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4月例会の映画会「バルトの楽園(がくえん)」
に関して、会員中島敏氏からのご寄稿です。映画の背景の一つとして非常に興味ある内容であるとともに
当時の収容所でのドイツ人の生活や日本人との交流などを記した歴史ある文書の翻訳の苦労を伺うことが出来ます。
なおドイツ語原文は紙面の都合で一部省略させて頂きました。また、冒頭の解説文中の
青字部分にあります、「発刊の辞」には新聞発行の喜びと
同時に俘虜という環境の悲哀も感じさせる一文があります。
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Tokushima-Anzeiger : 徳島新報
会員 中島 敏
トクシマ・アンツアイガー。それは何だ?
第一次世界大戦中に青島で捕虜となったドイツ兵俘虜によって徳島俘虜収容所内で自発的に定期的に発行されていた新聞である。
『トクシマ・アンツァイガー』は、1915年 4月 5日(月)が第1号の発刊日となっている。
これ以降日曜日ごとに発行された週 刊新聞である。ただし、第3巻第9号からは隔週刊に なっている。この新聞のうち第1巻第1号から
1916年 9月17日(日)の第3巻17号まで、全体で67号分のコピーが残っている。俘虜たちが新聞発行をするに至った事情について、
第3巻18号以降の発行が実際にあったのか、それとも何らかの事情で廃刊となったのか、現段階では不明である。
俘虜たちが新聞発行をするに至った事情について、第1号の冒頭に「発刊の辞」とでも言うべき文章がある。
「以前から久しくあった要望に応えるため、われわれは今日この新聞を公共の場に提供し、もって長年にわたって花開き、成長し,
繁栄することを望みたい。新刊の新聞は、たいていこのような言葉とともに世の中へと出される。
本日世に出たわが『トクシマ・アンツァイガー』は、このような麗しい発刊の辞を、単に言わずにすむだけでなく、放棄しなければならない。
というのも、それは全く不適切な言葉 だからである。せいぜい「以前から久しくあった要望」は正しいとしよう。
しかし、当俘虜収容所を「公共の場」と言うのは意味をなさない。また長年にわたって続くことをこの新聞 に対して望みはしない。
われわれが、この収容所の門を出て、愛しいドイツの故郷に戻ることを望む。」
原文は古いドイツ文字の筆記体で書かれている。所謂ガリ版刷りになっている。
2001年頃、鳴門ドイツ館が徳島新報の解読を全国に呼びかけた。私がメンバーになっている横浜ドイツ研究会がこれに呼応させて頂いて、
爾後約2年間、原文を現在ドイツ語印刷体に直し日本語訳をつける作業で悪戦苦闘を楽しんだ。
その一部1916年 6月 4日付けの徳島新報に出た「収容所見張り台より」を紹介しておきたい。
第3巻第10号(1916年 6月 4日)
収容所見張り台より
5月が過ぎた。大いに風が吹き、雨が降ったが、それでもなお、かなり涼しく、我々は気分の良い状態を保っていた。
旗竿には皆、丸い口付きの鯉のぼりがあちこち重たげに泳いで、それぞれその怪魚ぶりを競っていた。
外では、小麦や大麦が実りを迎え、学校の噴水あたりでは既に打穀されている。仮に作男の期待を十分に満たすものではないとしても、
収容所の菜園も整備されつつある。無数のひよこの一団が食欲をそそるローストとなるべく、すっかり成長を遂げている。
何人かの愛犬家が再び新しい愛犬を見せにやってくる。彼等は既に夜毎のワンちゃんコンサートで聞こえる声を出そうとしている。
カブト(犬)は監視の合図に相変わらず最上の鳴き声で伴奏をつけている。彼は収容所の方が、もともと彼が居るべき中学校より居心地が良いと感じている。
歩哨たちは、夜、彼と銃剣戦闘練習を開催しているようである。カブトは2度続け様に激しい突きを受けた。
広場では競走路が清掃され、ぐるりと階段状の観覧席が囲んでいる。まもなくあそこで自転車競技が行なわれるのであろう。
我々のゲーム、バレーボールやテニスの見物人がどんどん増えている。可愛らしい少年が興奮して一緒にやりたがる。
このチビッコたちは熱心に大きなバレーボールの後を追ってきて、それを打とうとするのだが、周りの者たちに笑われ、ゲームでのようには、
そう簡単に大きなボールを捕らえられるものではないということを思い知らされるのだ。
球技のほかには、さらに熱心に体操が行なわれている。それで、肉体的な運動に関しては、我々は不足しているということは全くない。
精神的な糧については、新しく整備された図書室が大きな満足を与えてくれている。書架を見渡せば、図書館は本当に立派に見える。
収容所の施設はますます拡充されているが、更に、未実施の建設計画は急を要する。
というのは、やがてすべての建設場所の配分が決まるからである。――
シュレトァ牧師が水曜日( 5月31日)に収容所で礼拝を行なった。
牧師はこの収容所に強い関心を示しており、いつでもできる限り力になるつもりでいてくれている。
昇天祭の日、中津峰の北斜面にある観音堂まで日帰りの遠足をした。既に朝の6時半、太陽の輝きが最も美しいときに出発した。
一本のまずまずの街道が、ところどころに大麦畑と田んぼのあるだらだらした平地を通って那賀川まで通じていた。
農家の人達が大麦を刈ったり、田んぼで苗代から稲の苗を出して田植えをする準備をしたりしていた。
那賀川のほとりの堂々とした杉や松の森の中に、数多くのお墓に囲まれるようにして常楽寺がある。
封建・武家時代には戦場となった処で、このお寺の別院の一つにおいて、或る大名が殺害されたと言われている。
このお寺から道は先ず小さな丘陵脈に沿って、それから川岸に竹藪が生えている乾ききった河川路に通じ、
次いで高い中津峰山脈の麓へ真っ直ぐ谷を横切っている。深く切り込まれた谷からは小さな川が音を立てて流れ出て、
この落差を幾つかの米用臼の水車が利用している。道は、かなりの勾配を以ってお寺の方へ曲がって上がって行くが、
殆どずっと陰になっている。この間ずっと向こう側の道の暗い色をたたえる樅林と灰色の岩が向かい合った断崖を
見渡すことができる。我々は、多くの巡礼者達を追い越した。巡礼者達は、大半は女の人だったが、
道の途中で、観音様のお像に出くわすたびにお供えをしていた。
切り立った石の階段が、2ヶ所の踊り場から上の方の寺に直接続いている。
その寺は堂々とした針葉樹によって陰になった露台の一角に建っている。ほとんどの人の関心は、更に上にある88ミリ・カノン砲に向けられる。
それは、日清戦争で日本軍が押収したものだ。更にまた、特にお伝えしておきたいことは、杉の高木に彫り付けられた観音像である。
このお像は、約1メートルの大きさだが、彫り付けられた樹木は更に生長し続けている。
山の頂では、十分な時間があって有益な休息をとることができた。3時間半も行進が続いた後だったので、近くの滝にちょっと寄り道できたことは、
幸運としか言いようがない。
水が勢いよく、泡を立てて、岸壁から飛び出し、約20メートルの深さの、暗い、緑色の滝壺に飛び込み、更に勢いよく岩肌の上を谷へと下って行く。
