湘南日独協会会報 Der Wind

 VOL.21 NO.4 通巻 125
 発行 2019.10.13
 更新 2019.11.12
   

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 TEL: 0466-26-3028
 FAX: 0466-27-5091
 Mail:
 jdgshonan.official@gmail.com
   

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 〒251-0025
 藤沢市鵠沼石上1-1-1
  江ノ電第2ビル7F
   

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会長からのご挨拶

お知らせ
募集中
 湘南日独協会 会員募集中
  湘南日独協会では、会員を募集しています
   入会申込書(PDF版)を、 こちらからダウンロード、印刷、ご記入の上、協会まで送付下さい
  もしくは
   入会申込書(Excel版)を、 こちらからダウンロードし、
   エクセルで開き「編集を有効にする」「コンテンツの有効化」にして、必要事項をご記入頂き、
   保存の上、 こちらから、協会宛のメールに添付し、送付下さい

 ドイツ語講座の受講生募集中
   湘南日独協会では、ドイツ語講座を開講し、受講生を募集しています
   詳しくは、 こちらをご覧下さい

 合唱団アムゼルの団員募集
   湘南日独協会混声合唱団 アムゼルでは、団員を募集しています
   詳しくは、 こちらをご覧下さい

開催イベント  詳しくは、こちらをご覧下さい
 また、湘南日独協会 催事カレンダー(2019年10月17日版)は、こちらから、ご覧頂けます

 11月例会
   11月24日(日) 講演会 欧米における日本のイメージ
 望年会
   12月15日(日) トラットリア ボッテ (Trattoria Botte)
 1月例会
   1月26日(日) 講演会 戦前日独の競合と協調の歴史
 2月例会
   2月23日(日) 講演会 壁崩壊後のドイツ30年

 談話室SAS
   2020年 1月14日(火), 2月14日(金)
 読書会:ドイツ文学を原語で楽しむ会
   詳しくは、 こちらをご覧下さい
   11月 19(火), 12月 3日(火), 17日(火)
   2020年 1月 7日(火), 21日(火), 2月 4日(火), 18日(火), 3月 3日(火), 17日(火)

会員の皆様へのお願い  
投稿のお願い
会員の皆さんの日頃のご活躍を会報でお知らせしたいと思います。 演奏会・展覧会・発表会・講演会等の予定をお知らせ下さい。
会報は季刊、4月、7月、10月、1月の第2日曜日発行予定です。 前月の中旬までにメール・郵便のいずれでも結構です。お待ちしています。

皆様へ、ご協力お手伝いのお願い
隔月発行の会報Der Windの発送作業を、原則、季刊4月、7月、10月、1月の第2日曜日、午前10時から行っています。
お手伝い頂ける方は、ご連絡頂ければと思っています。

年会費について
2019年度の会費納入の時期になっています。会報発送の折、振り込み用紙を同封しています。どうぞ早めの納入をお願い申し上げます。 なお、ご寄付項目も設けておりますのでご協力頂ければ有り難く運営に役立てたいと思います。

これまでに、会費を振り込み頂いた方でお名前の記載がない方が居られます。会の方へご連絡いただきたくお願いします。




 これまでの掲載記事
   (寄稿など)


  会員掲示板(これまでのホームページ掲載記録 - ältere Nummern)
  劇場便り
  マインツから
  Deutsche Witze
  これまでの協会主催イベントについて:イベント情報
  私とドイツ
  皆様から寄せられた岩崎先生への追悼文



 活動案内


  

 2008年 2009年
 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年
 2015年 2016年度 2017年度 2018年度 2019年度



 関連協会



 日独協会(JDG)

 〒160-0016 東京都新宿区信濃町18番地マヤ信濃町2番館
 受付時間:月〜金 10:00〜18:00
 TEL: 03-5368-2326 FAX: 03-5368-2065


 横浜日独協会(JDGY)

 〒223-0058 横浜市港北区新吉田東2-2-1-913
(事務局:能登)045-633-8717



 提携協会



 ワイマール独日協会

  Rainer-Maria-Rilke-Straße 10A, 99425 Weimar
   c/o : Peter Käckell
   E-mail : djg-weimar@t-online.de

湘南日独協会 開催行事の予定

湘南日独協会 催事カレンダー(2019年10月17日版)は、こちらから、ご覧頂けます
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月例会

会場 湘南アカデミア 7階


11月例会 欧米における日本のイメージ

日時 2019年 11月 24日(日) 15:30〜16:30
講師 Prof.Dr.ブッヘンベルガー 氏
概要 ミュンヘン大学で日本語と日本文学の勉強を始めた当時、まだ日本のことを全く
   知らず、講師は様々なソースから日本についてイメージを作り上げました。しかし、
   1990年に初めて来日した時、現実の日本はイメージと異なり、驚かされたようです。
   2000年に日本に移り住み、以降滞日ほぼ20年、日本のイメージが全く変った一方、
   欧米の社会はまだ昔の儘、その欧米における日本のイメージについて語って頂きます。
   講師は現在神奈川大学の教授です。

   茶話会 会場にてコーヒー程度
   会費 100円 どなたにも気楽に参加頂けます

会費 1,000円

懇親会 会場「庄や 藤沢南口店」 会費 4,000円

望年会

日時 2019年 12月 15日(日) 17:00〜19:00
場所  トラットリア ボッテ (Trattoria Botte)
      藤沢駅北口 藤沢さいか屋 8階
      電話:0466-21-8842

会員相互の親睦を兼ね、語らいを中心とした望年会を計画してます
お酒は日本のビール、赤白ワインなど、料理はイタリア料理です
今まで参加されてない方も、参加されてみては如何でしょう!

