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ケンペル・バーニー祭参加 new mark

箱根ケンぺル・バ―二―第30回記念祭(4月17日)
参加報告   副会長 三谷 喜朗



当日は朝から予報通り、小田原駅を降りると何やら空模様がおかしかった。出迎え下さった関口、中村の両会員の案内で参集した会員諸氏7名と共にバスで会場の箱根町旧道沿いにあるバ―二―の残した石碑に向かった。箱根路上りのバスの道中は全山新緑の芽生え美しく、そしてその中に斑模様に咲く満開の桜の景色が眺望され、ケンぺル、バ―二―の気持ちになった気分であった。

会場の石碑を見学後、天候の都合で会場が変更された箱根町町民会館に移動,祭典は定刻通りバ―二―の石碑の拓本を前にして「ケンぺルとバ―二―を讃える会」川崎会長の祝辞挨拶から始まった。今回は第30回の記念開催のため参加者も多く代表各位の紹介に続いて、ケンぺルの故郷であるドイツ・レムゴー市の「エンゲルベルト ケンぺル協会」のキューベルト会長の来賓祝辞があり、湘南日独協会からは松野会長所用のため三谷がピンチヒッターとして祝辞を述べさせて頂く事になった。

簡単に内容を記すと
* ケンぺルの”日本誌”により、当時欧州では絶滅樹木の一つであった銀杏の木が、日本では健在であることが伝えられた事。当協会と姉妹提携しているワイマール独日協会のWeimar市のシンボルとなっている木は銀杏の木であり市内の随所でその苗木が売られていること。
私事で恐縮ですが、ケンぺルのケの字も知らない若い頃、会社の仕事の上で、日本随一のケンぺル研究家今井正さんに長くドイツ語通訳としてお世話になったご縁等を織り交ぜさせて頂いた。*

祝辞の終了後、基調講演として自からもお茶の宗匠で居られる、讃える会の田代理事により「ケンぺルに係るお茶の木の由来とその植物学的考察」があり、日本のお茶は国際的なること、また古くから欧州でも売られていた等興味のある内容であった。

講演終了後立食パーティ―に移り、参会者と歓談。テーブルには目の前に広がる芦ノ湖の獲れたてのわかさぎの天ぷら等が配膳されており大いに食欲がそそられた。賑わったパーティー終了後、下山のバスを待つ間、当協会だけで階下の部屋をお借りして2次会となり、関口さんの歴史話に花が咲いた。下山のバスの定刻となり、箱根特有の濃霧強風の雨の中をバス停まで急いだ。小田原に着くと、曇ってはいたが風もなく、駅前にて、関口、中村両氏を囲んでご苦労さん会の一杯。そして解散となった。

ケンペル・バーニー祭を伝える
読売新聞の掲載記事(2016年18年4月19日)



上:記念碑前での三谷副会長他 下:式典で挨拶するケンペル協会会長




2月例会 講演会

ヨーロッパ有数の緑化地帯となった“旧東西ドイツ”国境地帯」
〜冷戦時代の跡地に垣間見る自然を愛するドイツ人の心〜

講師 相原恭子氏
舞台をヨーロッパに置いて現在活躍中の作家・写真家
ドイツを中心とする紀行書多数

会員  山口 泰彦

2月28日(日)に開催された例会では、ドイツ政府観光局勤務のあと、舞台をヨーロッパに置いて現在、作家・写真家として活躍されている相原恭子氏にご講演いただきました。

私自身、1989年の夏に塀の中の旧東ドイツに行って以来、東西に分断されていたドイツ、そしてドイツ統一はずっと興味をもって追いかけていたテーマなので、今回の講演会はとても楽しみにしていました。

4年前には、旧東ベルリンに行って、ベルリンの壁崩壊の舞台となったボルンホルマー検問所や国民を監視していた国家保安省(シュタージ)の建物(今はシュタージ博物館)など、普段は観光客が行かない場所に行ったり、ベルリンの壁の跡をたどったりしました。 講演では、相原氏が昨年、ドイツ統一25周年を記念して開催されたインターナショナルプレスツアーに日本を代表して参加され、約1,400kmに及ぶ旧東西ドイツの国境地帯に広がるグリーンベルトの現在の様子などを、たくさんのスライドをご用意されてお話いただきました。

かつての国境地帯の東ドイツ側は、国民が逃亡しないよう、国境のはるか手前に塀や見張塔を設置して、その先にはブナ林や荒野が広がり、さらに国境にも塀があって、塀と塀の間は、立ち入りが禁止されているので「誰も居ない地域(Niemandland)」と呼ばれていました。

旧西ドイツのヘッセン州と旧東ドイツのチューリンゲン州の国境にあった検問所「ポイント・アルファ(Point Alpha)」の周囲にもそういったグリーンベルトが手つかずのまま残されていたので、空気も良く、小鳥のさえずりも聞こえ、今では散策路も整備されていて、社会見学に来た子供たちが自然を身近に感じることができる場になっています。 土地があるから開発しようというのでなく、自然を大切にしようという発想や、一方で、記念館では東西分断の悲劇の歴史を紹介し、負の遺産を忘れずにとどめるのはいかにもドイツ人らしいとお話されていました。

