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7月特別例会
「特別例会 レクチャーコンサート」を今年も聴いて




会員 舩木 健氏


今年もブレマ―ハ―フェン在住の志賀トニオさんがご家族と共に帰国、恒例となった音楽講義を催された。 7月11日(火)午後2時、カトリック教会藤沢ホールにおいて35名の受講者が集まり熱心に耳を傾けた。 演題は「楽譜を読む“音楽は物理かも”」であった。

まず楽譜を読む大前提として2つの事を挙げられた。 その1つは、隣り合う音は常に動く魚のように変るということで、楽譜で同じ音が 続くのであれば音楽は成り立たない、と説明、 その2は楽譜を、森〜木〜森の順に読むことで、どちらもピアノを弾きながら話された。

 次に音楽には、音形・リズム・和音・言葉の4要素があるとのことで、 今回はその3番目の「和音」がメインテーマだとして詳述に移られた。 和音には、主和音・属和音・下属和音の3種があり、これらに就いてもピアノでいくつかの実例を示された。 基本的な説明はそれで終り、モーツァルトの歌劇「魔笛」中、タミーノの独唱部分に入る。 楽譜を目で慌しく追いながら構成和音を知る。 トニオさんの弾き語りは素晴らしい。 ところどころで、楽譜中のラルゲット、あるいはいくつものシャープやフラットの説明もあり、作曲家の意図が少しは判ったような気になった。

 講義の時間が半分以上過ぎたころ、皆で歌う時間になった。 (昨年は「のばら」であったが、)今年は「菩提樹」だ。 最初にトニオさんが1番から3番まで通してピアノを弾きながらの模範歌唱。 続いて聴衆が全員で歌うことになった。が、楽譜を見ながら歌っていると、たいがいはトニオさんの指揮を見ていないことに気付いた。 そこで今度は楽譜を見ると同時に指揮も見るように心がけた。 二度三度と歌っているうちにトニオさんからGut!の合図が出るようになり、徐々にレベルアップしているのが実感できた。
 私個人の好みを言うと、「菩提樹」は数ある西洋歌曲の中で最も好きな曲である。 それゆえ、この日この時の合唱の時間はこの上なく楽しく、幸せなひとときであった。 特に期せずしてこの曲が4部合唱で歌われて、しかもそれがものすごくハモっているので、 何と素晴らしいことか!とジーンとくるものがあった。

 トニオさんの音楽講義を一昨年・昨年と3回続けて聴いたが、毎回有益なお話で私の音楽人生に更なる知識増がもたらされるのでありがたく 思うと同時に、この企画実行をされた協会の皆さんにも深く感謝している。



レクチャー風景




終了後の懇親風景




7月例会
講演会「岩倉使節団のドイツ回覧」 報告




会員 西山 忠壬氏


7月の講演会には現在「米欧亜回覧の会」幹事をしておられる岩崎洋三先生に願いして、 明治4年末から1年10カ月に亘り日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国訪問の為派遣 された岩倉使節団に関してご講演を頂いた。

この使節団の派遣は@条約締盟14か国表敬訪問A条約改正予備交渉 (条約改正期限:1872年明治5年)7月1日)B先進各国制度・文物視察を目的とし、 岩倉具視を大使、副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳のほか、 使節団46名のほか隋従者、同行留学生を含む合計107名で構成されていた。

当初の予定では10カ月半にわたり14か国を訪問する予定で明治4年11月12日 (西暦1871年12月23日)横浜を出航、アメリカへ。 この使節団は不平等条約の改正に向けた予備交渉で、幕末期に欧米諸国と結ばれた 不平等条約を改正し独立した一国家として各国と平等な国際関係を実現することが 明治新政府の重要課題でもあったのであるが、最初の訪問地であるアメリカでの交渉 では205日滞在したものの実質的な改正交渉は無理だと気付き、以後の訪問国、 イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア等の欧州諸国では改正希望 のみを伝えるだけに終わる。

ドイツでは1873年3月7日まず人口5万1千526人を有する町エッセンを訪ね石炭や鉄を 産出のほか銃砲製造で従業員2万人を抱える大手メーカー、クルップ社を訪ね、 夜はクルップ氏宅での宴会に招かれた。その後ベルリンを訪問、20日間滞在するが、 その間大公園、水族館見学、ウイルヘルム1世との謁見、夜は皇帝劇場でオペラ観劇や、 皇帝のスピーチを聴き、ビスマルク宰相、モルトケ参謀長等と帝宮で会食、 ジーメンス社電気製造所、武器庫、天文台、城郭、兵舎、小学校、大学、消防社等の 見学を済ませた後、ポツダムではブランデンブルグ王宮を見学ののち3月28日一旦ロシアに 入り4月14日まで滞在の後、4月16・17の両日はハンブルクで市中 遊覧バンク・オフ・エルフの河岸見学、更にデンマーク・スウェーデンを訪問後 リューベック、ハンブルグ、ハノーヴァーを訪問後、フランクフルトではノーメン社で 日本通行の紙幣製造を見学、ミュンヘン訪問をドイツ最後の訪問としてイタリーに 向かった。各地を回ったのち、ドイツの風土、性格、法律制度等を参考に日本の法律、 医学等ドイツから導入することとなるのである。

この岩倉使節団派遣の起案者はオランダ生まれの22歳でアメリカに移住し、 日米修好通商条約調印の翌1859年(安政6年)11月29歳で長崎に宣教師として着任、 洋学校の教師を務めた後、1869年(明治2年)3月太政大臣三条実美に招聘され 開成学校教師件政府顧問となり、同年6月外国官副知事大隈重信に建言する 「Brief Sketch」を提出したフルベッキ氏である。



講師の岩崎洋三氏




懇親会の模様





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