会場予約の関係上、参加の申込みは、12月8日(日)までとさせて頂きます
会場は40人位の広くない所ですので、定員になり次第締め切ります

会費 5,000円(税込み)

ご連絡のメールは、こちらからお願いします

1月例会 戦前日独の競合と協調の歴史

日時 2020年 1月 26日(日) 14:30〜16:00
講師 五百旗頭 薫 氏
概要 近年の研究によって、戦前の日独関係の全体像がどのように
 描けるようになったかをお話し頂きます。19世紀後半、統一を成し
 遂げたばかりの日本とドイツが極東で邂逅した時、どのような化学
 反応が起きたのか。南洋諸島をドイツが領有した事は、南太平洋に
 どのような秩序をもたらし、第一次世界大戦によって日本がこれに
 取って代わった時、どのような問題が起きたのか。日独伊・枢軸国
 の関係はどのように推移したのか。世界史的な展望の中で、日独
 関係史の重要性を明らかにして頂けます。

五百旗頭 薫 氏

 講師は、一昨年12月にも講演を頂いた日本政治外交史専門の東大大学院教授です。

   茶話会 会場にてコーヒー程度
   会費 100円 どなたにも気楽に参加頂けます

会費 1,000円

懇親会 会場 未定

2月例会 壁崩壊後のドイツ30年

日時 2020年 2月 23日(日) 14:30〜16:00
講師 Dr.クラウス・フィーツエ 氏
概要 ドイツを分断してきた壁が崩壊して丁度30年を経過しました。統一を果たしたドイツは、今や、
   政治、経済両面でEUを牽引する大国と言えるでしょう。しかし、近年、外交政策、貿易政策を
   巡る米国との対立、EU内では英国Brexit 、難民問題に端を発した旧東欧諸国との軋轢等々に
   直面しています。さらには強権の中ソにどう対応するのでしょうか。国内でも、右翼政党AfD の
   大躍進にあって現与党CDUは力を失いつつあります。さらに、強まる異文化流入、プラスチック
   ごみ処理、核廃棄物処理、少子高齢化、企業統治等々日本と共通する悩みも少なくないようです。
   ドイツはこうした問題にどう取り組んでいるのでしょうか。
   どこまでお話頂けるか分かりませんが、ご期待下さい。
   在日ドイツ大使館首席公使が、日本語でお話し下さいます。

   茶話会 会場にてコーヒー程度
   会費 100円 どなたにも気楽に参加頂けます

会費 1,000円

懇親会 会場 未定

読書会

  ドイツ文学を原語で楽しむ会
   詳しくは、 こちらをご覧下さい

会費 1,000円
会場 ミナパーク 5階

回数 月 日 会議室番号 時間帯
第1回 10/01 (火) 506会議室 15:00〜17:00
第2回 10/15 (火) ミーティングルーム 1 15:00〜17:00
第3回 11/05 (火) 507会議室 15:00〜17:00
第4回 11/19 (火) ミーティングルーム 1 15:00〜17:00
第5回 12/03 (火) ミーティングルーム 1 15:00〜17:00
第6回 12/17 (火) 506会議室 15:00〜17:00
第7回 1/7 (火) 507会議室 15:00〜17:00
第8回 1/21 (火) 506会議室 15:00〜17:00
第9回 2/4 (火) 507会議室 15:00〜17:00
第10回 2/18 (火) 506会議室 15:00〜17:00
第11回 3/3 (火) 507会議室 15:00〜17:00
第12回 3/17 (火) 506会議室 15:00〜17:00

談話室SAS

会費 1,000円

談話室SASについてのご紹介は、
こちらをご覧下さい
12月 談話室 SASは開催しません

2020年 1月 談話室 SAS
   日時 2020年 1月 14日(火) 15:00〜17:00
   会場 ミナパーク 5階 ミーティングルーム 1

2月 談話室 SAS
   日時 2020年 2月 14日(金) 15:00〜17:00
   会場 ミナパーク 5階 ミーティングルーム 1

寄稿


7月例会 講演会
寺田 雄介氏
  「カフカの『変身』について」

  を聞いて

カフカへの道筋
若い頃、斜に構えて読んだカフカは難解だった。独文学者の池内紀氏は、「カフカは見る位置によって変わる不思議なだまし絵」と評している。 寺田先生は「変身」をとり上げてカフカ理解への道筋を教えてくれた。説明はとてもクリアで、映像使用も実にスマートで独特のリズムがあった。


会員 笹 信夫 氏

不安の中に生きたカフカ
数年前、あるカルチャースクールのドイツ語学習で寺田先生の講義を受けたことがある。 担当のS教授の代講であった。レクチュアの後だったと思う。私の質問に先生は答えてくれた。 「カフカが専門。不安の中に生きた作家」と。「不安―」そのことが印象に残った。