過ちを繰り返さないようにと、警告の意味を込めた記念碑(Mahnmal)はドイツでよく見かけますが、ここでも旧東側の国境地帯には西側に逃亡しようとして犠牲になった人たちのシラカバの木で作った十字架(Birkenkreuz)が残されているとのことです。 他にも、丘の上には中世の美しい古城ハンシュタイン城がそびえる美しい村で、今ではサイクリングロードや遊歩道が整備されているボルンハーゲンが、目の前が西ドイツとの国境だったため、かつて住民は秘密警察シュタージの監視下に置かれ、地元住民以外は立ち入りができなかったこと、村内を国境が走っていたため「小さいベルリン」と呼ばれ、兄弟の家が東西に分断され、行き来することもできなかったメドラロイトのことなどもご紹介いただきました。

そして、最後に紹介されたのがポツダムのお話。
ポツダムは、第二次世界大戦の終わりに米、英、ソ3国の首脳会談が行われたので有名ですが、ポツダムの市民はこの会談で原子爆弾の使用が決定されたことが心に重くのしかかっていて、市内には「ヒロシマ・ナガサキ通り」があり、「ヒロシマ」と名付けられたバスが市内を走り、車内には原爆で犠牲になられた方の人数などが書かれたボードを掲示したりして、過去の過ちを忘れないようにしているとおうかがいしました。

どれもが興味深いお話ばかりで、あっという間の一時間半でした。私もいつかは旧東西ドイツの国境地帯を訪ねてみたいと思います。
最後になりましたが、相原様、このたびはお忙しい中、ご講演をいただきどうもありがとうございました


講師を囲んでの懇親会



3月例会 講演会

日本料理の心と技術 「西洋料理と何が違うのか」

講師 近藤元人氏 創作和料理「近藤」店主
(有)彩遊館代表取締役

会員  鈴木 章子


昨年、日本の和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことはまだ記憶に新しい事です。「和食」を日常の食としている私たちにとって、登録されることがどういう意味を持つものなのか、戸惑いを感じる方も多いと思います。今回、鎌倉で創作和料理の店を経営されている近藤元人氏の講演を聞き、改めて登録の意味と和食文化の特性を知ることが出来ました。ユネスコへの登録の提案者には、和食文化の特徴の説明から始まっています。

その第一は、主食である米が国外から伝来の食物であること。そして、米と同じく麦類、雑穀類、豆、芋、野菜の類まで長い年月を経て日本へ伝来し、日本の風土に合わせて品質改良を重ね、現在では豊富な農産物が生産されていること。
第二の特長は、豊富な海の恵みと水の恵みです。暖流、寒流の影響で、多様な魚介類が獲れる自然があること。また軟水と呼ばれる良質な水に恵まれ、水に係わる食文化の発展があったこと。

例えば、中国伝来の豆腐も日本の軟水の利用で現在のような柔らかな豆腐が作られています。日本酒の製造、茶の湯文化の発達、刺身という生魚を食する文化等、水の恩恵によって成立した食文化がある、ということです。

第三の和食の特徴は、絶えず海外の文化を受け入れ、知識と知恵を磨き、技術を発達させて日本独自の食文化を作り上げたこと。この文化の受容についていえば、私たちの祖先は文字をはじめ政治制度に至るまで、文物を大陸から取り入れ日本流に作り上げた歴史を見ても、食文化も例外ではありえないということでしょう。



また私達は、常に飢餓や災害に備えて備蓄の必要があり、食料を無駄にしない調理や加工の工夫もなされてきました。こうした持続可能な資源の利用と開発が重要な課題であり、自然を破壊することなく、むしろ自然を尊重する精神は和食文化の中にある、と提案書に特筆されているそうです。

自然の尊重は他国の文化にもみられることですが、日本人は山の樹木にも滝にも、山の動物にもカミ(神)が宿っており、カミはあまねく存在し、その自然によって人は生かされている、という信仰にも似た意識を持って暮らしてきました。そこから様々な生活行事が生まれ、食と結びついて多くの行事食を生み出したということです。

文化遺産としての和食は、単に料理や食材にとどまらず、食の作法や食器の特異性にあります。西洋でも中国、韓国でも汁ものはスプーンを使いますが、日本の汁物はすすって頂きます。その為、熱さを感じさせない漆の食器が生まれました。汁をすする音、そばをすする音、茶の湯をのみきる音なども、食の場の点景として人々は楽しみます。また和食の食べ方の特長として「口中調味」といわれています。ご飯を一口食べたらお菜を一口食べて、それぞれ自分の味を味わいながら食べることです。あらかじめ色々のお菜を混ぜ合わせて食べる、たとえばビビンバのような料理とは異なっています。

私たちが習慣的に行っている食べる作法も永い歴史の中で培われ受け継がれてきたものなのです。しかし近年になって食の世界も変わりつつあります。時代とともに色々な変化が起こることは仕方がないことかもしれません。しかしこうして和食の歴史を学んでみると失われてしまったもの、忘れ去られたことの中に、今一度見直し、考えてみる価値のあるものが埋もれているのです。和食を文化遺産とするのではなく、私たちの日常の生活の中にもっと生かしていきたい。そして、それを次の世代に伝えなくてはならない。そんな切実な思いになりました。






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