卒業旅行の思い出 2026年9月号
湘南日独協会会長 星野 諭
海外旅行に逆風が吹く昨今です。円安、物価高そして物騒な各地での戦争が主な原因と言われます。インターネットやYouTubeで外国の情報が簡単に入手できるのも大きな理由でしょう。 わざわざ現地に行かなくても、美しい映像や動画が瞬時に手に入る。それなら手間暇とお金をかけて遠くまで出かける必要はない。そう考える人が増えてもおかしくありません。 それでも若いときに海外に出ることには大きな意味があると思います。それは見聞を広めるだけでなく、生き方に影響を与えるからです。 私の45年前の大学卒業旅行のことを思い出すままに書かせていただきます。
1981(昭和56)年2月、私を含めたゼミ仲間四人は中欧から東欧にかけての卒業旅行に行きました。当時はしりだった独立系旅行代理店を通じてソ連国営航空会社の往復チケットとユーレイルパスを購入し、いざ羽田を出発。 機内でアエロフロートのスチュワーデスに髭が生えているの見てびっくりしました。
モスクワのシェレメチェボ空港でトランジット。初めての外地はソ連の首都でしたが、地に足をつけて街を歩いたと言う意味では乗換便で到着したコペンハーゲンがそれでした。 雪の中の街は何しろ寒くて、日本から着ていったコートでは到底凌げるものではありません。ホテルの予約はほとんどしていないので、都度適当な安ホテルを探しての交渉です。 一泊後フェリーに乗ってトラーヴェミュンデからリューベックへ。ホルステン門の近くに宿をとり、ブッデンブロークハウスを訪れました。そこからはすべて電車の旅です。
ハンブルクまではすっかり雪景色でした。凍ったアルスター湖を見て、氷川丸のような係留船で食事をしました。ケルンに向かう電車の中でドイツ人の紳士が名刺をくれました。肩書きにFreiherrとあるのを見て、階級社会はまだ存在することを実感。 大聖堂ではドームの階段を延々と登り、踊り場のない無間地獄の恐怖感を味わいました。
ケルンの街中でイースターのパレードに遭遇しました。そこで知り合ったドイツ人夫妻とは、四人のうちの一人で大学に残り、後に教授の後を継いだ友人が訪独のたびにしばしば再会しました。 私の就職予定先の会社が当時デュッセルドルフに支店を構えていました。私はいずれそこに駐在すると勝手に決め込んでいたので、別の会社に就職が決まっていた友人と二人で電車で戻ってオフィスを訪ねました。 すると支店長はランチに出かけていて戻らないとのこと。お土産だけ置いて帰りました。その後ドイツ駐在のチャンスはとうとう訪れず、二度とそこに行くことはありませんでした。
フランクフルトでゲーテハウスを、ハイデルベルクでお城とネッカー川を見ました。そこからはロマンティック街道ですが、宿泊地を決めていません。えいやっと降りたのはドナウヴェルトという小さな街です。
典型的なドイツの小都市で、街の中心に教会とラートハウスがあり、ホテルやお店が街を囲むように並んでいます。心地よさそうな一軒家から犬 の散歩に出てきた紳士は航空エンジニアでした。彼が私たちに街を案内してくれました。ミュンヘンではホフブロイハウスでジョッキを傾け、国境を越えたオーストリアのザルツブルクではモーツァルトの生家を訪ね、
ウィーンではズービン・メータ指揮ウィーンフィルの演奏を楽友協会ホールの学生席で聴きました。
チェコのプラハは石畳の暗い街でした。飛び込みで入ったコンサート会場で日本の外交官夫妻と知り合い、夕食をごちそうになりました。 私は何かの情報で、東欧では女性のストッキングが貴重品だと聞いており、いくつか持参していたので奥様にお礼として差し上げました。内心ドキドキでしたが、明るく美しい奥様が微笑んで受け取ってくださったので、ほっとしたのを覚えています。
その次はドレスデンです。空襲でやられて修復中の建物がたくさんありましたが、ツヴィンガー宮殿に並ぶ甲冑が印象的でした。いよいよベルリンです。当時は東西冷戦のまっただ中。
しかしあらかじめヴィザを取っていたので、東から壁の向こうの西ベルリンに入るのは意外と簡単でした。(続く)
会長就任あいさつ 2026年6月号
湘南日独協会会長 星野 諭