今回の講演に触発されて先生のお話を手掛りに、カフカについて考え、私なりにまとめてみた。 つまり、時代背景、チェコの民族構成、カフカの出自、生い立ちなどである。 そしてカフカの「自分を支えるものがあるのか、それは何なのか」といういわば「底無しの不安」についてである。

カフカ(1883 - 1924)が生まれた時、プラハはオーストリア・ハンガリー帝国に属していた。 人生の後半に第1次大戦(1914 - 1918)があり、1918年にはチェコスロヴァキア共和国が誕生した。 まさに激動の時代である。因みに『変身』は大戦前(1912)に執筆された。カフカが29才の時である。 チェコスロヴァキアの民族構成は複雑だった。 チェコ、スロヴァキア、ドイツ、ハンガリー、ウクライナなど多数の民族の中にユダヤ人が同居していた。 カフカはユダヤ人である。チェコと言う国は各民族がせめぎ合いを繰り返すのであったが、 少数派のユダヤ人は所詮流浪の民でありデラシネであった。マリアテレジアによるユダヤ人追放令(1726)は、 19世紀半ばまで続いていた。

カフカにとって、ユダヤ人であることが生涯負い目となった。 カフカというのはチェコ語の「カラス」を意味する。 チェコのユダヤ人はもともと「姓」を持たなかったが、1782年ヨーゼフ2世がユダヤ人の姓を認めたという。 果たして「カフカ」という姓がいいものなのか、あるいは小役人が気紛れにつけたものかわからない。 カフカはどう受けとめていたのだろうかー。 ドイツ人でもチェコ人でもないカフカは、ドイツ人社会やチェコ人社会にもおさまりがつかず不安定な存在であった。 宗教的にもキリスト教やユダヤ教にも疎外感を持っていたという。

「変身」と「山月記」
講演の途中で私はふと中島敦の「山月記」を思い出した。 「変身」はセールスマンの男がおぞましい "毒虫" になり、痩せ細って干からびて死ぬ。 一方、「山月記」は詩人として名を成し得なかった李徴が、 "虎" に変容して、悶々の情耐え難く山中の岩の上から月を仰いで咆哮する、 という話である。何れも人間が "異形" に "変身" する話である。 ストーリィの手立てとしては似ている。 カフカと中島敦を並べると外形的にはこの他に相似がある。 一つは大戦の存在だ。カフカは「変身」を執筆後2年経って第1次大戦を経験し、 中島敦(1909 - 1942)は第2次大戦(1941 - 1945)の最中に死去する。 二つ目は病気による若死。カフカは肺結核のためウイーン郊外のサナトリウムで41才の生涯を終える。 中島は宿痾の喘息に苦しみ34才で早逝する。「山月記」は同じ年に発表された。

ところで二人に接点はあったのだろうか。 私は未だ調べを終えていないが、中島敦にとってカフカは関心を寄せていた大きな存在であったと思う。 山下肇氏(独文学者)によると、中島敦は花田清輝、長谷川四郎などと共にカフカ研究の先覚者であり、 吉田健一氏(評論家)は「敦はカフカなど海外の作品を多く読み、世界の混乱がこの近代人の精神に反映している」と解説している。

尚、私が所属する横浜ペンクラブは、横浜にゆかりの深い中島敦を讃え彼の命日(12月 4日)を「山月忌」として偲んでいる。

カフカは今も読まれている
カフカ死して95年になるが、いま尚その作品は読み続けられている。 「変身」は山下肇氏の訳だけ見ても岩波文庫第1刷(1958)から第19刷(2018)まで、 60年間続いている。 辻 瑆氏訳「審判」は同文庫第1刷(1966)から第53刷(2016)まで50年に及ぶ。 カフカがこのように長く読まれているのは、社会や個人の不条理、不透明さを実存の問題として取り上げ、 どこまでも追及する作者の真摯な姿勢がいまも "現実性" を持っているためであろう。


寺田 雄介 講師

それにしても、最近は世の中が万事sachlichになり過ぎて文学が片隅に追いやられているいやな風潮がある。 文科省の国語の新指導方針もそうだ。 「文学作品を圧縮して実務文を入れる」という。 これによると「山月記」も「こゝろ」も高校教科書から消えるらしい。 これに対し「文学の灯が消える」として阿刀田高氏は強く反発している。(2019文春新年号)。 私の知合いのM大学文学部某教授は「学生や若い人の間では中島敦は依然人気があるのに」と言ってくれた。 カフカは自分を覆う不安を問い続けたままいまに生きる私達に重い課題をその作品に残して死んだ。 私は本稿を書いていて次の章句に出会った。

―「真理の探究は不安という経験を通じてなされるもの」(キエルケゴール「死に至る病、ロランス・ドヴィレール、 久保田剛史訳、「思想家たちの100の名言」文庫クセジュ」


