私とドイツ 13


会員 田中満穂
筆者近影:コロナ騒ぎの中、奥様の指導を受けて自分のヴェストを編む

1971年に四谷のキャンパスでドイツ語を学び始めてから49年もの月日がたった。 以来、2016年に65歳で現役を退くまで、一貫してドイツ語を使い、ドイツ語圏の方々と仕事をしてきた。

初めてドイツ駐在員としてハンブルクに着任したのは1976年の夏だった。 この年のハンブルクは天候に恵まれ、週末は市の中心にあるアルスター湖に通い、 貸しボートのヨットを借り、湖上から見えるユングフェルンシュティークや、 アウセンアルスター側の高級住宅街の景色を楽しんだものだ。 また、ユングフェルンシュティークの湖岸側にあるカフェで初めて飲んだAlsterwasser(ビールにソーダを混ぜた飲料)の味は格別であった。

当時の私の仕事は日本から来訪する工業製品メーカーの技術者の案内、とりわけ、 ドイツの工作機械メーカーへの案内、或いは、ドイツ自動車メーカー工場への案内が主な仕事であった。 また、機械メーカーに於ける打ち合わせの通訳、日本側への報告書、 週末にお客様がまだ滞在中であれば、ライン川沿いの町や、ハイデルベルク、 時間に余裕があるときはニュールンベルクからフュッセンまでロマンチック街道を車で走り、 旅行会社のガイドよろしくお客様を何度も何度も案内したものだった。 そのお陰で南ドイツの道路事情には現地のドイツ人以上に詳しくなったものである。

その後、縁あって工作機械の業界から工業薬品、そして、電子部品材料業界へと転職をした。 工業薬品業界への転職で初めてのドイツ資本系の会社に入り、営業をこなしながら、 ここでも日本のお客様をドイツの工場にご案内し、 普段ではなかなかお目にかかることのない消石灰の巨大ロータリーキルン*を見学したり、 南ドイツの農家でのカルシウムシアナミドの使い方などを見学して回った。 ご馳走になった搾りたてミルクの味が特別においしかったのが懐かしく思い出される。
 *ロータリーキルン : 回転式の窯

その後再度転職した電子部品材料のドイツメーカーでは、日本における販売子会社を立ち上げることになり、 売り上げゼロからの会社スタートは新鮮な経験であった。 このとき、ドイツ本社からオーナーが毎年3、4回は来日してくれ、 その都度、車で遠くは鳥取県まで1週間から10日ほどの出張をキャラバン方式で行った。 オーナーはおかげで日本の田舎事情に詳しくなったと喜んでくれた。 田舎では夕食にありつけるレストランの数もそれほどなく、 たまに居酒屋のような小さい店にドイツ人のオーナーと入ると珍しがられ、 いろいろなご当地名物を勧められたものだった。 中には、店の大将におごって頂くことも何回かあり、オーナーも貴重な経験をしたと喜んでいた。 この最後の転職では結局65歳で定年を迎えるまでの 23年間会社代表としてお世話になり後継者に引き継いだ。 設立当初は売上ゼロだった会社が、退くころには20億にならんとする売上を達成できたのは、 ラッキーなことであると同時に、オーナー、工場側の努力、それとなりより、日本のお客様に支えられてのことであり、 感謝の念に堪えない。

今、退職して早や4年近い月日がたち、漸く、この第二の人生の生活リズムにも慣れてきたようだ。 それでも、たまには社会との接点も必要と考え、今は友達の経営する会社の事務手伝いをしている。 それにしてもドイツ語を使う機会がめっきり少なくなり、寂しい思いをしていたが、 藤沢でアムゼルというドイツ語で歌うコーラスがあることを知り、入団することにした。 むかし聴いたドイチェリーダーがレパートリーにはあり、 大方の曲は聞いたことのある曲であったため、とっつきにくいことはない。 ただ、自分のパートであるバスのメロディーラインは正確に覚える必要があり、 コーラス経験の乏しい自分にとっては新たな刺激となっている。

職業人生の全過程を通じてドイツ人、或いはドイツ語圏の友達、先輩、 上司とのお付き合いが自分の人生を豊かにしてくれ、いま、感謝の念で一杯である。 最近はドイツ語を学ぶ学生がだいぶ減ってきているようだが、 日本はまだまだドイツから学ぶことは山ほどある。第一線からは退いたが、 今後もプライベートでヨーロッパの人々との交流を続けて行きたい。


マレーシアでの送別会


私とドイツ (12)


会員 林 一雄
奥様雅子様と望年会に参加

1) Prolog
1958年、浪人生活で時間を無駄にしたくないので、運動に夢中であった都立高校を卒業すると、 明治大学の工学部に入学した。

他大学の授業を調べていると興味深い講座が見つかった。 単位は貰えないが東大・東工大の聴講生。さらに、機械学会の学生会員となり、 各種の会合・講演会に参加、また無料の公開講座や見本市で新技術を学び、 おかげでヨーロッパの貿易商との結び付きが生まれ、1960年の春には、晴海で開催された見本市に来日するドイツ人の通訳のアルバイトをした。

ドイツ人から、技術資料を貰い翻訳を始めたが、辞書にない表現が多くて困り、 近江兄弟社のドイツ語教室で金髪・碧い目のドイツ人の尼さんからドイツ語を習った。 1962年に、明治大学を卒業して、ドイツ・スイスの機械を売る貿易商に誘われ入社、スイスの親会社で新人教育を受けることになりスイスへ渡った。

スイスでは朝には、誰もがGrueezziと言うけれど意味が解らず先輩に尋ねたら、 スイスドイツ語で今日わ!の意味だと教わり、ドイツでは東西南北では話す言葉が違い、 ましてスイス人のドイツ語はドイツ人に通じないからGoethe Instituteで勉強するように勧められて、自分でも驚くほど真面目に勉強した。その後、 スイス連邦工科大学(ETH)・金属材料研究所(EMPA)等で機械技術を受講し、 Zuerichの日本総領事館で日本から国際会議・技術提携などのためスイスを訪れる邦人の通訳を担当することになった。 この時、FBファインブランキング(精密打ち抜き)の生みの親のSchiess氏と知りあうことになる。