午後、空が曇ってきた。陽焼けで痛みつけられることなく家路につくことができ、全員かなり元気で収容所に戻った。
ハイキングに参加して少しばかりほっとした。本当は平らな道のりをかなりの時間をかけて往復することには気が進まなかった。
けれども、あとになって見れば、この遠足は楽しい思い出になるだろう。
(横浜ドイツ研究会訳)
以下は原本の冒頭からの一部です一
Von der Lagerwarte
Der Mai ist vorbei. Viel Wind, etwas Regen, aber doch hübsch kühl hat er sich in unserer Gunst erhalten.
An allen Flaggenmasten schwingen rundmäulige Zeugkarpfen schwerfällig hin und her,
jeder sucht den andern durch die Größe seiner Fischungetüme zu 4 5 übertrumpfen.
Draußen reifen Weizen und Gersten heran, beim Schulbrunnen wird schon gedroschen.
Auch die Gartenanlagen im Lager entwickeln sich,
wenn sie auch manchmal die Erwartungen des Gärtners nicht erfüllen.
Die zahllosen Kükenscharen wachsen sich zu appetitlichen Braten aus.
Einige Hundeliebhaber bringen wieder neue Pfleglinge zum Vorschein.
Sie versuchen es bereits sich in den nächtlichen Hundekonzerten eine vernehmliche Stimme zu verschaffen.
Kabuto begleitet die Signale der Wache immer noch mit dem schönsten Geheul,
er fühlt sich im Lager heimischer als in der Mittelschule, wo er doch hingehört.
Die Posten scheinen nachts mit ihm Bajonettierübungen zu veranstalten,
er hat kurz hintereinander zwei energische Stiche erhalten.
Auf dem Spielplatz ist die Rennbahn gereinigt, ringsum stehen Tribünen, in nächster Zeit werden dort wohl Radrennen stattfinden.
Unsere Spiele, Faustball und Schlagball, finden immer mehr Zuschauer. Die liebe Jugend fühlt sich mitunter zum Mitspielen angeregt.
Eifrig laufen die kleinen Knirpse hinter dem großen Faustball her und
versuchen ihn zu schlagen, müssen aber unter dem Gelächter der Umstehenden erfahren, daß die große Kugel nicht so leicht
zu hantieren ist, wie es beim Spiel scheint. Neben dem Spielen wird das Turnen noch emsig betrieben,
an körperlicher Bewegung fehlt es uns also durchaus nicht. An geistiger Nahrung bietet die neueingerichtete Bibliothek eine große Fülle,
in den übersichtlichen Regalen nimmt sie sich recht stattlich aus. Die Villenkolonie wird wieder vergrößert,
wer noch die Absicht hat zu bauen, muß sich beeilen, denn bald sind alle Bauplätze vergeben.
- Herr Pfarrer Schroeter hat am Mittwoch (31. 5.) Gottesdienst im Lager abgehalten, er zeigt reges Interesse fürs Lager und
ist stets zu allen möglichen Diensten bereit. Bd.III Nr. 10 6 7 An Himmelfahrt gabs eine Tagestour zu dem Kwanon Tempel ein
Nordabhang des Nakatsuminne. Es ging bereits um 6 1/2 Uhr morgens bei schönstem Sonnenschein los.
Bis zum Nakafluß führte eine leidliche Landstraße teilweise
alsdann zwischen Gersten- und Reisfeldern durch eine reizlose Ebene.
Die Bauern waren dabei Gerste zu schneiden oder die Reisfelder für das Aussetzen der Reispflanzchen vorzubereiten.
Am Nakafluß liegt, in einem Hain stattlicher Cedern- und Kiefernbäume,
umgeben von zahlreichen Grabstätten, der Tempel Jorokushi, es ist ein Kampfplatz aus der Feudal- oder Ritterzeit,
in einem der Seitengebäude des Tempel soll Ein Daimio einst ermordet worden sein. (以下省略)
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