会場の様子


6月例会 講演会 「高等技術教育の独仏比較」
吉森賢先生の講演会に出席して

会員 三谷 喜朗


三谷氏        吉森講師        西山顧問

当日のテーマは独、仏における高級技術者はどのような教育のもとに養成されてきたかであった。 吉森氏は仏のINISIADに留学した経験を持ち、研究生活を送られた後、同校の教授に迎えられさらに、 ベルリン大の教授を経て帰国、横浜国大の国際経営学部の初代学部長、名誉教授さらに放送大にて今日なおご活躍中である。 私も一技術屋とし長年現場で過ごして来ており、現在はそれは卒業した積りであるが、 当日のテーマは大変か興味深いもので今日の講演会は盛り上がった。 フランスはナポレオンにより、エコール・ポリテクニークにて教育された技術者が政治に関与しさらに軍事教育化された。

国家統一の遅れていた、 ドイツ(プロイセン)は先行するフランスの技術に対して追いつき追い越せを目標に教育改革を進め、 富国強兵に技術,工学をもって推進した。 明治時代にはわが国も遅ればせながら大学教育に技術が尊重され、さらに軍事教育化されて 欧米に追従して富国強兵化に偏り過ぎた。

この点では仏は、ポリテクニーク出身で有る事で名目的にも社会的地位が確立され、一方独はDipl.−Ing.の資格が理論と実学+応用が結合され、 その資格が尊重された。 その点ではわが国ではDr.(博士号)のみ(戦後技術士の資格が生まれたが)認めらてきた。 ・・・・・・・・・・・・と言うのが多くの投影資料で説明された。 その他にヴィデオ等色々資料をご持参頂いたが当日は機器の都合とそして制約された時間等により残念乍ら又の機会にと言うこととなった。

質疑応答, 先生を囲んでの懇親会では会員との議論は絶え間なく続いた。



       
吉森講師                     懇親会


3月例会 講演会
「帝政ロシアの東方政策」
  を聞いて

私は今世界史に嵌っています。昨年夏、偶然手に取った本に興味を持ち、 次々と出てくる疑問を解くために次々と本を手にというわけです。 こんなことは、大学受験の為に世界史を勉強して以来50年ぶり。 しかも、当時は興味ないまま受験の為に覚えた事柄が今はいきいきと躍動しています。


中野 宏徳 氏

さて、今回のテーマである帝政ロシアについては、つい最近ロシア史を読んでいたのでとても素直に理解できました。 ロシアの東方政策をピョートル大帝時代から始められた森田講師の着眼は正しいと思います。

大帝までの前史は、講義の通り、モンゴルからの解放、ビザンツ帝国とギリシア正教の継承、 封建制から中央集権への変革と、もっぱら国内問題に忙殺されていました。 外に向かっては、イワン雷帝の時にウラル以東シベリアに探検隊を派遣したくらいでした。 しかし、この探検隊の目的は既に不凍港探しであったと思われます。 経済の発展と共に海外との貿易が盛んとなり、河川と運河のみの輸送力では間に合わなくなっていたのです。

ピョートル大帝は、ヨーロッパ先進国を見て回ってから国力の増進には経済に加えて軍事力の強化が必要と感じ、 貿易港と貿易ルートを守る海軍、その拠点となる不凍の軍港探し、 海軍の中味である軍艦を作るための造船所へと政策を拡大していきます。 この「不凍港を求めて」というテーマが、以降のロシア帝国の国是となるのです。 その方向は、バルト海方面、黒海方面、太平洋方面がありました。 バルト海は、大帝在位中に北方戦争でサンクトペテルブルクを得て実現。 黒海方面はクリミア戦争を含む数度にわたるトルコとの戦争に終始。 そして、太平洋方面が清国、朝鮮、日本との衝突です。

ここまではどの歴史書にも出てきますが、森田先生の話はここからが面白い。 日本人漂流者の詳細とその顛末。有名なところでは、 大黒屋光太夫と高田屋嘉兵衛ですが、無名の人の名前とその結末までの話は初めて聞きました。 特にその人たちが帰国を許されずに日本語教師になったとは、気の毒というか、 ロシアの執念を感じます。最初に大阪の伝兵衛なる人が教師になったのは1705年と言いますから、 日本では赤穂浪士の討ち入りがあった頃。 このような時期から将来の対日交渉の為に日本語を勉強していたとは恐れ入る次第です。 次の「ロシアから日本への接近」をみると、ロシアが何とかして日本に接近しようとするよく様子がよくわかります。

その中には日本語学校卒業生もいたとか。この頃、 ロシアが一方的に日本に開国圧力をかけて来ただけと思っていましたが、 森田先生のお話しでは、日本の情報が欲しい時期、交渉したい時期、 拒否されて強硬路線をとる時期と3段階になるとのこと。 私は気が付きませんでした。その後、 1860年に清国から沿海州割譲を受けてウラジオストックを開港してからの東方政策は、 不凍港を求めてというよりは帝国主義推進に変わったように思います。 すなわち満州から朝鮮へと。その結果が日露戦争でしょう。 日露戦争に関しては、講義内容が戦争そのものではなくて海底電線の敷設戦略というのも驚きました。 戦争というのは戦闘以外の部分すなわち兵站、輸送、通信などさまざまな事柄に及ぶのだと感じました