2) ドイツ製の精密プレスを日本へ
いくつもの機械メーカーを訪問し、日本にない高精度で・経済性の優れたプレスを日本に送る仕事を始めた。 1964年の秋には、学生時代に知り合った女友達が誰かと結婚してはいけないので急いで帰国し、無事ゴールイン。日本では機械の輸出入に携わった。

1973にはスイスの製造会社の東京事務所の代表も務めたが、本社の意向でスイス人に席を譲り退社。 1987年には71歳にして初めて日本の会社(FBプレス製造)へ入社、その間ファインブランキング技術研究会の会長も担う、と言ったFB一筋に来た。

3) 素敵なドイツ
スイス滞在の、当時はまだ海外旅行が自由化になる以前だったので日本から 渡欧をする人が少なかったので領事館を訪ねる人は少なく、従って領事館の仕事はあまり無かった。

私がドイツ・スイス・オーストリアに滞在中は勉強のほかには、夏は、登山・ラリー・気球で飛び回り、 秋になると、古城/美術館巡りなどを楽しみ、冬には昼間はスキー、 夜は金髪で碧目の女の子とワインを飲んでワルツを踊った。 日本出発前、青い目の嫁さんは連れて帰らないよう強く言われていたのでそれは守った

4) Epilogue
80歳になる前の2019年にはプレス技術交流活動を後継者にバトンタッチし終え、 3人の息子達も家を離れたので、これからはのんびりと家内と二人だけで、 自宅で永年の趣味である木版画の製作を再開しようと考えている。

      
ドイツのOlympiaschanze1963年     奥様とデート横浜1964年  


私とドイツ (11)

病院体験より


会員 宇多 綾子



ハンブルク市内のWandsbeck駅からStadtbahnに乗ってLandwer 駅で下車5,6分歩くと 緑の木々に囲まれた閑静な場所にその病院は建っていた。
入り口上部にマリア像が置かれたカトリックの病院、Marienkrankenhaus。 ここに何度通ったことだろう・・・。

1965年、ハンブルクでの生活が始まって間もなく私はそこに入院するはめとなった。 特に痛いとか苦しいという病気ではなかったので、不安な気持ちよりもむしろ、 どんな事が待っているのだろうかという好奇心の方が強く、まるでホテルにでも 泊まるような気分でわくわくしたのを憶えている。

病室は清潔でゆったりとした二人部屋。 担当医は英語堪能な長身の好男子で名前はなんとDr. Braeutigam!!〈花婿〉 中年女性患者の憧れのドクターであった。

日本人の患者は珍しがられ、ドクターも看護婦さん達も実に親切で居心地がよく、 ドイツ語辞書を枕もとに置いての会話格闘〈?〉も結構楽しめた。 毎日の病院食は3段重ねの白い陶器の深物に入っていて、じゃが芋のこふき、 茹で野菜、肉か魚のソテー等でおいしく、いつも残したことはなかった。 時におかわりあるよ、といわれるとまた食べたので、Japanerinはよく食べると 評判になっていたようだ。 また、週に一度廊下で体重測定があり、大方のドイツ女性は60kg以上だったので、 大柄な私としては引け目を感じないですんだ。 夕方になると、聖歌隊の人が4,5人廊下で聖歌を歌ってくれた。 見舞客からの花は夜になるとすべて廊下に出す習慣になっていたので、 病院の夜の廊下は正にお花畑と化していた。特別室〈多分お金持ちの婦人〉の前の 廊下にはいつも真っ赤なバラの花が所せましと並んでいてそれは見事な光景だった。

私の当地滞在は4年間だったけれど、事もあろうにその間4回も〈出産時を含めて〉 病院生活を味わうことになったとは前代未聞でしょう。 その度に新しいご婦人と同室になり、片言ながらも会話をして、ドイツ夫人の 物の考え方、生活態度などを垣間見ることが出来たのは貴重な経験であった。 中でも一番最初の入院での同室パートナーはご主人が北ドイツ放送局(NDR) 管弦楽団のコントラバス第一奏者であったことから、ハンブルク市のレベルの高い アマチュアオーケストラを紹介して下さり、退院してから毎週その練習場へ通い ヴァイオリンパートで一緒に練習することができた。 Musikhalleでの2回の演奏会に出演したのも印象深い。 そして様々な素晴らしい想い出作りのきっかけを作っていただいたことは 生涯忘れられない。

この地での生活3年目にしてやっとの思いで授かったかわいい赤ん坊は、 今や40代も半ばを過ぎるおじさんと相成った。


20余年後に病院を訪れた筆者



私とドイツ (10)
会員  笹 信夫


笹 信夫氏

1.Freiburg
1998年の夏、私はFreiburgへ旅立った。Goethe Institutでドイツ語をブラッシュアップするためである。 ながい銀行員生活で溜まった心の垢を洗い落し、ウイーンかプラハの大学で東欧近現代史を学ぶステップにしようと考えたのである。
クラスメートは20数名、ドイツの周辺国からの若者が多かった。学習には寸分の曖昧さもなく、寄宿舎生活もdisziplinarisch であった。
ある朝教室に入ると、「Herr SASA」と数人が私を囲み「北朝鮮が日本(海)に向けてミサイルを発射した。 日本はどうするのか?」と質問する。憲法9条や日米安保条約の説明をしても連中は納得しない。 「世界第2の経済大国が何故アメリカに守って貰っているのか、何時迄そうなのか?」ときびしく問い詰める―。 当時のドイツは財政赤字と長期大量の失業者に悩み、「欧州の病人」と渾名されていた。
Schröder に政権が変わって(1998.10)間もなく私は帰国し、家庭裁判所の調停委員などを10数年勤めることとなった。 留学の Gelegenheitは遠のいたが、心の中のドイツは逆に近くなった。