4月26日開催の湘南日独協会定時総会で第7代会長に選出されました星野諭です。どうぞよろしくお願いいたします。歴代会長の大先輩の方々は皆ドイツ語の大家でいらっしゃると同時に、 ドイツでの生活経験も豊富にお持ちです。それに引き換え、私にはそのいずれも身に備わっておらず、こんな私で良いのでしょうかと申し上げながら、僭越にもこのような大役をお引き受けする こととなってしまいました。まさに身の引き締まる思いがいたします。
それに先立つ4月17日に、全国日独協会連合会の年次総会に出席して参りました。そこでの話題といえば、「会員の高齢化」「会員数の減少」という、全国に40ほどある加盟団体に共通の問題でした。 そして創立43年を迎える仙台日独協会からは、ついに解散を決めたという報告もありました。
大学でのドイツ語履修者もかつてと比べると大幅に減少しています。私が大学に入学した1976年頃は、ドイツ語は第二外国語の王者でした。大学等の高等教育機関でドイツ語を履修する学生の数は 40万人から50万人はいたとされています。それが中国語・韓国語・スペイン語の台頭や、ドイツ語を必修とする学部・学科の減少、第二外国語の必修そのものの減少、学生の関心が欧州からアジアへ シフトしたといった理由で、ドイツ語履修者の数は減少の一途をたどり、現在は往時の1/5から1/6の7万人~9万人となっているそうです。全国の日独協会が会員の高齢化や会員数の減少に悩むのも、ドイツ語学習のこうした現状と無縁ではありません。
ドイツ語は外国語学習という分野での「業界標準」の地位から転落し、もはや趣味の言語と化しているといって良いのかもしれません。私は、そうなった理由はドイツ語自身の持つ魅力が薄れたことにあるのではないかと思います。
かつて音楽・文学・哲学・経済学など、多くの学問や芸術でドイツ語を通じてのみ学べることが沢山ありました。もちろん今でもドイツ語がもたらす魅力的なコンテンツはたくさんあります。 しかし百年一日の如き、ベートーヴェン、ゲーテ、ヘーゲル、マルクスといった過去の偉人たちだけでは、中国語や韓国語などの他の言語で得られる新しく魅力的なコンテンツに敵わなかったというのが真実なのではないでしょうか。
幕末・明治の頃は、ドイツは日本にとって様々な分野での師匠でした。戦前までは世界を制覇する工業製品の多くはドイツ製でした。しかしその後日本はカメラや自動車の分野で師匠を超える立場となりました。 21世紀も1/4を過ぎた今、日本はコンテンツにおいてもアニメやマンガ、文学、音楽などの分野で世界中から注目されています。かつては光り輝く先達だったドイツは、今では様々な分野で競い合い、協力し合い、 そして共に悩むという「等身大」の存在といえるでしょう。
そんな等身大のドイツの、今の魅力をもっと発見して、それを会員の皆様とともに楽しんで行きたいというのが、私の望みです。19世紀に周囲から遅れて出発し、やがて努力の末に追いついて、共に戦争で敗北し、
ふたたびそこから復興と発展を遂げ、今また超大国の横暴に悩まされながらも希望を捨てずに未来を目指している国、日本とドイツ。ドイツの新しい魅力的なコンテンツの発見と、ドイツの人々との新たな交流、
そして会員相互でのコミュミケーションのますますの拡大を目標として、微力ながら力を尽くして参ります。皆様、どうぞ宜しくお願い致します。
(画像:Animagic2026 毎年ドイツマンハイムで開催される、ヨーロッパ最大のアニメイベント。京アニ「明日の火花」も出展)
記憶の中の箱根駅伝とベルリンマラソン 2026年3月号
湘南日独協会 名誉会長 島 新
正月の二日三日は、毎年テレビで箱根駅伝を観戦している。今年は往路の箱根上りの第五区で、青山学院大学の黒田朝日選手が驚異的な四人抜きで トップの早稲田を最後に抜き去り、往路優勝を果たし、復路も制して二回目の三年連続総合優勝を果たした。
毎年見ているのだが、見る度に様々な場所、特に箱根の上りと下りのコースで現れてくる場所には、様々な想い出が蘇ってくる。 昭和24年、小学校一年生の一学期まで箱根仙石原の俵石にいた。木炭車のバスや箱根登山電車で、小田原まで往復した時に眺めた景色だ。木炭車は戦中戦後の物資不足の折に、 ガソリンではなく薪を燃やしてエンジンを動かしていたバスだ。パワーがないので時々動かなくなって、乗客は下りてバスの後ろに回り、押したものだ。