講師 森健太郎氏


懇親会にて


―談話室SAS 9月例会―
「鴎外とナウマンとエリーゼ」

会員 藤野 満

森鴎外の晩年の写真を見ますと、いつも物思いに沈んだ悲しい顔をしているように見えます。 この寂しそうな顔は何処から来ているのだろうかとの思いから、鴎外の一生を知りたくなり、 久々に鴎外の本を手にして様々調べたことが、9月のSAS懇話会での話題提供につながりました。

鴎外の父は島根県津和藩のご典医で、鴎外が小さいときから森家の跡取りとして、 早くから英才教育が施されてきました。当時の藩校であった養老館に五歳から通い、 論語や四書五経などの漢学を学び、九歳でオランダ語、十歳でドイツ語を学ぶなどしましたが、 これら勉学の配慮には、町の開業医ではなく、森家を代表して立派な医師になってほしいとの両親や親族の願いが籠られていました。

その根底には森林太郎の人並み以上の秀でた学習能力が在ったことは言うまでもありません。 東大の医学校の予科には年齢制限から2歳年齢を詐称して入学し、本科を19歳の若さで卒業しました。

大学では外科、内科、化学、生理学、解剖学、物理学・数学、獨逸・羅甸(ラテン)語学、 博物学、製薬化学・算術の10科がありましたが、その全てにドイツ人の教員が居り、 それらの授業は殆ど独逸語で行われたことから、語学に自信をもつ森林太郎にとっては、 まさにドイツに来ているかのごとき環境のなかで医学を学べました。

一方で林太郎は12歳の頃から古今集や唐詩選を読むようになり、次第に文学に目覚めました。

東京大学を卒業すると、鴎外はドイツへの留学希望を強くもちましたが、大学卒業時の成績が八番で、 上位3名に入らなかったことから、政府からの声はなく、 同期卒の友人から陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に名文の推薦状を出してもらい、 陸軍の医師として、自分の夢が実現できることになりました。

22歳の若さでドイツの陸軍衛生制度の調査を目的として三年留学、 この経験がその後の彼の生き方や作品に大きな影響を与えました。 しかし、一方で、陸軍の医師という立場を離れることはできず、帰国後、 個人の願望は他に置かされ、留学は叶わったものの再びドイツに足を踏み入れることは出来ませんでした。

ドイツでは伯林のみならず、ドレスデンやラインプニッヒそしてミュンヘンなどにも脚を延ばし、 コッホやホフマン、ペッテンコッフェル等に師事しましたが、 ドレスデンではさすが鴎外と思われる事件がありましたので、懇話会でご紹介させていただきました。

地質研究のため雇われ外人の一人として招聘され日本に十年滞在したナウマン氏が ドレスデンで行なった日本についての帰朝講演会に出席した林太郎が講演後の会食時に あえてナウマン氏の講演内容を訂正するスピーチをしたことで多くの出席者の拍手喝采を得ました。 その後、数度に渡ってミュンヘンの一流紙 Allgemeinen Zeitungにナウマン氏が 論文「日本列島の地と民」を寄稿しましたが、林太郎はそれについても「日本の実情」 「日本の実情・再論」と題して2度に渡って反論を投稿しました。

これら林太郎の論文は鴎外の師のペッテンコッフェル氏の支持を得て原稿の最終チェックが行なわれたとはいえ、 長文の論文であり、文法の間違いも無く、 優れたドイツ語表現力を示したものとして多くのドイツ人から称賛されました。 なお、日本各地で発見されるナウマン象の化石のナウマンは彼の名前からとられたものです。 ライプチッヒの酒場には鴎外の肖像を入れた壁画が今もかかっています。

鴎外は三年後の明治二十一年にドイツを離れ帰国しますが、 彼の後を追って4日後に到着した別の船でエリーゼ・ヴィーゲルトというドイツ人女性が単身来日します。 鴎外の代表作「舞姫」の主人公エリスのモデルと云われています。

そのエリーゼは鴎外の親族の説得に会い、結局1ヶ月後に横浜を離れドイツに帰国しますが、 その間、鴎外は陸軍あてに辞表を用意していたとも云われています。

エリーゼが去ったあと翌年に鴎外は母や親戚が用意していた見合い相手の赤松登志子(17歳) と結婚しますが、1子をもうけたものの性格不一致から一年で離婚しています。 そして十二年後に母が見つけてきた美人の荒木志げと再婚します。 しかし年の違いや鴎外の母など親族との諍いからこの結婚にも鴎外は満足を得ることができませんでした。

ナウマン氏は日本についてどのような不満をもって、日本批判をしたのか、 また鴎外にとってエリーゼが去ったあとの彼の半生はどうだったのか、 鴎外は臨終前の意識朦朧としたなか、突然「馬鹿らしい」「馬鹿らしい」と喚き、 自分がたどった人生をまるで批判するような言葉を残して他界して行きましたが、 その言葉の真の意味はどこに在ったのかなど、 さまざまな想像を巡らさせるテーマと向き合う良い機会を与えていただき、 自身にとってもたいへん良い勉強となりました。厚く御礼申し上げたいと思います。

9月例会の配布資料の一部です。

        
森 鴎外              ナウマン博士


ライプチッヒのレストランに今に残る、壁に描かれた森鴎外の姿


「クラシック音楽の楽しみ方」  第3回

会員 高橋 善彦

今回は、音楽と譜面のお話です。これまで「譜面は音楽の目安」と書いて来ましたが、 譜面と演奏にどのような差があるのか、演奏家はどのように楽譜を音楽にしているのかを、お話します。