2. DER SPIEGEL
ドイツのメディアの中で、私はSPIEGELを読むことが多くなった。ドイツを軸に諸外国の動きも分かるし、 日本の立ち位置(国際的な位置)もobjektivに知ることができるからだ。2つの例を挙げてみよう。

(1)Fukushima とドイツのEnergiewende
SPIEGELの3.11の報道はよく読んだ。オーバーで不正確な点はあるが、いち早くメルトダウンを伝えるなど核心を突いている。 反対に日本の報道は政府見解を無批判に伝えるだけで問題にならない。
更に、脱原発を基軸とするドイツのEnergiewendeについても問題点を指摘し示唆に富んでいる。

(2)Thilo Sarrazinと移民
2010.8のSPIEGEL ONLINEで私はSarrazinを知った。ドイツ連銀の理事だった人物がその著 „Deutschland schafft sich ab“ (ドイツ人は働いてヘトヘト)で、「ドイツの移民政策は失敗だった(ドイツ人の血税が高水準で移民に支払われている)」と痛烈に批判し、本はベストセラーになった。
また 2015.1のSPIEGEL誌は、移民排斥団体„PEGIDA“ (欧州のイスラム化に反対する愛国的な欧州人たち)の記事の中でSarrazinにも触れている。 移民難民はいまやEUの最大の課題である。Merkelはどう対応して行くのであろうか。

3. 日本とドイツの戦後格差
第二次大戦後の瓦礫からの出発点は両国は同じようなもの、むしろドイツが苛酷な条件下に置かれていたかも知れない。 しかし70年を経たいまはドイツは赤字国債「ゼロ」、周辺国との対立解消でEUのリーダーとなった。何故日本とのちがいが大きくなったのだろうか?

4.Emmanuel Todd
このフランスの歴史人口学者は著書„「ドイツ帝国」が世界を破滅させる“ の中で「真のプレーヤーは米、露、独のみ」と述べている。 ドイツに対し徹底してnegativである。 憲法学者・樋口陽一氏(東大名誉教授)は私の高校の一年下の俊秀である。 彼はパリの大学での研究生活もながいので「Toddをどう思う?」とそのうち聞いてみたいと考えている。

   

Sarrazin氏(Spiegelの表紙を飾る)(左)とTodd氏(右)



私とドイツ (9)

私のベルリン暮らし

辻川一徳



ベルリン時代の執務室での辻川一徳氏

 「ベルリンへ移ってフジサンケイグループのオフィスを開設してほしい」と命じられたのは、1990年の初秋のことだった。 その前年1989年の11月にベルリンの壁が崩壊し、統一ドイツの首都になるベルリンには、たくさんの日本企業が、 いや世界各国の会社がいっせいに、オフィスを新設、あるいは強化しようとしていた。 フジ・ニュースネットワークはボンに支局を置いていたが、こんどはベルリンに支局を構え、ドイツでの取材拠点を統合するという。 当時フジテレビ・ロンドン支局長だった私は、ロンドン暮らしももう5年半、年齢も50歳代後半に入っていたし、 今さら他の土地へ行けとは意外な内示だった。
 ベルリンに引っ越したのはその年の11月末だったが、その前に10月3日の統一式典はぜひ見ておきたいと思い、私はベルリンへ行った。 ニュース取材はボン特派員に任せ、私は一人の野次馬として旧帝国議会前の広場にいた。張られたロープの最前列で、歴史的な式典を遠目に見守った。 たいへんな人出で、帰りは電車に乗ることなど到底できない。興奮さめやらぬ人々の中にもまれ、ホテルまでかなりの道のりを歩くうちに、 私にもこれからこの町に住むのだという実感が湧いてきた。



ブランデンブルク門 門の上にある4頭立ての馬車は当時修復中

 私と妻はそれからちょうど1年ベルリンで暮らした。その冬はベルリンでも5〜6年ぶりという寒さで、零下10度を下回る日が2週間ほども続いた。 その寒さの中を、私は外人登録のため外人局の前に、ポーランドから来た労働者たちにまじって2日がかりで行列しなければならなかった。 当時のベルリンはにわかに流入する人々や会社に対応するインフラが整っておらず、まずオフィスや住まいを探すのがたいへんだった。 結局クーダムに面したアデナウアー・プラッツのそばに産経新聞といっしょに働けるオフィスを見つけた。
 住まいは西南のほうのダーレムに、立派な家の2階を借りることができた。当時、ベルリン日独センター(いまの日本大使館の建物) の日本側トップをつとめておられた織田会長のお宅と同じ通りだった。しかし電話を引くのがたいへんだった。大幅な需要増に工事が追いつかない とのことで、オフィスのほうはなんとか接続できたが、家のほうは1ヶ月以上かかるという。私は時差がある日本と常時連絡がとれなければ仕事 にならない。そこで携帯電話をレンタルしたが、これが今日の携帯から見れば想像もつかないような代物で、大きさ・重さが普通の電話機以上。 それに回線が込み合っていて、昼間はほとんどつながらない。夜や早朝に東京と通話すると、声が波のように大きくなったり小さくなったりした。
 私のドイツ語は学生時代に専攻したものの、30数年をへてさびついており、仕事にはとても役立たない。助手に頼るしかなかった。 私の最初の助手になったのはフォルカーという旧東ベルリンの男で、モスクワ国際大学に留学して日本語を学んだという経歴の持ち主だった。 彼と「お互いの勉強のため、一日のうち1時間はドイツ語で、1時間は日本語で話そうね」と約束したのだが、彼の日本語はかなりあやしく、 そのうち互いにもどかしくて、会話は英語になってしまった。フォルカーは旧東独のエリートというイメージとは程遠い、 じつに誠実で心の温かい男で、いまも友人として親しくつきあっている。
 数ヶ月の間にベルリンはみるみる変わって行った。当初、旧西ベルリンから東ベルリンへ車で入ると、目をつぶっていてもすぐにわかった。 とたんに道がでこぼこになるからだったが、それが日に日に平らになり、東側の町もどんどん整備されていった。その変化を観察しながら 過ごした1年はほんとうに印象深いものだった。


大家さんの家の庭で大家さん夫妻・愛犬と

 私はベルリンについてのいろんな本を読んで勉強し、ここは凄絶な歴史の変遷の舞台だったのだと改めて感じた。 そして壁の周辺にまだ残っていた無人地帯やヒトラーが自殺した防空壕跡、ブランデンブルク門のそばの西側に脱出しようと して殺された人々の墓碑などを眺めると、ベルリンという町は、そこに暮らしていた人たちの情念がたちこめていて、大げさ にいえば、空気さえ濃密なところだという思いがした。