その後大人になってからも、箱根には何度もバスや車で往復したので、駅伝のコースの情景はよく知っている。箱根湯本を過ぎて少し行くと、昔から変わらない、 がっしりとした姿の旭橋を渡る。さらに函嶺洞門のトンネルが見えてくる。いずれも子供の頃から何度も通った所で、今は国の「土木遺産」となっている。このトンネルは、 何年か前に通行禁止となり、ランナーはその脇の新しい道路、バイパスを駆け上ってゆく。画面に見えてくる度に懐かしい。
さらに行くと大平台のヘヤピンカーブが見えてくる。 ここも何度も通り過ぎた所で、記憶に焼き付いている。そして懐かしい宮ノ下だ。 富士屋ホテルの200メートルほど手前の左側に、箱根登山鉄道の宮ノ下駅に通ずる坂道がある。強羅の白百合幼稚園に通うため、木炭車のバスで仙石原俵石閣前からここまで来て、
電車に乗り換え強羅まで行ったものだ。
富士屋ホテルを過ぎるとすぐに三叉路になる。駅伝のコースは左に曲がるのだが、そこを曲がらずにまっすぐ行くと、子供の頃に住んでいた仙石原だ。今も度々、年に数回はこの三叉路を通って仙石原に行く。駅伝のランナーは、宮ノ下の三叉路を仙石原方面に行かずに、左に曲がって上って行く。強羅、元箱根方面である。かなりの急坂だ。当時木炭車のトラックが「ウーウー」とうなりながら、 まさに息切れするような感じでのぼっていくのが聞こえてきたこともある。
やや緩い坂が急に急坂となるので、駅伝五区のランナーは大変だろうなあ、とトラックのうめきを思い出しながら、毎回見ている。ランナーがこの坂を上り切り、 しばらく行くと小涌園前の映像が流れてくる。さらに上って行くと、箱根登山鉄道の踏切があり、ランナーはそこを走り抜けていく。この踏切も懐かしい。幼稚園の帰り、 強羅駅を出発した電車がこの踏切を通ったので、良く覚えている。
上り坂が終わって芦ノ湖を見下ろしながら元箱根まで一気に、ランナーは下り坂を下りてくる。走るのも少しは楽になったのだろうと見ていると、ゴール直前の箱根関所跡の坂が 待っている。なだらかで短い坂なのだが、ゴール直前なのにこれは苦しいだろうなあと、見ていていつも思う。
かくして今年の往路は、先頭を行く早稲田を青山学院が驚異的な走りとタイムで抜き去り、18秒の差を付けて往路優勝を果たした。小田原中継所を出た時には五位で、 トップの早稲田には大差をつけられていたのに、この走りは驚異的なパフォーマンスだった。只々すごい。感動した。
似たような感動を思い出した。ドイツに駐在していた時、2001年の事だった、何の気なしにテレビをつけるとマラソンの中継が写っていた。 ベルリンマラソンの中継だ。見ていると高橋尚子が走っていた。力強い走りだ。そして優勝した。其の一年前のシドニーオリンピックで金メダルを取っていたので、
只々すごい、と感動したのを覚えている。
ドイツ語と私 2025年12月号
湘南日独協会 常務理事 中村 茂子
ドイツ語との出会いは音楽を通してだった。高校生の頃、フィッシャー=ディースカウのシューベルト「冬の旅」を何度も聴いた。 有名な「菩提樹」ばかりでなく「春の夢」「烏」など、歌詞は分からないながら一緒に口ずさんだ。幼いころから音楽が好きで、それまでもベートーベンやモーツァルトの交響曲やコンチェルトをよく聴いた。 大学進学時、ドイツ語希望を告げると、父は反対した。英語だ、諸言語で、大事なものは英語に訳されている、学ぶべきは英語である…。今より半世紀ほど前の話である。その信念のもと、父は大版で分厚く百科事典かと見紛うTolstoyの”War and Peace” をくれた。それからも“Anna Karenina”、Dostoyevskyの“Crime and Punishment“……。 明治生まれの父は英語が得意で、シェイクスピアの台詞もよく口にし、坪内逍遥に誤訳を手紙で知らせたのが自慢。晩年はアンブローズ・ビアスの翻訳を楽しんでいた。
ドイツ語は未知のまま月日は流れた。
ある日、友人と上野毛へ藤原定家『明月記』の展示を見にでかけた。『明月記』は鎌倉時代の歌人藤原定家の日記である。父はアララギ派歌人でもあったので、歌は常に身近にあった。
しかし子規の流れを汲むアララギ派は万葉集を尊ぶ。万葉集に関する本は多々ありながら、古今集からなる八代集に関しては皆無。定家の直筆は興味ぶかかった。
ところが、せっかくの国宝が全く読めない。同じ日本人が書いたものが、一文字も読めないとは! かくして通信制大学に入学する動機は国文学だった。それが、なぜドイツ語に?