音楽は、作曲家と演奏家による協同作業で成立する芸術です。 作曲家は音楽を創作し楽譜の形にします。 演奏家は楽譜に従い、作曲家の想いに寄り添いながら、知識、経験、感性、 技術で隙間を埋めながら再生し音楽を作り上げていきます。 この音楽の特性によって、例えば、Mozartの時代の音楽に、現在の解釈を加え、 聴衆の前で活き活きとした音楽を再生します。 この事で、長い歴史を通じて愛された名曲が、今でも色あせることなく演奏され、 名曲が生き残り、見直されています。音楽の要素毎に、楽譜の記述と音楽の差を見てみます。

まずは、音楽演奏の時間についてです。音楽の速さを決めるテンポは、例えば、 AllegroやAndanteのような速度記号で記述しています。 更に「ややAllegro」、普通はAllegroよりも少し遅いテンポを示す Allegrettoのような派生形もあります。 具体的にどれ程の速度で演奏するのかは、演奏者に任せることになり、指揮者による演奏時間の差になります。

Beethovenの第九交響曲の演奏時間を、極端な例で比べてみると、 Furtwangler指揮 Bayreuth祝祭管弦楽団の1955年の演奏は74分32秒、 Gardiner指揮 Orchestre Révolutionnaire et Romantiqueの1992年の演奏で59分43秒という差が出ます。

音楽演奏の時間について、もう少し細かく見てみると、音楽全体の音が無くなる「間」や、 テンポが変化する「揺れ」があります。


J.Strauss II : Operetta Die Fledermaus - Overture

上記の譜面は、J. Strauss II のWiener Operetteの最高峰とされる喜歌劇「こうもり」序曲に出てくるワルツ(Tempo di Valse)の部分です。 最初の4小節間は、序奏です。譜面には弦楽器が弓で弾く arco.の指定と強弱記号の pp (ピアニッシモ)から、 だんだん音を大きくする cresc. molto が書かれています。(クレッシェンド・モルト : だんだん強く)

有名な曲ですから聴き馴染みもあると思いますが、この部分は音が大きくなる cresc.とともに、 テンポも、ややゆっくりから速くなり、
赤矢印の箇所で一時停止して、ワルツに入ります。 速くするという指示(accel.)も、一時停止の印( ‘ や フェルマータ)も書かれていませんが、この様に演奏することが通例になっています。 1874年の直筆譜面にも何も書かれていません。 おそらく、曲の持つ楽しい雰囲気の中で、ワルツの登場を強調する効果を狙って、テンポの揺れを取っているのだと思います。 初演の時に、Strauss自身がこのように振ったのかもしれません・・・、わかりません。

同じくStrauss IIの有名なワルツ「美しく青きドナウ」の最初の第一ワルツにもテンポの揺れがあります。 ゆっくり始まり、徐々に速くなりますが、譜面には何も書かれていません。
   ★上記の喜歌劇「こうもり」序曲のワルツ
青い矢印 の箇所も少し遅くしている演奏が多いです・・・私もそうしています


J.Strauss II : An der schönen blauen Donau p.5

徐々に速くなって行く、この第一ワルツが一定のテンポに落ち着くのが、次の譜面にある青い線 ff の箇所です。その直前にある、8分休符(赤丸印)のある箇所で、 オーケストラの音は無くなります。多くの演奏では、この8分休符、普通の8分休符より、少し長めに休みを取り、を作ります。 前の「こうもり」序曲の間の例と同じく、次の ff で演奏されるワルツを強調することになり、「自然な音楽の流れ」(必然)を作ります。


J.Strauss II : An der schönen blauen Donau p.6

このようなは、一定のテンポで音楽が流れるのを、一瞬止めることになります。 この瞬間、オーケストラの奏者は、全員が息を止め、指揮者の棒の先に意識を集中します。 棒が降ろされた瞬間に、緊張感が解けて、オーケストラ全体が一体となった音を響かせます。

演奏時間の差を生むような、基本となるテンポをどのような速度にするのか以上に、 このようなテンポの揺れや間は、音楽に表情をつけることになり、同じ曲でも、 指揮者を含めた演奏者によって、印象が異なる音楽となる大きな要因です。 実際の音楽の演奏場面で、意識的に、もしくは無意識のうちに、 この揺れや間は多く使われています。歌を歌い始める時やフレーズの切れ目で「息をつく」が、この間の原点です。


次に音の強弱についてです。強弱記号の p f をどのような音量で演奏するのか、演奏者に委ねられます。 次の例、 A. BrucknerのSymphony No.4 第一楽章冒頭にあるように、弦楽器群に pp, ホルンのSoloに p と、 曲の同じタイミングで異なる強弱記号を使う場合も多くあります。 勿論、BrucknerはホルンのSoloを聴かせるために、このような強弱記号の使い分けをしていますが、 音量のバランスは演奏家が演奏場所の音響なども考えて答えを出していきます。


