでした。この小説はスエーデンの学者がケンペル同様、東インド会社の医者として日本に滞在、密かな使命として、やぶつばきを4本ヨーロッパに運んだ話です。この中にケンペルについての記載があり、彼の著した「日本誌」がどれほどその後のヨーロッパにおける日本研究の原動力となったのかを知りました。その上、彼の重要な役割を担った通訳の子孫と10日間とは言え、トルコと言う異文化の世界を旅したことの縁を感じました。今「安永の椿」の独訳「Das Band der Kamelie」を読んでいます。来年もケンペル・バーニー祭へ参加したいと考えています。



3月例会
講演「ドイツに渡った日本文化」を拝聴して


会員 廣川貴男

三月二十二日の湘南日独協会の催し物は、慶應義塾大学名誉教授・寺澤行忠氏を招聘しての講演であった。「ドイツに渡った日本文化」と題するもので、ドイツ各地に点在する日本文化関係の各種施設や活動状況等を紹介するという趣旨の講話である。日本庭園の所在地を始めとして、日本語、日本文学,日本史、仏教、茶道、日本映画,果てはマンガに至る迄、様々の講座を開設する大学や研究所について、その来歴、規模、教授陣、学生数等、広範に調査した報告書が資料として配布された。この緻密・微細なレポートは殆ど間然する所がない。氏ご自身がドイツを周遊して調査されたもので、都市ごと、施設ごと詳細を極めた内容が充溢している。満鉄調査部や興信所の調書、或いは浮気調査の探偵報告書でも、か程までに委曲を尽くすことはないであろう。
氏は元々、日本文学がご専門で、例えば西行の『山家集』を文献学的な立脚点から、許多の史料や写本を比較研究するといった地道で基礎的な学究活動を長年続けて来られた方である。斯かる碩学に、今回のテーマは些か畑違いの感もあるが、この点を会終了後の酒席でお尋ねしたところ、言下に“私の趣味です”と明言された。配布された資料中、殊の他、興味を惹いたのは、「日本文学作品のドイツ語訳作品数」という項目であった。芥川龍之介を首位に20位の小川洋子に到る迄、翻訳作品数の多い順に作家名が列挙されている。が、惜しい哉、作品名を書いていない。芥川の作品数が127とあるから、恐らく彼のほぼ全作品が翻訳されているのであろう。“ハイク(俳句)”がドイツに限らず欧州諸国に普及している事は寡聞にして知らなかった。季語や平仄・韻、音節数といった約束事は如何様に処理されているのだろうか。実物が提示されていないのが惜しまれる。

さはれ、日独間の文化交流は豊饒な歴史的蓄積がある。今回の講演は、日本からドイツへの流れが中心であったが、無論、その逆の流れもある。人的交流に局限すれば、戦国時代末期の慶長19年、ドイツ人・ミヒャエル・ホーライターが九州平戸に来たのを嚆矢とする。元禄3年、エンゲルベルト・ケンペルが来日する以前に、既に何人ものドイツ人が九州各地にいずれもオランダの東インド会社員として来ている。明治初年になると留学のため日本からドイツに渡る者が出て来る。明治4年9月の統計によると、渡航先は英米に次いでドイツが3番目に多い。
日本文化研究のために来日する外国人男性は若年者が多く、優秀な日本人女性と結婚して帰国するケースが多いという。群鶏中の一鶴を外国人に連れ去られ、残るは凡庸な凡百の凡婦ばかりになるぞ、と、氏は危機感を込めて日本の男子学生に警鐘を鳴らしているという。
擱筆の前に、独り善がりの世迷いの妄言を一言。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、アルブレヒト・デューラー、フリードリッヒ・ニーチェ、シュテファン・ツヴァイク・・・これらが私にとっての、ドイツ文化の総和である。

寺澤行忠先生


懇親会の様子

 

Der Wind 100号記念
特別寄稿  
菩提樹をめぐって


会員 吉田克彦


日独修好150周年の記念樹
  2011年は日独修好150年の記念すべき年でした。ドイツ大使館からはその記念として菩提樹の苗が贈られてくることになり、その受け入れをしたことはまだ記憶に新しいと思います。この苗木は検疫の関係で福島県で育てたものが来るはずでした。ところがご承知の通り丁度東日本大震災にであい、苗木は全滅、急遽ドイツ本国から苗木167本が空輸されてくることになったのです。横浜に3本、湘南に3本、が贈られて来て鎌倉市、藤沢市、江ノ島電鉄(注)でそれぞれ植樹されました。この樹は間違いなく「せいよう菩提樹」でしょう。

仏陀の「菩提樹」
  菩提樹といえば我々日本人には先ずお釈迦様を想い出します。お釈迦様はガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入りました。悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ってきましたが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となったのでした。ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになったとか。この菩提樹は印度菩提樹で、熱帯性植物なので仏教が伝わった中国にも日本にも生育しないのです。

シューベルトの「菩提樹」
  シューベルトの歌曲集「冬の旅」に「菩提樹」という曲があり日本でも大変親しまれています。ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩集によるもので24曲中の5番目の曲ですが「冬の旅」のなかでも最も親しまれている曲ではないでしょうか。
1956年(昭和31年)に封切られた西ドイツ映画に「菩提樹」というタイトルの音楽映画がありますが、この作品の中でアメリカへの亡命が出来るか否かのクライマックスシーンで歌うのがこの「菩提樹」で実に感動的な場面となっています。それならばドイツの国樹かなと思いきや、さにあらず、国樹は「オウシュウナラ」でした。

(注)鎌倉川喜多映画記念館、藤沢奥田公園、江ノ電江ノ島駅構内


泉にそひて、繁る菩提樹、
     慕ひ往きては、
美(うま)し夢みつ、
     幹には彫(ゑ)りぬ、
          ゆかし言葉、
嬉悲(うれしかなし)に、
     訪(と)ひしそのかげ。

訳詞は明治時代の訳詞家近藤朔風(さくふう:1880-1915)の手になるものです。彼の「菩提樹」「ローレライ」「野薔薇」などの訳詞はあまりにも有名ですが、35歳余りで早世したこともあり、その業績も上記の数曲を除き遠い過去のものになってしまっています。クラシック歌曲の日本語化は原詩と関係ない替え歌が主流であった時代に、原詩に沿った訳詞を試み、その後100年も歌い継がれている名訳を残した朔風の偉大さを忘れてはならないでしょう。

「シューベルトの菩提樹」は
ドイツ語名linden baumは
  学名Tilia miqueliana Maxim.
で、中国原産のシナノキ科の落葉高木。和名では「セイヨウボダイジュ」。6〜7月頃淡黄色の花が咲き、香りが高く蜜蜂の密源となります。インドボダイジュの代用として寺などに植えられ、仏教徒の呼び名「ボーディ・ブリクシャ」の漢訳「菩提樹」と名付けられたと言います。日本へは、臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったと伝えられる。日本では各地の仏教寺院によく植えられています。
「セイヨウボダイジュ」





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