講演会報告(湘南日独協会第64回例会)

日本人炭鉱マンのドイツ派遣

−あれから50年・歴史と現実−

講師:森廣正(法政大学経済学部教授)


 森先生は90年代から00年代の初頭にかけ3年間ドイツに滞在、主要テーマとして、演題でもある「日本人炭鉱マンのドイツ派遣」の研究にあたられた。 講演は具体的な事例を交えながら、テーマ全体を、派遣にいたる経過、派遣計画と実行、その後の炭鉱マンの生活に分けて説明された。 以下は、その概要である。

 ほぼ50年前の昭和31年7月、ドイツにおける炭鉱労働力不足を背景に、ボンで「ルール石炭鉱業における日本人炭鉱労働者の就労計画」が仮調印され、 同年11月には正式調印にこぎつける二国間のスピード協定であった。本協定に基づき500人の日本人炭鉱マンの派遣が決定された。 海外渡航がまだまだ珍しかった当時、派遣者の選考基準はびっくりする程厳格なものであった。 まず、坑内経験3年以上の満21歳から30歳未満の独身者、身長1.64m・体重56.3kg以上、勤務成績優秀者で志操堅固な人格円満者、更に、 新制中学卒業以上の学歴でドイツ語の学習に耐え得る者などの厳しい条件が求められた。この条件をクリアーすべく、 或る派遣希望者は、妻を離婚してまで応募したほどであった。

 その結果、昭和32年から37年にかけて、第1陣から第5陣まで総勢436人の炭鉱マンがドイツへ渡ったのである。 派遣期間は3年の期限付き就労、派遣目的は、@先進炭鉱業の技術習得 A西欧組合民主主義を範とする労働組合対策 Bドイツ産業と日独親善への寄与であった。

 派遣先は、ルール工業地帯のハンボルンなどの3鉱山であった。然しながら当初は、「技術習得」か「出稼ぎ」か等の、 派遣目的と現実とのズレや不満が日本人炭鉱マンの間に顕在化し、幾つかの打開策が講じられることとなった。 その後、選考基準も緩和され、既婚者でも応募可能となった。

 この派遣計画は、昭和40年の第5陣派遣者の帰国をもって終了することとなるが、派遣者のその後の生活も様々である。 殆どの炭鉱マンは帰国することとなるが、炭鉱の斜陽化に伴い、半数以上が転職を余儀なくされた。 一方、ドイツ人女性との結婚等により32人が現地に残留、7人がカナダの鉱山へ赴任した。中には帰国後会社を退職し、 再び単身渡航してドイツの鉱山に戻った例もある。派遣終了時の国際情勢のキーワードは、「経済発展と人の移動」 「韓国人炭鉱労働者のドイツ派遣」「個々人にとっての派遣の意義」等となろう。

 森先生は、派遣炭鉱マンは勿論、ドイツ人炭鉱関係者や鉱山博物館への地道な面談や訪問などをして、 この「国境を越えた人の移動」にスポットを当て、派遣事業の−歴史と現実−を冷静に見つめることにより、 その今日的意味を問う姿勢を始終貫かれたように思われる。他方、派遣者個々人の経験や考え方も多様であるがゆえに、 その全てを紹介することが不可能であることは言うまでもないが、個々の事例の報告に大変ご苦労をされておられたことも事実である。 最後に、或る派遣者の回想の一端に良く表れている、として先生が紹介された日本人炭鉱マンの言葉をお伝えしたい。

"Die Menschen sind ueberall gleich. Wo ich wohne, ist mein Zuhause."

(2009年8月 協会会員 能登崇 記)


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