凍結したグルーネヴァルト湖

 しかし一方ベルリンは、実に美しい町でもあった。私の家のそばには広大なベルリンの森が広がっていて、私たちはよく グルーネヴァルト湖まで散歩した。大寒波のあとの湖は完全に凍結し、若者たちが湖面の雪を掃き寄せてスケートを楽しんでいた。 乳母車を押して犬をつれた女性が湖面を渡っていく。よくヨーロッパのクリスマスカードで見た風景がそのまま私の眼前にあった。 雪の日も、大家さんの庭の巨木を赤リスが駆け回る。その裸木からやがて拳のようにたくましく盛り上がってきたのはマロニエの 葉だった。初夏にはみごとな花が咲き誇り、私たちはヴァンゼーの湖畔のレストランに出かけては季節の味シュパルゲル (アスパラガス)を堪能した。
 進学のためロンドンから帰国させていた子供たちが夏休みでやってきたころはほんとうに楽しかった。秋に帰国が決まった 私たちを送ってくれたのはティーアガルテンの油絵のような美しい紅葉だった。1970年代にBBCに出向していた時代と併せ、 通算8年半住んだロンドンに比べて、私のベルリン滞在は1年と短かったが、非常に濃厚な体験をしたような気がする。 ベルリンを思い出すと、なぜか胸がキュンとなるのだ。




ブレジネフとホーネッカーがキスをする落書きのあるベルリンの壁の前で、
当時高校生の筆者の子息


私とドイツ (8)

童話集『ふしぎなオルガン』ゆかりのハレ訪問

会員 中村茂子


中央が中村茂子氏

 レアンダーの童話集『ふしぎなオルガン』は、私の幼い頃からの愛読書だ。グリムやアンデルセンなど童話好きだったが、 なかでもレアンダーの物語性と抒情、ユーモアに心惹かれ、大人になってからも読み返してきた。愛蔵の国松孝二訳『ふしぎ なオルガン』全22編は1952年岩波少年文庫刊行だが、2010年には新版に引き継がれている。

 作者レアンダーは、本名リヒャルト・フォン・フォルクマンというドイツ人外科医である。1870〜71年の普仏戦争に軍医監 として従軍しパリ包囲戦のさなか、祖国ドイツ、ハレのわが家にいる子どもたちに軍事郵便に託して書き送ったのがこれらの 童話であった。

 日本では「ふしぎなオルガン」や「まほうの指輪」などの童話は読まれているが、作者フォルクマン=レアンダーについて は殆ど知られていない。私は慶應義塾大学通信教育課程卒論テーマにレアンダーを選び、指導教官の斎藤太郎教授(宮下啓三 先生の教え子です)が探してくださったハレ在住作家シモーネ・トリーダーSimone Triederの書いた伝記 ”Richard von Volkmann-Leander, Chirurg und Literat” を読むことにした。ドイツ語は全くできなかったが、この本がドイツ語学習の契 機となった。最初は独学、そして湘南日独協会の講座に参加した。約2年半前のことである。独りで読み進んだ伝記は大変興味 深い内容だった。読後、著者のウェブサイトに感想メールを書いた。ドイツ語での手紙に自信がなかったが、当時の講師小笠 原藤子先生のご助言に従い、全部を英語にせず半分ほど四苦八苦してドイツ語で書いたところ、思いがけずトリーダーさんか ら返信があった。そしてこの度の夫とのドイツ旅行計画に、急きょ対面が実現した。トリーダーさんからの「会いましょう」 には、習いたての接続法U式 Wie waere es を使い、ハレ駅10時を約束。中川純子先生の、使えそうな文章は書きだして口に 出して覚える、を機中で実践する。

 7月21日。まだ会話は不得意であるが、幸いなことにトリーダーさんの友人でハレ在住の日本人・高瀬まこさんが通訳に 同行してくださった。

 挨拶のあと、何が見たいかとのお尋ねに、私は本で読んで印象深かった記念像、旧宅ヴィラ、ハレ大学など、思いつくまま をあげた。トリーダーさんは、それらすべてを彼女の日本車で回ってくださった。ハレは10年ぶりの猛暑で、トリーダーさん のご好意はひとしおありがたかった。

 まずハレ大学病院前の記念像に向かう。フォルクマンが1889年59歳で死去すると記念碑建造の声があがった。1894年に除幕 式をした石像は、風雨に曝され傷んだが2006年に修復された。ついでヴィラと呼ばれる旧宅。1868年にイタリア風を意識して 造った。ヴィラに住む以前の住居も残っていた。壁面にはそこに住んだ歴代の著名人の名前があり、一番下にフォルクマンの 名。最後に墓参りをした。

 ハレはザーレ川に面した町である。6月にはザーレ川が氾濫しトリーダーさんが日ごろ仕事に通っていた出版社も水に浸かった、 とその時の写真を見せてくださった。日曜ということもあり、学生のいない大学町は静かだった。もう一人の有名人ヘンデルの 像にトリーダーさんは「ハレで生まれただけ」と笑った。ヘンデルはイギリスで活躍したからだ。

 幼い頃から大好きだったレアンダー童話、その作者の生きた町でゆかりの場所を訪ねることができた今夏の旅。私はまたもや 四苦八苦してドイツ語でお礼の手紙を書いた。



私とドイツ (7)

50年前の渡航事情と当時のミュンヘン

会員 仙石芙蓉


仙石芙蓉氏

 私とドイツとの関連について、何か書いてほしいといわれ、50年前の記録と記憶を手繰り寄せて、文章を書いてみました。

 昭和35年3月、中央大学文学部独文専攻を卒業しました。
当時は、東京オリンピックへむけて空前のホテル建設ラッシュで、財界の大御所、藤山愛一郎氏の企画で赤坂に、でーんと構えた大きなホテルが建ちました。 私はその年の4月、ホテルのオープンと同時に、そこへ入社しました。今では影も形もない「ホテルニュ−ジャパン」です。

