「グリムこぼれ話」を聴講して

会員 木原健次郎


 世界中で、聖書に並ぶと言われる程広く読まれている「グリム童話(Kinder und Hausmaerchen)」は、グリム兄弟によって、1812年、初版が出版された。当時のドイツは、多くの小国に分かれたまま、フランス革命を経て急速に膨張するフランスに、政治的には個別に対応せざるを得ず、後にドイツ統一の柱となるPreussenですら、Jena/Auerstadtの戦いにNapoleon率いる仏軍に敗れ、領土侵食・賠償金債務・仏軍駐留の屈辱を味わっていた。
 このような中、フィヒテやシュタインの登場で、ドイツのVolk(国民)意識が高揚。グリム兄弟の携わった、ドイツのMaerchenの発掘・収集作業も、こうした世の中の意識変化を反映したものであったようだ。
 御講演頂いた橋本孝先生(日本グリム協会会長)は、このグリム童話、グリム兄弟を永年研究されてこられ、その造詣の深さには感服させられる。グリムに関係する場所は、ご自身で確認する為、隅々まで足を運ばれ、その度に新たな発見をされ、感動されている御様子は、寧ろ羨ましい程である。又、Wilhelm Grimmの妻ドロテアの手紙に出てくる文久使節団の日本人3名(訪問を受けて懇談した)とは誰か、又、日本の資料では、何故その訪問の事が確認できないのか、についてのお話では、未だ未解明な、推理の楽しみの余地が残っているテーマである事も感じられました。
 グリム童話について、世界的に有名な童話程度の認識しかなかった自分の無知を恥じるとともに、その不思議さ、奥深さに、今更ながら、強く惹かれる思いを持った。
 以下、特に興味をそそられた点、感じた点を記してみたい:
@本来の民話の意図した処は何か?
 グリム兄弟は、出来るだけ伝承に忠実に、昔から伝えられた民話の活字化を意図したが、初版は、「余りに残酷(実母による子殺しなど)」「子供に読み聞かせるには不適切」と不評で、後には、キリスト教的倫理観から、一部削除や修正も行ったようだ。中世の民衆の生活には、19世紀の感覚からみても、残酷と思われる事が一般的に行われていたのだろうが、しかし、何故、わざわざそんな残酷な事象をメルヒェンにいれていたのか?例えば、白雪姫(Schneewittchen)では、王妃(修正前は、実母)が、自分の娘を殺せと命令する、更にその証拠として差し出された白雪姫の肺と肝臓(実は猪のもの)を煮て食べてしまう。最後には、白雪姫の結婚式に来た王妃は、真っ赤に焼けた鉄のスリッパを履いて、死ぬまで踊らされた。
 日本人の感覚からは、信じられないような事ばかりですが、これが子供に聞かせられたとすれば、その意図する処は何か。「世の中は非条理な事ばかりだが、それを現実として受け入れ、強く生き抜け、やられたらやり返せ」と言っているように私には思えます。現代日本の「いじめによる子供の自殺」等を思えば、必要なのは、「命の大切さを教える」等という掴みようの無い話ではなく、このような、「何があっても負けずに逞しく生き抜け」というメッセージの方が、余程、伝わり易く、重みのあるものに思える。
Aグリム兄弟は、ドイツ文化の独自性を証明出来たか?
 グリム童話に収められた民話は実際にはドイツだけには限らず、ヨーロッパの他の地に発するものも含まれていたようだ。更に、橋本先生によれば、「Sternblume」が一般に日本で訳されているような「エゾ菊」に限らず、魔法を解く花を意味する「ユリ」でもある事など、使用されている一つ一つの単語の裏には生活文化からくる深い意味が込められており、その意味から、グリム童話を真に理解するには北欧神話「Edda」の知識が必須で、同時にケルト文化の影響も認められるとの事。元々グリム兄弟は、Deutsches Volk意識を目指して民話の収集やドイツ語辞書編纂を始めたといわれるが、結果的に、ヨーロッパ文化は国家の枠を超えた、諸民族の文化が融合した物であると証明した事にならないか。異質性を意識するが、実際には根は同質。あの同じ土地を多くの民族が居住し、移動し、戦ってきた歴史を思えば、頷ける。この点が、アジアと違う点で、アジアの文化は一括りにできない異質性の上に成り立っており、簡単にヨーロッパの真似は出来ない。何れにせよ、グリム兄弟の努力が統一国家ドイツの成立に大きく貢献した事は確かだろう。
 以上は、一門外漢による橋本先生の講演についての感想。来年3月には橋本先生による全訳・グリム童話全集が出版されるとの事、どんな新たな発見があるか、今から楽しみである。




講演する橋本孝先生





楽しく聴き入る会場





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