Anton Bruckner : IV. Symphonie Es, I Satz

指揮者によっては、弦楽器に最初の2小節間より、 ホルンが吹き始める3小節以降の音量を下げる演奏を求める場合もあります。 また、MozartのViolin協奏曲の5番(Kv219)には、f をどのように演奏すべきか、議論になる箇所があります。


楽譜に書かれている音の高さ(音高)はどうでしょうか? 実際の演奏場面では、主に奏者が微妙に調整しています。これは、細かな話は省きますが、 人が和音の響きで心地よく感じる音階と、旋律を演奏する時に心地よく感じる音階に差があるため、 自分の演奏する音の役割を考えた上で、もしくは、無意識に自然と使い分けています。


楽譜にある、更に抽象的な記述は、発想記号です。例えば、 animato 活き活きと、appassionato 熱情的に、cantabile 歌うように、 dolce 甘美に、espressivo 表情豊かに、spiritoso 精神を込めて等は、 演奏家に問いかけているような記述です。 勿論、比較的わかりやすい、alla marcia 行進曲風に、legato 滑らかに、 leggero 軽く、marcato はっきりと、morendo 絶え入りそうに、 等もあります。発想記号は作曲家の想いを表現している重要な要素ですが、 演奏方法は演奏者の感覚に委ねられます。


Sergei Rachmaninoff : Vocalise / Вокализ

RachmaninoffのVocaliseには、Lentamente. Molto cantabileという速度記号と発想記号が書かれています。 意味は「ゆっくり、より歌うように」となります。Vocaliseですので歌詞の無い声楽の曲です。 cantabile は“歌う(cantare)”に由来する発想記号ですが、ここでは「流れるように」と訳した方がわかりやすいかもしれません。

勿論、日本の音楽、例えば、佐藤 眞さんの合唱曲「旅」の中には「なつかしく」 という発想記号が書かれた曲があります。日本人なら、この言葉で伝わるものがありますね。 この発想記号の言葉が、その時代に、各人がどのように感じるかの多様性に、 音楽の魅力の秘密が有るように思います。ここまで、楽譜には書ききれない音楽の要素を書いてきました。

発想記号には、dolceとかsotto voceのように、音色に近い記述もありますが、 大切な「音色」は楽譜では書き切れない筆頭です。
音色の話は、また、別の機会に改めて。

次回については思案中です
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筆者



劇場便り その18

これまでの劇場だよりは、こちら からご覧頂けます

ブレーマーハーフェン 志賀 トニオ 氏

ご存知のようにドイツでは夏が終われば新年度の始まりです。 ブレーマーハーフェンの劇場でもいよいよミュージカル "Der Graf von Monte Christo" (モンテクリスト伯爵)のプレミエ(演目の初日)でシーズンの幕開けです。 そして、シーズンの始まりには必ず新顔の面々が登場し、それと同時に昨シーズンまで見慣れた顔を見ない寂しさが同居するものです。 そこで今回は意外と知られていないシーズンの終わりから新シーズンの始まりにかけての劇場での仕事内容をご紹介したいと思います。


モンテクリスト伯爵の舞台

昨シーズンの最後のプレミエは6月8日でした。シーズンの仕事納めは6月30日でしたから、 プレミエの後に3週間時間があります。通常のプレミエの後にはすぐに次の曲の立ち稽古が始まるのですが、 この最後の3週間には立ち稽古がないので、基本的に本番と音楽稽古だけになります。 音楽稽古とは、次のシーズンに向けてコレペティが歌手と音取りやテキストの発音等を稽古する事です。 ですから、そのシーズンで契約を終える人は本番以外の仕事をする必要がないという事です。 その為、経費節約の必要性から、 劇場の中で短期契約を結んでいる人達(育児休暇や病欠の代理の契約者等)は上記の最後のプレミエまでだけの契約になる事が多く、 その後の3週間は本番だけの日払いになるのです。 これは6週間の夏季休暇中も給料が支払われる専属契約者とは大きな違いです。 専属契約者は本番の合間に音楽稽古を行い、自分の最後の本番が終了したのと同時に、 シーズンの終了を待たずに夏休みに入ります。 歌手によっては最後の演目に参加していない人もいるので、 運がよければ2週間程度早めに夏休みに入り、正式な夏休み期間と合わせて8週間もの間休暇となります。 そして休暇の間は仕事はしてはいけないという規則があるのがドイツらしい所です。 もちろんそれを守らずに個人の判断で働く人達はいますし、それを罰せられるわけではありません。 重要な点はシーズンが始まった時に、休暇中にそのシーズンの為の準備をしてない事が前提になる事です。 オーケストラ奏者の場合、シーズンが始まると必ず最初の2日間はEinspieltag(個人練習日)という楽器に慣れるための期間が設けられます。 これはドイツの学校では、休暇期間中に絶対に宿題が出ないというのと同じ考え方が根底にあるようです。 休暇はあくまで心身をリフレッシュさせ、仕事の英気を養う時間なのです。 しかし、コレペティトーア、指揮者及びソロ契約の歌手達だけは例外で、仕事始めの一日目から、 シーズンの最初の演目及びガラコンサートの準備が出来た状態で参加しなければなりません。 なぜなら一日目にはさっそく最初の演目の音楽稽古の通しをするからです。