 その後も、卒論で連絡を取りあっていたミュンヘンの国際児童図書館との交流を続けておりましたので、秋には、 実習生としてのお誘いがきました。しかし、渡航費は自分で工面しなければなりませんでした。

 空路も海路も、今とは比べものにならないほど高額で、就職5か月目の私には、そんな蓄えはありませんでした。
折しも、中東の石油ブームが起こり、日本のタンカーも頻繁にアラビア方面に行き来していました。 当時の丸善石油「文化事業団」では、その事業の一環として、タンカー「つばめ丸」で学術員を無料で海外へ送っていました。 私はその船にペルシャ湾の奥クエートまで同乗させてもらいました。タンカーも船長室の隣に客室が1部屋あり優雅な船旅でした。 最近ニュースになっているホルムズ海峡も、当時は至って平和でした。そこからは、BOAC機によりダマスカス経由でローマへ、 スイス航空で目的地のミュンヘンへとまいりました。

 こうしてドイツの地を踏んだのは1960年の秋、鉄のカーテンという認識はありましたが、分厚いベルリンの壁はまだ無く、 情勢は混沌としておりました。東西ベルリンの壁ができたのは、その翌年の8月のことでした。

 私の目的地ミュンヘンは、未だ戦争の傷跡が生々しく、廃墟となった建物が、市の中心部のあちこちに見られました。 同じ頃、日本では戦争で壊れたままの建物は、原爆ドームなど意図的に残されるもの別として,もう無かったと思います。 ミュンヘン郊外には、1934年にヒットラーが住宅博覧会を開催した際に建てられた100戸のモデルハウスがあり、会期終了後、 一般に分譲されました。ミュンヘン南東部の外れで、ザルツブルクへのアウトーバーンの起点となっているところです。 第二次世界大戦後は、アメリカの駐留軍により接収され、住民は家財道具を置いたまま、身の回りのものだけをトランクに 詰めて出ていかねばなりませんでした。その後、接収は解除になり自宅に戻ったヘレーネさん宅に、私は5年余り住み、 まるで娘のように接してくれました。

 彼女は近くの薬局のオーナーで薬剤師。若い頃は市内あちこちの薬局で店員として働いておりましたが、何度かヒットラーの 処方箋を扱ったという。戦後ヒットラーの悪行が話題になるたびに、「あの時、使いの人に処方箋どおりの調剤をせずに毒を 盛っていれば、その後、何十万、何百万かの人達の運命を変えることができたのに」と言っていましたが,所詮は素朴で善良な 小市民,そのような大それたことができる人ではありませんでした。私は、この中年の独身女性とともに、まだ今ほどは、 豊ではなかったドイツの戦後を体験したばかりでなく、彼女の暮らしぶりや口ぶりから、戦時下のドイツをも計り知ることが できました。

 最近は日本でも秋には、オクトーバフェストが盛んですが、ミュンヘンでは私も、あの陽気な雰囲気が大好きで、 アルコールには弱いのですが毎年2週間の期間中、何回も行っていました。普段は広大な原っぱであるThresienwieseに 設営されたビヤホールの巨大なテント内で、民族音楽のバンドを聴いたり、大人向けの「にわか遊園地」で色々な遊具に 乗っている人々を眺めているだけでも楽しいものでした。

 勿論、陽気な家主のヘレーネおばさんとも行きました。



クエートで上陸現地人の家庭を訪問



私とドイツ (6)

ドイツに住んでいた頃の思い出

会員 関川由美子


関川由美子氏

 私は合唱団 Amsel のソプラノの一員です。2003年5月江ノ電沿線新聞で Amsel の募集を見つけすぐに申し込みました。 それ以来9年近く子供の頃に戻った気分で楽しみながら歌っています。というのも私は子供の頃 Düsseldorf に 父の仕事で2年半住んでいたことがあり、当時家にあった Wiener Sängerknaben(ウイーン少年合唱団)のレコードを 繰り返し聞きながら一人で歌っていたからです。その頃の学校生活などを思い出しながら感じた事をお伝えしたいと思います。

 昭和39年10月8日東京オリンピック開催の2日前日本を出発。それから見るもの全てが新鮮な驚きでした。機内のパック入り牛乳、 ガス入りの水、到着後アウトバーンでの時速100km以上のスピード、整備された道路など家に着くまでワクワクでした。

 日本人学校は当時まだなく現地校に通っていましたが、皆何もわからない私に親切に接してくれました。冬のある朝授業中に 先生に「全員校庭へ行きなさい」と言われ何事かと思ったら太陽に当たるためでした。何とのんびりとしているのかと思いましたが、 冬の日照時間が少ない国ならではのひとこまでした。又ある時少女漫画風の絵を描いたら先生に「口より目が大きいのはおかしい」 と言われ直されました。今は日本のアニメブームで抵抗ないのでしょうが、当時のドイツ人には奇怪に感じたのでしょう。

 校風はとても自由ですが、自由の中にも自分の行動には責任を持ち、人の教えには従うだけでなく自分の意見をはっきりという点は 見習わなければと感じました。授業は午前で終わるので週1回午後に市内中心にある学校で日本語の補習があり国語と社会を習ってい ました。とはいえ皆其々日本の親戚から送ってもらった雑誌(少女フレンド、マーガレット、少年サンデーetc.)の交換も楽しみの 一つになっていました。ある時ドイツのテレビ番組が日本の授業風景を撮りたいという事で、私のクラスが出演して最後に「卯の花」を 歌い良い思い出になりました。

 日本の食材も今ほど容易に手に入らず、大好物だった納豆が1年半経った頃に冷凍で手に入るようになった時は大感激でした。 当時大人の方は外地での生活は大変だったと思いますが、子供の私は毎日が楽しかったという思い出しかありません。

 自宅は郊外の Lohausen にあって庭に野兎や鳥たちが来ていました。その中にもちろん Amsel もいていつもその美しい鳴き声に 耳を傾けていました。その鳥のように Amsel の一員として歌い続けたいと思います。



私とドイツ (5)