通信制大学には夏期に直接講義を受講するスクーリングがある。様々な科目を専門の教授の授業で受講できるのは、暑い最中の通学の苦労にまさる楽しみだった。
卒論を考えていた年の夏のスクーリング、齋藤太郎教授の「18世紀ドイツの歴史と文化」を聴講した。ある日、先生はゲーテ『ファウスト』第一部の終り部分を朗読なさった。 ドイツ語の美しさにいたく感動。この時、国文学はドイツ文学へシフトした。
私には長年、気になる作家がいた。筆名レアンダー、本名リヒャルト・フォン・フォルクマン。
メルヘン集『フランス炉辺の幻想』“Träumereien an französischen Kaminen“(邦題『ふしぎなオルガン』)一冊のみ残した作家であり医者だ。先生が、その伝記を探してくださったことから、私のドイツ語学習が始まった。思えば無謀な選択だ。だが学び始めて、良かったことも数えきれない。小さなことでは、フロイトの謎がとけた。以前からフロイトの名前表記Freudは間違っているとしか思えなかった。いい加減に歌っていた『魔笛』のアリアを歌詞を見ながら歌えるようになった。
さらにレアンダーの叔母さん、黒い服の「黒おばさん」の童話を訳すことができた。古いドイツ語文字に苦しみながら。
しかし何よりも嬉しいのは、リヒャルト・フォン・フォルクマンの伝記の著者、ドイツ、ハレ市在住のシモーネ・トリーダーさんを訪ね、今日に至るまで文通するなど友情を育むことができたことだ。
外国語を学ぶことは、身近な生活圏からもう一つ別の世界を知って、その世界に遊ぶこと。現在、私はドイツ文学読書会の係をしている。 ドイツの北、南、スイスとそれぞれの地方のドイツ語で書かれた文学を読む楽しさを実感しつつ、独和大辞典をくる手の合間にふと古い歌を思い出す。
在原業平「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」
私「世の中に たえてドイツ語なかりせば しげの心は のどけからまし」
アムゼルコンサート2025 2025年9月号
湘南日独協会理事 合唱団アムゼル代表 田中 満穂
コロナの影響で20周年記念コンサートを行う予定が23年目の今年になってしまいましたので、タイトルはアムゼル20周年記念コンサートではなく、団員の知恵袋西川さんのご提案でこのタイトルが決まりました。 このコンサートを今年に開くことは24年2月に開かれたアムゼルの総会で決定され、その後、複数回開かれた運営員会において上記のタイトルで進むことが決定されていきました。 このような経過から今年のコンサートに向けて昨年の早い時期から、演奏曲の最終決定に向けあれやこれや曲を練習しながら、漸く今回の曲に集約されることになって行きました。
第1部はアムゼルが主に普段からよく歌うロマン派作曲家の曲から、第2部はいつも伴奏を弾いてくれる内海先生のピアノ独奏を挟み、第3部は20世紀初頭の当時の流行歌、 或いは映画音楽からの曲を歌いました。

どれもみな良い曲で親しみのある曲ばかりですが、昨年の練習の時から苦労した曲はまずはWidmung。 2分の3拍子という普段あまり遭遇しない(私だけかもしれませんが)リズムになれるのにまず苦労するのと、この曲は変イ長調で始まり、途中、ホ長調に転調、最後、 また変イ長調にもどるのですが、転調したときの最初の音がなかなか取れず苦労しました。次に苦戦した曲はZigeunerlebenです。この曲は広く知られた曲でメロディーラインは 誰もが知る曲ですが、ドイツ語の言葉をメロディーに当てはめるのが難しく、ここで多くの団員は苦労していました。 これを歌いこなすにはドイツ語の歌詞をほとんど頭に叩き込むしかなく、音符を見ていたら間に合わない状況に落ち込むのでこれが苦労のもとでした。
それと第1部の曲で苦労したもう1曲はLerchengesasngです。ひばりの羽ばたきのようにテンポの速いこの曲は4声をすべて合わせるのが難しく、なかなか合わないのと、 やはりドイツ語の単語を素早く歌わなくてはいけない部分が苦労をさせられた曲でした。
第3部では今となってはモダンクラシックと言える20世紀初頭の流行歌を歌いましたが、このなかの私の一番好きなWenn der Wind wehtを歌えたのを嬉しく思いました。 誰の心にも宿る故郷と幼馴染への積年の思いがこもったこの歌は、歌っているとついつい心が揺れてしまって淡々と歌わねばと心しながら歌う曲です。