モンテクリスト伯爵の舞台

今シーズンの最初の1か月の仕事内容を見ていきましょう。 仕事始めは8月15日でした。その日は9時〜10時、劇場付きカフェで顔合わせ。 10時〜11時、総支配人挨拶、新規雇用者そのの紹介、毎年恒例の火災報知器の説明。 11時〜、音楽部門はミュージカルの通し稽古。 この予定表は前のシーズン最終日に出るので、実質これが我々にとっては夏休みの宿題となるのです。 私の場合この通し稽古でピアノを弾かなければので、 夏休みの最後の1週間程度はその準備をする事になります。 そしてシーズン始め当日は、9時〜11時まではリラックスしているのですが、 内心通し稽古参加者だけはドキドキしながら通し稽古に集中しているのです。 なぜなら、その最初の瞬間が実力をアピールする場であり、 裏を返せば失敗すれば信頼を失う危険をはらんでいるのです。 次の日にはさっそく立ち稽古が始まり、次の難関はガラコンサートとその次の日の "Tag der offenen Tür"。 今シーズンのガラコンサートは9月7日でした。

このコンサートは新シーズンのダイジェストを紹介するものなのですが、 舞台の上に立つ者にとっては、自分たちの実力をアピールする格好の場であり、 新顔にとっては特にファーストインスピレーションを与える場として特に重要となります。 私はオーケストラの中で鍵盤楽器を担当し、ピアノ、チェレスタ及びオルガンを弾きました。 私の場合舞台の前に出るわけではないので、そこまでの圧力はかかりませんが、 オルガンでは私が一人で弾き始める曲があり、ガラコンサート独特の雰囲気の中、やはり緊張しました。 そして次の日の "Tag der offenen Tür" では、劇場全体が無料開放され、一般の方が舞台裏を見れる年に一度の機会。 お客さんにとっては大変魅力的な一日ですが、劇場の関係者は色々なイベントに駆り出されて大忙し。 例えば稽古場で稽古風景の紹介を実際に音を出しながら紹介したり、 ミニコンート形式で上演したりしますから、こちらも重要なアピールの場となります。 これらを乗り越え、ミュージカルのプレミエが終わると、いよいよ劇場暮らしにどっぷり漬かったシーズンの幕開けとなるのです。



志賀トニオさんのレクチャーコンサート
テーマ:「指揮者の仕事」

会員 大久保 明
Der Wind編集者

志賀トニオさんには、Der Windの「劇場便り」で、指揮者の仕事、 ドイツでの生活などをご寄稿頂いて早くもこの10月号で18回となります。 毎年夏季休暇には4人のお嬢様を連れられて、湘南へ、 そして滞在中にこの数年「レクチャーコンサート」を開いて頂いています。 今年7月4日は「指揮者の仕事」と題してのお話と、「かえるの歌」を使用しての全員参加の楽しいレクチャーでした。 私は6月12日から16日までブレーマーハフェンに滞在(前号参照) トニオさんの劇場での仕事と家庭生活の一部を垣間見てきました。 このレクチャーと現地での経験から、私なりに次のように理解しました。

指揮者は作曲家が曲に籠めた想い感情を、演奏家を通じて、聴く者へ伝えことを目的に、様々な準備が必要です。 一方演奏家は彼ら自身が楽譜を読み、作曲家の意図を表現すべく努めます。

ピアノソロのような独奏のケースであれば演奏家自身の考えで演奏することが可能ですが、 特にオーケストラや多くの歌手の出演する場合は、 プロの演奏家の持っている感情をそろえるのが指揮者の仕事と言えるでしょう。 その為には練習時に楽譜を読みこみ、作曲家の意図を理解し、 各楽器にどう演奏させるかを、 決して押しつけがましくなく演奏家に身体で表現して指示する事が必要です。 その為には資料を探しに図書館へも通い、 練習時にコミュニケーションを密にし指揮者の意図を正確に伝え納得させなければなりません。 技術面でも指揮法にドイツ式と日本式の違いがあるようです。 演奏家がそれぞれプロであれば各自の考え方があり、 指揮者が指示を出すタイミングや、眼や指の使い方にも十分に事前に理解し合う事が必要です。 自身の人間性は勿論、自らの勉強、相互理解のための密な良い環境作りなど日頃から重要となります。


4人のお嬢さんと筆者

トニオさんには劇場内を地下から屋上まで案内して頂きました。 どこでも、舞台づくりや衣装部屋なども含めて皆さんにこやかに出迎えて下さいました。 トニオさんの直接演奏に関わらないスタッフとの関係もとても良い雰囲気を感じました。

トニオさんのお住まいは、公共バスを利用して30分程度の郊外にあり、近くに森や川もあるお子様の為にも良い環境です。 午前中に劇場での練習などがあっても夕方の演奏会まで自宅に戻り、食事をし、お子様を幼稚園や学校へ 迎えに行くことも出来、日本ではなかなか経験出来ない、ドイツの生活の豊かさを感じました。

トニオさんのブレーマーハーフェン市立劇場専属の仕事も5年になり、新たな出発をお考えのようです。 年明けには客演指揮のスケジュールもあり、ブレーマーハ―フェン以外での活動も視野に入っているようです。 今後の一層のご活躍を楽しみにしています。


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