有希 マヌエラ・ヤンケさんと「ミュンヘンポッポの会」

会員 若林倖子



マヌエラ・ヤンケさんと筆者

 5月9日「日独音楽家の集い」にご出演下さる有希 マヌエラ・ヤンケさんは、 私が大勢の協力で1986年創設した幼児クラブ「ミュンヘンポッポの会」のご出身です。

 ミュンヘンでの生活を始めた1984年、息子は4歳・娘は2歳でした。息子は日本語補習校の幼稚部に週1回通い、 有希さんの姉歩さんも同じクラスでした。

 2年後「ポッポの会」設立によって、35人もの幼児が集まり、娘は年長組の、有希さんの次兄純君は年少組の 第1期生となりました。当時3歳の純君が、「ポッポの会」のクリスマス会で、ヴァイオリンを弾いてくれた 写真があります。有希さんは生まれたばかりの赤ちゃんでした。

 その後、ヤンケさんのお母様との音信は途絶えておりましたが、「ポッポの会」設立にご尽力下さった 友人ツェンスさん(映画監督の妻)を介して、2・3年ほど前からメールで連絡を取り合うようになりました。 でも、歩さんのお顔ははっきり覚えているのに、お母様のお顔は思い出せませんでした。再会し声をかけられた時、 驚きました。当時、ドイツ人とばかり思っていた長身の彫りの深い美人が、ヤンケさんでした。

 先日有希さんにお会いした時、不躾にも「4人兄弟姉妹なら、1人位脱落者は出るはずなのに、どうして 全員優秀な音楽家になれたの?」と質問しましたところ、冗談めかして「スパルタ教育だった??」と笑い、 「4人だったからこそお互いに切磋琢磨できた」との答え。「2ヶ国語を母国語のように話せる方は沢山知って いるけど、たった週1回の日本語補習校の勉強だけで、どうして日本語をスラスラと書けるの?」と聞いたところ、 「本を読むのが好きだから・・・」とのことでした。

 「外地で育つ子が帰国しても困らないよう、バイルンガルの国際人を育てたい」と「ポッポの会」を設立しました。 その小さな種が、こうして大輪の花を咲かせてくれています。

 「日独音楽家の集い」のプロフィールも曲目解説も有希さんご自身の文章です。 演奏後には、CDも販売も致します。鎌倉芸術館で、皆様のお越しをお待ちしております。



マノン・ヤンケさんと筆者のご子息

 東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
 有希・マヌエラ・ヤンケさんが在籍した幼児クラブの「ミュンヘンポッポの会」は、1986年4月5日に発足しましたが、 その数日後にミュンヘンで大事件が起きました。それは、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故です。 1,500キロ以上も離れているミュンヘンとソ連のチェルノブイリ原発事故とどういう関係があったのでしょうか?

 4月27日、スウェーデンで大気中に異常な数値の放射性物質が検出されて大騒ぎになりました。 スウェーデンは自国で原発事故が起きたのか?或いは、核戦争が勃発したのか?・・と疑ったそうです。 何しろ広島型原爆400発が爆発した分の大量の放射能です。事故を隠していたソ連は28日になって事故の公表に踏み切ったのです。

 大気中の放射能は大方の予想に反して偏西風に乗らずに南下して、南ドイツ、スイス、オーストリア上空に滞留して 大気中から高い放射線量が検出されました。
 「ミュンヘンポッポの会」の古いファイルには、在ミュンヘン総領事館から配布された 「緊急回章 ソ連の原発事故による当地への影響について」と題するお知らせが残っていました。 5月1日の放射線量は通常の5〜6倍、2日には7〜10倍に上昇と記載されています。 「5月5日現在、牛乳1リットル当たり500ベクレルの基準値を越えるヨウ素131が検出されたことにより、 生鮮牛乳は当分購入しないように、ハウス物でない野菜類は避け、一般野菜についても十分の洗浄が必要。 特に、幼児に対しては雨水、砂、植物を口に入れないように注意する」趣旨のバイエルン州環境省の勧告が翻訳されて載っています。

 南ドイツは現在の日本と同様に大騒ぎで、マスコミ報道も連日ブレークしていました。ドイツ連邦政府の対応は早く、 2日、東欧からの生鮮食品の輸入禁止、3日には農家に対する放牧の禁止命令、1リットル当たり500ベクレルを越える生鮮牛乳、 1kg当たり250ベクレルを越える野菜類の販売禁止命令を矢継ぎ早に決定しました。

 当時、息子は歩・マノン・ヤンケさんと共に、ミュンヘンの日本語補習校の小学部に入学したばかりでした。 息子が記憶していることは、「好物のキノコSteinpilz(山鳥茸)が食べられなくなったこと」、4歳の娘は「お砂場で遊べなくなったり、 雨に濡れては駄目、と幼稚園の先生に注意されたこと」、私は「毎年5月初めに、桜の若葉と蕨を取り、塩漬けにして、 1年間日本料理のおもてなしに色を添えていましたが、その年だけは、できなかったこと」です。

 5月9日に演奏して下さるヤンケご姉妹のお母様も、3人の幼児を抱え、おなかには有希さんがいらした時ですので、 どんなにご心配だったことでしょう。当時の記憶をお尋ねしましたところ、下記のようなご返事がありました。 「とにかく子供に安全な食料品確保に奔走しましたことは、今もよく覚えております。ミルクが買えず、 安全と言われた粉ミルクの大きな袋を何人かのお母さんで買って分けたり、アルゼンチン産のお肉などを沢山買って、 冷凍保存するために買った大きな冷凍庫は、今も当時の記念品で、地下に置いたまま利用しています」

 ドイツ国内では、福島原発事故を受け、原発反対の25万人規模のデモが起こっておりますが、 このチェルノブイリ原発事故の経験から、環境問題に敏感になり、こうした運動が顕著になったように思います。

 原発事故に関しては、過敏な反応を見せるドイツ人ですが、東日本大震災に関しては、あちこちの都市で被災者受け入れ 運動などが起こり、昨晩もハンブルク独日協会会長から多くの義援金が集まったが、どこに送るべきか、というご相談を受けました。

