9月例会 講演
「ドイツ航空史と日本」
を聴講して
会員 田中 幹夫
田中 幹夫氏
講師の藤野満氏は学生時代にグライダー部に所属し、
川崎重工業に勤務していた1985年から3年間英ロールスロイス社に、
1994年までIAE社でエアバスのジェットエンジン共同開発・販売に参加しました。
また氏は英国で飛行免許を取り今も現役だそうです。
第一部(ライト兄弟と黎明期の飛行機)
1903年に動力飛行に初めて成功したライト兄弟は自転車屋でしたが将来儲かるビジネスになると考え飛行機作りに挑戦しました。
彼らは設計に必要な各種係数を正確に知るために、なんと「風洞」を自作して実験を重ねました。
エンジンはテイラーという技師が僅か6週間で設計しましたが、エンジンブロックは当時貴重だったアルミを使うなど斬新なものでした。
彼らは製造より、国際特許を取得してこれでビジネスをしようとしました。
ところでアポロ11号は月面にライト機の一部分を持って行ったそうです。何でも世界初が自慢のアメリカ人らしいですね。
さて初飛行こそアメリカでしたが黎明期の飛行機は欧州で著しく発展しました。
1909年にはフランス人ブレリオがドーバー横断初飛行を成功させ、ドイツでは1910年頃には飛行機製造会社が6社もありました。
日本では1910年(明治43年)に日野熊蔵陸軍大尉が独グラーデ単葉機で、
また徳川好敏陸軍大尉が仏アンリ・ファルマン式複葉機で代々木公園で初飛行をしました。
なお初の国産機は1911年に制作の「会式一号機」で所沢航空発祥記念館に複製があります。
講演する藤野満氏
英国で取得した飛行免許証
第二部(大戦で進歩した飛行機と日本)
戦争は欧州の飛行機を一気に進歩させました。
ドイツのBMWやダイムラーベンツの航空エンジン製造技術は世界のトップでした。
一方、日本は航空技術の遅れを日独同盟によりドイツから技術者を招聘して挽回を図りました。
来日したのは30代の若き技師フォークトを団長とする6人でした。
彼らに学んだ一人、川ア重工の土井武夫は三式飛行機「飛燕」を設計しました。
エンジンにはダイムラーDB601をライセンス生産して搭載しましたが、
倒立V12気筒・機械式過給機付という最新エンジンは当時日本の工業力では作りきれず、故障続きでした。
高高度・高速飛行への更なる要求にピストンエンジンは応えきれず限界に来ていました。
そして英国人ホイットルを先覚者とするジェットエンジンが登場しました。
英国では1943年にジェット戦闘機グロースターミーティアが初飛行し、
空軍向けに約3900機生産されました。
またドイツでもBMW003ジェットエンジンを搭載したメッサ―シュミットMe262戦闘機が生産されました。
日本は「橘花」が終戦直前の1945年8月7日に初飛行しています。
搭載ジェットはBMW003をまねた「ネー20」ですが耐熱合金材料の枯渇によりやむなく代用材使用したため
数十時間の耐久性しか有りませんでした。
第三部(戦後日本の航空機産業の復興)
YS−11は「YSじゅういち」ではなく「YSいちいち」と読むことを知りました。
最初の1はエンジン候補番号、次は機体仕様案番号だそうです。
この開発に登場する「6人の侍」は有名です。
戦前の戦闘機等のエース設計者達−堀越(三菱)、太田(富士重)、菊原(新明和)、土井(川崎重)、木村(航研)に
通産省赤澤航空機武器課長を加えた6人が開発の中心でした。
しかし頑丈で耐久性がある反面、重く燃費が悪いなど評価は芳しくなく
1962年の初飛行から182機で生産終了になりました。
設計者が歳を取り保守的な設計になったのも一因との見方もあるようです。
YS11
さて半世紀ぶりの国産旅客機三菱MRJの売り=20%低燃費は、新開発エンジンに鍵があります。
タービンが効率の良い高速で回転する一方、ターボファンは周速を抑え更に大口径化を可能にするべく、
両軸の回転数差を同軸減速機で吸収する斬新な設計です。
三菱 MRJ
最後にホンダジェット。本田宗一郎は「飛行機のカブを作りたい」と言ったそうですが
エンジンを翼上に配置したあっと驚く設計で小型ながら後部座席をしっかり確保した魅力的なビジネス機に仕上がっています。
ホンダジェット
今回は飛行機発展の歴史を駈足で垣間見る事が出来ました。
失敗を恐れず挑戦する「若い」技術者が航空史を塗替える立役者だとの講師の指摘には全く同感でした。
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