Das gibt’s nur einmalは私にとってはとても懐かしい曲で、大学1年のドイツ語のクラスでドイツ人教師フェールケン先生によく聴かされた曲でした。 調子の良い歌なのでメロディーはもちろん、歌詞もなんとなく覚えていてこれはとても歌い易く、楽しく歌えました。
練習はもう何回も昨年から重ねてきたのですが、今年になって梶井先生が絶望的になられるほどに、コーラスとしては各パートの音程が不正確だったり不安定だったり、 ピアノで歌うべきところをフォルテで歌ってしまったり、また、その逆もあったり、3月ころまではどうなることやらと思いましたが、3月からの各パートの猛特訓も功を奏し 4月ごろになってようやく少しずつコーラスになってきたという状況でした。
それにしても今回は団員の皆さんはよく頑張ったと思いますし、このアムゼルが2002年以来よく続けられてきたなと思います。これまで情熱を捧げてこられたメンバー、 そして何より梶井先生、内海先生、そして、残念ながらすでに旅立たれた元メンバーの皆さまに感謝の念を新たにする思いです。

神経の傷痕(きずあと) 2025年3月号
湘南日独協会 理事 星 野 諭
私はドイツに住んだことがない。旅行は大学時代にゼミ仲間と出かけた中/東欧周遊と、会社員のころG・Wを利用して行ったアウクスブルクでのホームステイのみ。 ドイツ語は今もうまくしゃべれない。現在ドイツ語講座の運営を担当しているが、その未熟な受講生でもある。そんな私にとってドイツとは何か。
「中二病」という言葉がある。ウィキペディアでは「中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動を自虐する語」と定義されている。2年生とは限らないが、人は中学生のときの感性でその人生が大体決まるように思う。 神奈川に生まれ育った私の感性は、東京の私立中学に進学してからそれまでとはまったく違う刺激を受けることとなった。
学校の図書館で出会った小説『幽霊』の著者北杜夫が、同じ中学出身の先輩だと知って驚いた。OBによるピアノ演奏会では山下洋輔が肘で鍵盤をたたいていた。 同級生の間で話題の音楽はプログレをはじめとする最先端のロックだった。私はクラシックに傾倒し、文化祭ではフルトヴェングラーやカラヤンのレコードコンサートをやった。
当時の小中学生の趣味の王道は切手集めだった。学友に誘われて初めて訪れた新宿の郵趣会館はその世界の頂点だった。お年玉を握りしめて出かけて行き、ミッヘル社のドイツ切手カタログ専門版を手に入れた。それを読むため、授業で必要と偽って母親に独和辞典を買ってもらった。それから毎日のように戦前のドイツ切手を求めて新宿に通った。中学2年の時、全国切手展に
「ナチスドイツと第二次世界大戦」という題のコレクションを出品し、審査員奨励賞を貰って有頂天になった。ドイツ語の入門書も手に入れたが、同好の先輩から大学に入るまでは英語に集中した方がよいとアドバイスされて封印した。
ところが大学では遊びや麻雀に夢中でドイツ語の授業をサボった。就職先としてドイツへの海外駐在もあると人事課が宣う会社を選んだ。しかしドイツ・フリークを自称し、毎年ドイツへの異動希望を書いていた私には、駐在はおろか、ドイツへの出張の機会すらとうとう訪れなかった。会社もよく人をみている。
思い起こせば、小学6年のころ読んだシャーロック・ホームズ『深夜の恐怖』(原題『緋色の研究』)で、犯人が殺人現場に残した“RACHE“という言葉が印象的だった。 スコットランドヤードのヘボ刑事が「犯人はレイチェルという女性の名前を書きかけた」と迷推理をすると、ホームズはそれが「復讐」という意味のドイツ語であると喝破する。 女性の名前が復讐に似ているとは、ドイツ語とは何と恐ろしげで厳めしい言語であるかと子供心に感じた。
さらにそれより前のこと。家にクラシックの小曲を集めたソノシートがあり、私はよくそれを小さなレコードプレーヤーで聴いていた。その中の一曲『乙女の祈り』のジャケット解説に、 額に巻き髪の若くて華奢な西洋の女性の写真が載っていた。彼女の顔を見つめているうちに、幼い私は何か胸が切なくなった。ずっと後年になってそれが19世紀ウィーンを舞台にした映画 『エリザベート』の主役を演じたロミー・シュナイダーであると知った。
北杜夫は『幽霊』で、人はなぜ特定の相手に初恋をするのか語っている。「すべては幼年期のしわざ、神経に刻まれた傷痕のいたずらです」。私にとってのドイツは神経に刻まれた傷痕に似ている。