 ヤンケさんご兄弟姉妹も多くのチャリティーコンサートを開催して下さっているそうです。そうして、 5月9日には、多くのドイツ人が逃げ出した日本に来て演奏して下さいます。「日独音楽家の集い」が楽しく、 明日への復興への希望となるコンサートになりますように祈っています。(了)



私とドイツ (4)

ほたるのこみち

林 永子 (会員 林 孝司夫人)



「ほたるのこみち」店内の筆者

 “Guten Tag!” 鎌倉の寿福寺前にある“ほたるのこみち” (Glühwürmchenweg)は甘さを控えた大きなドイツケーキのお店です。 名前はStuttgartでの住所を訳したものです。

 私が初めてケーキを焼いたのは1979年から1986年までStuttgartに住んだ時でした。 先乗りしてドイツで生活を始めた主人の元に、4歳と2歳の子供を連れて転居したのは79年の夏の事です。 Stuttgart空港に着いたのは既に夜で、迎えに来てくれた主人の運転で、霧と橙色の常夜灯に照らされた寒々とした道を、 これから生活するドイツの家に向かいました。なんだか不安な気持ちになったのを覚えています。その年は冷夏で、寒くて、 夏なのに早速セーターをKaufhofで買う羽目となりました。毎日、冷たい雨が降るばかりで夏は何処にもありません。 湘南から来た私にはとても我慢が出来ず、ドイツに着いて10日目に主人にせがんでマジョルカ島に休暇に連れて行って貰い、 やっと、一息つきました。

 そんなドイツの生活を救ってくれたのがお菓子作りです。同じWohnungに住む、2階のお婆ちゃんと、 主人の会社の社長のお母さま、それにそのお隣の学校の先生がドイツ語も判らない私に親切に手取り足取り教えて下さいました。 日本も昔はそうだったと思いますが、ドイツでは家庭の手作りのお菓子が、春夏秋冬の季節の暮らしと密着して今も生きています。 例えば、冬の季節で言いますと:

 11月中旬になると、クリスマスの準備でStollen(シュトレン)を焼きます。すぐに食べずに2−3週間、地下室に寝かしておくと クリスマスの時に昧がしみ込んでおいしくなります。

 12月に入るとWeihnachtsplätzchen(クリスマスクッキー)を沢山作り、きれいな袋に入れてプレゼントと一緒にクリスマスに親しい人に贈ります。

 1月6日の夜、教会から青年団の人たちがカスパ、バルバザール、メルヒョウに扮して家を訪れて歌をうたい、家のドアーに ”幸せな年になるように”という言葉をチョークで書いてくれます。次の日にクリスマスツリーを片付けます。

 2月はFasching(謝肉祭)です。仮装してパーティをします。この時にはFasnachtsküchle(ファスナットキューヒレ)というあげパンを作ります。

 3月中旬になると、Ostern (イースター)の準備です。家ではOsterhase(うさぎ)のクッキーを焼き、大きな枝にOsterei(色を付けたり絵を描いたりした卵の殻)をつるします。 イースターの金曜日は肉は食べません。日曜日には色をつけたゆで卵と、うさぎのパンを焼いて食べます。イースターを終えると、ドイツは春を迎えます。

1987年に日本に戻り、生活に根付いたドイツのおいしい家庭のケーキを日本の皆さまにもご紹介したいと思っておりましたところ、 1995年に鎌倉の寿福寺前に家を建てる事になり、ホームバーにと考えた部屋で、ケーキを出す事にしました。 ですから、「ほたるのこみち」は8人もお客様がいらっしゃると満員となる本当に小さなお店です。

 ここでは、いつも作っているチーズケーキに加えて、季節のくだものを使ったケーキを焼いています。 季節のケーキは1月から5月はKirschkuchen(ダークチェリーのケーキ)。6、7月はJohannisbeerkuchen(赤すぐりのケ一キ)。 7月中旬から9月1週までは夏休みになり、夏休みが終わるとZwetschgenkuchen(プルーンのケーキ)になります。 10月中旬頃からはApfelkuchen(りんごのケーキ)になります。紅玉の甘い香りがひろがります。 ドイツに住んでいた8年間と同じ様に毎年同じ季節に、このようなケーキを作っています。

 日曜日と月曜日はお休みです。皆様のお越しをお待ち申し上げます。



私とドイツ (3)

『ニーベルンゲンの歌』から見える史実

会員 木原健次郎



筆者は前列左端 デュッセルドルフにて

 以前、本誌上でご紹介いただきましたが、湘南日独協会ドイツ語クラスの仲間で、『ニーベルンゲンの災い』(Franz Fühman原作)を翻訳し、5月に自費出版いたしました。

 この作品は、かのゲルマン叙事詩『ニーベルンゲンの歌』(作者不詳、13世紀初頭に成立とされる)を映画化するためのシナリオですが、『ニーベルンゲンの歌』自体、 北欧神話から歴史的事実まで、幅広い時空にまたがった素材をもとに、一大文学作品にまで昇華させたもので、私のような門外漢が論評できるものではありませんが、 歴史を趣味とする者として、この作品に影響を与えた史実の一部をご紹介したいと思います。

 『ニーベルンゲンの歌』のストーリーを貫くテーマの一つに、二人の女王(ブリュンヒルトとクリームヒルト)の争いがありますが、その原型と思われる一連の事件が実際にあったのです。
 時代はずっと遡り、ドイツの概念成立以前、6世紀後半、メロヴィング朝フランク王国。アウストラシア(都:Metz)のジギベルト1世(兄王)が西ゴート王女ブルンヒルデを 妃とした事に始まる。ネウストリア(都:Soissons)のヒルペリヒ王(弟王)は、王妃を離別し、妃の侍女フレデグンデ(嫉妬の塊)を妾にしていたが、 兄王の結婚を羨み、我もと、同じ西ゴートの王女(ブルンヒルデの実の妹)を妃とするが、嫉妬に燃えたフレデグンデにそそのかされ、ベッドの上でこの新妻を殺し、 フレデグンデを妃とする。復讐に燃えたブルンヒルデとフレデグンデは、それぞれの夫に戦争をけしかける。この新妻の婚資返還を巡る争いでジギベルトが勝つが、 その直後、彼はフレデグンデの刺客に倒れ、ブルンヒルデは捕らえられる。妹を殺され、また、夫王を暗殺されたブルンヒルデは復讐に燃えるが、 彼女も女、ヒルペリヒの先妻の子メロヴェ(甥にあたる)を見て恋に落ち、司教を説いて不法の結婚をする。フレデグンデはこれに怒り、結婚を認めた司教を祭壇の前で殺し、 メロヴェは自死。この後まだまだ凄惨な殺し合いが続き、最後には、ブルンヒルデがクロタール2世(フレデグンデとヒルペリヒの子)に、八つ裂きの刑で殺される。

