特別例会

「志賀トニオ氏のレクチャーコンサート」
 を聞いて

会員 辻川 一徳



志賀トニオ氏と辻川一徳氏


ドイツ・ブレーマーハーフェン歌劇場のコレペティトーア兼指揮者として活躍している志賀トニオ氏が7月29日、 湘南日独協会の特別例会として、藤沢カトリック教会のホールで「レクチャーコンサート」を開いた。 同氏は昨年も湘南日独協会のために講演を行ったが、今回はピアノを弾き、時には自分で歌いながら、実践的でたいへん興味ふかい話をしてくれた。

トニオ氏の講演は3つの部分に分かれ、まず「第1部」はコレペティトーアという仕事と、ドイツのオペラ界の状況について話をした。 コレペティトーアとはオペラ劇場でオペラ歌手に稽古をつけるピアニストのこと。 指揮者への登竜門ともなっている。ブレーマーハーフェンはブレーメンからおよそ30kmの港湾都市、人口は10万人あまりだが、 歴史的にはかつて大勢の移民がアメリカ大陸へ向けて旅立って行った玄関口であり、 今は風力発電などで経済的にも発展している。劇場も経済的余裕があり、専属歌手のレベルも高い。 トニオ氏はロストック音楽大学で指揮法を学び、ワイマールのナショナル劇場のオーディションを受けてオペラの世界に入った。 ドイツ全土にはおよそ70のオペラ劇場があるが、そのスタッフは専属歌手も含めて全員、公務員であり、安定した生活が保証されている。 このような制度はヨーロッパでもドイツだけとのこと。子供のころからオペラに親しめるようになっているというドイツの文化風土に羨望のため息を禁じえなかった。



第2部でトニオ氏は「魔笛」を題材に、ピアノを弾き、時には歌いながら、主に「調性」の重要さを語った。 「魔笛」はモーツァルトがその生涯の最後の時期、興行師シカネーダーの依頼で書いた。 王侯貴族のためでなく、一般大衆を観客として想定し、「ジンクシュピール」のレベルを高めたものだという。 まず序曲がEs Durで始まるが、これは英雄的なキャラクターを表わし、モーツァルトとシカネーダーが共に会員だった フリーメーソンの理念をも表現しているとのこと、 そしてタミーノが登場、続いて3人の侍女、パパゲーノ、夜の女王、ザラストロ、パミーナと次々に人物が登場するたびに ちがった調性があらわれ、劇が進行していくさまを、演奏し歌いながら語りすすめて、調性の変化の面白さを実感させてくれた。 私はこれまでさまざまな「魔笛」の舞台を見てきたが、この話を聞いたあと、もう一度見直してみたいものだと思った。

終わりに第3部では、われわれ日本人にもなじみの深い「野ばら」(ヴェルナー作曲)を参加者みんなに歌わせた。 この詩はゲーテが未熟な若年のころ捨てた恋人を思い、後悔の念を歌ったものだとのこと。 トニオ氏の求めに応じて、彼の母である志賀リンデさんが詩を朗読。 いかにも歌の場面を再現するような読み方に、参加者は「そうだったのか!」と眼を開かせられる思いだった。 歌は詩の意図を表現すべきもので、ストーリーのある歌は全部通して、なるべく元調で歌うのが望ましいとのこと。 そして再びトニオ氏の指揮で参加者みんなが「野ばら」を歌ったとき、合唱はだいぶましなものになったような気がした。 まことに中身の濃い、楽しい講演会だった。

レクチャーコンサートへ合唱団アムゼルの梶井先生も出席、ドイツのオペラハウスの話をトニオ氏の要請もありお話しされました



7月例会

「シーボルトと大山椒魚(おおさんしょううお)」
を聞いて



会員 畑 信興



畑 信興氏


講師の吉川リサ先生(ニューヨーク州ホバート・アンド・ウイリアム・スミス大学史学科准教授)は ポニーテイルの似あう素敵な女性で、波模様縦縞のゆったりしたワンピースのうえに羽織られた黒の薄手のカーディガンには、 ハマグリ型の浮世絵風パッチワークが何枚かあしらわれていて、粋なポイントになっていました。

講演はとても興味深いものでした。 そもそも、シーボルトと大山椒魚という、どちらもあまり馴染みのない二つのものがどう結びつくのかが 好奇心を誘う第一の焦点でした。それはこうして始まったようです。


講演する吉川リサ氏

1823年にオランダ東インド会社から長崎のオランダ商館に医師として派遣されたシーボルトは 1826年に商館長の随員として江戸へ参府しました。 その際、三重県鈴鹿の地で偶然野生する大山椒魚を見たようです。 医学の他に生物の生態研究・採集にも熱心であったシーボルトは初めて見る大山椒魚に驚き・喜び、 早速その生態サンプルを母国に送ったようです。 欧州では太古に生息したとみられる大型の山椒魚の化石は発見されていましたが現存はしていなかったので、 この日本から来た生きた大山椒魚は大評判となり、シーボルトは生物採集家として大いに名をあげました。 彼の本来の任務は長崎商館員に対する医療ケアでしたが、この任務を超えて彼は付近住民の診療もし、 塾を開いて日本人医師に蘭方医学を教えました。医学以外にも動植物の標本,写し絵、工芸品から浮世絵、 日常の生活用具まで熱心に集め本国に送っていました。その中にご禁制の日本地図まで入っていたのを幕府に 咎められて、一度は国外追放になっています。

ともかくこうした膨大なコレクションをもとに欧州各地で日本の博物展を開いたり、 「Fauna Japonica」・「Flora Japonica」などの日本動植物誌の編纂・出版に貢献したりして、 シーボルトは日本学の第一人者となっていました。長崎出島という同じ小さな穴からお互いを 見ていた日本と欧州でしたが、もっと広く、もっと深く見ようという意欲の強さは欧州のほうが はるかに強かったのでしょう。彼は産業革命と市民革命を経て近代化が進んだ欧州の気風を纏った 野心家・冒険家だったのだと思います。そしてまた日本も明治維新幕開け直前の時代でしたが。


さて、吉川先生の講演の主題に戻ります。 先生のご研究の中心課題は「日本の近代国家(帝国主義国家)形成と科学知識の関わり」であり、 副題の「近代とは何か」「近代国家とは何か」「科学とはなにか」を探求されていくなかで 「大山椒魚」に辿り着かれたと最初に話されました。 講演を通じて、大山椒魚が日本の近代国家形成や科学知識の敷衍に重大な役割を果たしたと、 私によく納得できたわけではなかったのですが、大凡の文脈はこうでした。

19世紀半ばの欧州では海外の珍しい動植物に強い関心があった→  シーボルトが日本の生きた大山椒魚を欧州で展示した→ 化石しか残っていなかった欧州ではこの生き標本に大きな反響があった→  シーボルトが専門家と共同で日本動物誌を刊行し、その中で大山椒魚の詳しい資料を発表した→  ここから学術的な研究が大いに進み、日本からの新たな資料提供・研究発表などを通じて 日欧共同研究関係が出来上がり、日本も世界の学会の仲間入りができた→  こんなことから大山椒魚は世界的な規模で近代国家の象徴的な位置づけとなり、 日本政府も重要性に気付き、大山椒魚を1927年に保護扱いに、 1952年には特別天然記念物に指定して、学会を支援した。

紙面が尽きましたが、まことに大胆で新鮮な歴史観であり、できれば再度のご講演をお願いしたいと思います。








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