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1月例会報告
「史跡めぐりで中欧の歴史を探る」

講師 西沢 英男氏



会員  望月 恭一

松野会長から西沢さんは、バンカーとして西ドイツに赴任され、銀行のお仕事だけではなく、大陸を飛び回り、 ヨーロッパの文化と歴史を学んできたと紹介されました。

1990に退職なされ、それから10年間の旅の成果を報告していただけるということでした。 西沢さんの自己紹介では、30年間銀行に勤務、その内ドイツには数年駐在され、 赴任してすぐ車を購入、大陸を飛び回り、ヨーロッパ文化を吸収されました。
寅さんの「男はつらいよ」映画看板集48作を常にカバンに入れて旅の友として、 青きドナウやハプスブルクの国々、そしてドイツを歩き回ってきました。
ここから本題に入ります。

日本の関ヶ原の戦いに相当する「マルヒフェルトの戦」

1278年、この戦いで、ルードルフ1世がボヘミアのオットカル2世を破り、ハプスブルグ家は、 オーストリアを拠点に支配権を拡大することになる。 ルードルフ1世は、いかつい獅子鼻、唇は厚く、あごは、しゃくれていたそうです。 マルヒフェルトは、ウイーン郊外の辺鄙な平原で、古戦場あとには大きな記念碑があり、 そこまで奥様とご一緒に足を延ばしました。

三十年戦争

アウスブルグの和議(1555)で、新旧両派〔新教同盟(ウニオン)と〔旧教連盟(リガ)〕の対立が解決されたかにみえたが、 両派の反発は続き、プラハ城窓外放り投げ事件をきっかけに三十年戦争が始まる。
@ベーメン・プファルツ戦争(1618〜23)→ドイツの内乱、
Aデンマーク戦争(1625〜29)→国際戦争に拡大、
Bスウェーデン戦争(1630〜35)→傭兵の戦い、
Cフランス・スウェーデン戦争(1635〜48)→ハプスブルグ対ブルボン(政治戦争化)を経て、
Dウェストファリア条約が1648に締結された。

講和会議は、北西ドイツ、ウエストファリアの中心都市、 ミュンスター市とオスナブリュック市で開かれ、会議は延々3年間を要した。 この戦争により、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)は極度に疲弊し、300以上に 及ぶ領邦国家に分裂し、宗教的対立は収まったものの、統一ドイツの成立(1871)までには さらに2世紀以上の時間を要することになった。

両方の都市のRathaus(市庁舎)にあるFriedenssaal(講和条約が締結された広間)を訪問され、 ミュンスターでは、展示絵画の中から若きルイ14世を発見したことや、 Kellerのジャガイモスープがとても美味しかったことなど写真を交えてお話しいただきました。

エムス電報事件

1870年7月ビスマルクが電報の情報操作によってドイツ・フランスの世論を刺激し、 ナポレオン3世を戦争に踏み切らせ、普仏戦争のキッカケを作り、プロイセンが勝利した電報事件。 風光明美な町バートエムスから始まり、ドイツ統一へ大きな第一歩を踏みだす契機になった町。 ライン河の東側、コブレンツのそばにある。

ショプロン(オーストリアとの国境にあるハンガリーの小都)ヨーロッパピクニック計画

1989年夏、白昼堂々東独市民を西側に脱出させ、ベルリンの壁崩壊の先駆けになったピクニック計画です。 この裏方に、ハプスブルク家のオットー大公が居り、大公のお嬢さんが代理を務めたそうです。

最後に以上のような歴史の大切な転換点を迎えた史跡や街の写真を見せていただきました。 私は、一昨年のオクトパーフェストを紹介され、その会場で、 SWZ を知り、Trink,trink Bruderlein,trink! やWanderliedそしてRose Marieなどを毎月唄うことができるようになりました。 もう少しドイツのことを知りたいと、昨年末当協会に入会しましたので、今後ともによろしくお願いします。 私にとって、ドイツの歴史は、複雑で、簡単には理解できないのですが、西沢さんのおかげで、 一つ一つの事件に興味を持つようになり参考になりました。大変感謝しております。


講師の西澤英男さん(全面右より2人め)を囲んで




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