 歴史はその後、カール・マルテルの時代、カール大帝の時代へ、更に9世紀のヴェルダン条約、メルセン条約を経て東フランク王国(ドイツの原型)成立へと繋がっていきます。

 なお『ニーベルンゲンの災い』は、藤沢市立図書館、鎌倉市図書館、横浜中央図書館、東京ドイツ文化センター、Deutsches Institut für Japanに蔵書されています。



私とドイツ (2)

ライプツィヒ−私の好きな街−

会員 三宅芳子

 東西ドイツが統一されるまでライプツィヒは東側にあり、発展・繁栄を辿る西ドイツとは異なりその速度も遅々として進まず、厳しい制約もあり なんとなく暗いイメージのすることもありましたが、それだけに時がゆっくりと流れているようで私の好きな街でした。

 この街は商業都市としてドイツで最初に見本市が生まれたところとか、春秋開催される国際見本市は有名で、 それ以外にも種々の多くの見本市があり、その活動で知られた富で学術や文化都市として早くから発展してきたと言われ、 森鴎外や山田耕作もここで学んでいたそうです。印刷・出版も盛んでプラーグ通りに本の館があり、 私もシラー通りにある楽譜屋さんによく行きました。商業・文化・大学・音楽など色々な顔をもった街です。



トーマス教会

 メンデルスゾーンのピアノ三重奏を弾くための勉強をするために行っていた私は、インターナショナル・メンデルスゾーン・バルトルディの 没後百五十年祭(1977年11月)に合わせ、彼がゲヴァントハウスの指揮者を務め、作曲などして最後に暮らしたゴールド・シュミット通りにある家を 彼が住んでいた当時そのままに修復し、彼が使っていたピアノ・楽譜・デスマスク等の展示、また一部を音楽生のための宿泊施設として再現するため、 多少でも支援の役に立つことを願っていました。

 彼の没後百五十記念のクルト・マズア氏指揮のゲヴァントハウスでのフェスタでは、新たに見つかった未発表の曲、オラトリオ「エリア」等が 演奏され、また彼を記念した彼のブロンズ像がゲヴァントハウスに、ステンドグラスがトーマス教会に贈られ飾られるなど、メンデルスゾーンは ヨーロッパの音楽文化に様々な影響を与えた重要な音楽家で、彼がドイツで最初に設立した音楽院は、現在ライプツィヒ音楽演劇大学になっているにも かかわらず、彼がユダヤ人だからでしょうか、ライプツィヒで音楽といえば、ヨハン・セバスティアン・バッハが先に出てくるようです。 バッハについて述べると大変ですので今回は簡単に…。

 バッハはカントルとして教会・市参事会・大学等の音楽活動すべてのライプツィヒ市の音楽総監督で、バッハが眠るトーマス教会その聖歌隊は、 バッハの音楽遺産を紹介するのが使命と言われ、毎週金曜土曜の午後カンタータやモテット等を聴くことができ、教会の向こうにある トーマスキルヒホーフのボーゼハウスにバッハの博物館があり、彼の生涯と作品を知ることができます。またバッハが演奏したと言われる中庭では 今も室内楽のコンサートが開催され、あたかもバッハの時代が蘇るかのように感じるのは私だけなのでしょうか。

 ライプツィヒは旧市庁舎・ニコライ教会・アウエルバッハケラーやショッピングアーケード等、数多くの史跡・建造物・市場やお店のある楽しいところです。



私とドイツ (1)

私のドイツへの旅

会員 林 邦之

 明治の末期に医学を学んだ父の書くカルテはドイツ語であった。しかし、戦後になってからは殆どのカルテは英語交じりの日本語になったようだ。 医学に止まらず多くの学問が西洋依存から脱し、国際水準に達したということであろう。 大学の運動部に入ってビタミン注射をするとき2CCを「2ツェーツェー」と言って先輩に笑われた。

 大学では頑張って独仏両語を学び始めたが、仏語教師のパリジャン気取りに閉口、「猫は家庭的な動物である」の一句を覚えただけでフランスとはおさらば。 2年目にシュティフターの『水晶』を教わった。祖母の家に出かけた幼い兄と妹が、帰途雪中の高山で道に迷い一夜を明かす。 遠くから響く雪崩の音、夜空を過ぎる流れ星、おののく妹を励ます兄、兄を頼りに何度も繰り返す妹の言葉 "Ja, Konrad"。 そして幸いにも夜明けとなって無事救出される。冬休みに最後まで読み上げてスキーに出かけた。

 小学校の「図工」という科目の成績は「良上」で「優」は取れず。その頃から美術よりも音楽のほうが好きだった。 自ずからドイツ音楽、それもロマン派に魅せられて今日に至った。

 以上は私が辿ってきたドイツへの道である。そして今、ドイツ・ロマン派に、中でもブラームスに魅力を感じている。 ブラームスは気難しく写っている写真のせいか、敬遠されやすいのであるが、実はそうではなく、一生独身を通しながらも父母や弟と親しく接し、 クララ・シューマンをはじめ多くの女性との交際があったほか、夏にはほとんど毎年旅に出かけている。 独墺国内ではBaden-Baden, Bad Ischl, Pörtschachなど。国外ではスイス、イタリア、チェコ、オランダ、ハンガリーなど。 港町ハンブルクで貧しい幼年時代を送ったためか、船が嫌いで英国には行かなかったが、フランスには足を入れなかったとは興味をそそる。


Brahms Statue am Karlsplatz



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