鵠沼あれこれ

名誉会長 岩崎英二郎



岩崎英二郎氏(当協会名誉会長)



 いつのことだったか、必要があってゲーテの『ファウスト』の森鴎外訳を調べているとき、鴎外がSchwan(白鳥)のことを鵠(くぐひ)と訳しているのが偶々目にとまった(第二部、第二幕、実験室の場面)。
 鵠などという文字を用いた例は、本会の会員も何人か住んでおられるあの鵠沼しか思い浮かばないので、あの鵠沼はもしや「白鳥の沼」だったのではあるまいかと、ふと思い付くままに手元の『日本国語大辞典』(小学館)の「くくい」(旧仮名遣いでは 「くくひ」)の項を引いてみると、はたせるかな、(その鳴き声から。「くぐい」とも)「はくちょう」の古名、と記されていた。そう言えば藤沢や深沢の「沢」も「沼」と大いに関係がある、むかしあのあたりは一面「沼沢地」だったにちがいないなどと遠く思いを馳せながら、そのときは鬼の首でも取ったように嬉しかったのだが、そのようなことは先刻御承知、という会員も少なからずおられることだろう。現に鵠沼の故事に詳しいというさる御仁に電話をかけて尋ねてみたところ、そんなことは当たり前でしょうと、軽くいなされてしまった。
 ついでに鵠沼に関係のある話をもう一つ。かの西行法師(1118-1190)に

   心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ

というすばらしい歌のあることは、あまりにも有名だが、問題は鴫(しぎ)の飛び立ったこの「沢」がどこにあったか、ということである。鎌倉時代に書かれたという『西行物語』からこの箇所を引用しよう。

「相模国大庭(おほば)といふ所、砥上原(とがみがはら)を過ぐるに、野原の霧の隙(ひま)より、風に誘はれ、鹿の鳴く声聞えければ、
   えは迷(まど)ふ葛(くず)の繁みに妻籠めて砥上原に雄鹿鳴くなり
その夕暮方(がた)に、沢辺の鴫、飛び立つ音しければ、
   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」

 この「相模国大庭といふ所、砥上原」について、『西行物語』全訳註(講談社学術文庫497)の著者である桑原博史氏は、「現在の神奈川県藤沢市鵠沼付近。片瀬川西岸の原野」 と断言しておられる。鵠沼ではなく、神奈川県大磯のあたりとする異説もあるが、それはともかく、いまから800年以上も前に西行法師が、当時は原野であり沼沢地でもあった鵠沼を訪れてこの歌を詠んだのかとか、あの頃の鵠沼には鹿が住んでいたのかなどと、あれこれ想像してみるのも楽しいではないか。
 ところで鵠沼海岸に住んでいたことのある作家阿部昭氏に『沼』という作品のあることを御存知だろうか。「このあたりは、昔、くぐひぬま、と言ったらしい。くぐひ、すなわち鵠(くぐい)で、白鳥のことだそうだ」という出だしで始まる小説だが、白鳥云々は冒頭のお飾りのようなもので、『沼』という題名がずばり示しているように、主人公の少年にとって、沼という言葉が暗示するさまざまなもの、何となく不気味なもの、おぞましいもの、そういったものを作者は描きたかったように思えてならない。興味をもたれる方々にはぜひ御一読をおすすめしたい。
 話は西行法師の「心なき身にも」の歌に戻るが、800年以上も前に詠まれたこの歌の意味を、現在のわれわれが大した困難もなしに理解できるということ、いや、それよりも、その歌の情感が、そのままの形でわれわれに切々と訴えかけてくるというのは、じつに素晴らしいことだと思う。これがヨーロッパであれば、とてもそうはいかない。たとえば筆者の専門とするドイツ語の場合、いまから800年前、つまり12世紀の作品と言えば、さしずめあの『ニーベルンゲンの歌』が頭に浮かぶが、いまのドイツ人で、たとえ大学を出たインテリであっても、ドイツ語学やドイツ文学を専攻したいわゆるゲルマニストでないかぎり、『ニーベルンゲンの歌』をすらすら読める者などほとんどいないだろう。季節は秋から春に移るが、同じ西行法師の詠んだ

   願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

を愛誦する人も多いはずだ。日本人はしあわせたとつくづく思う。このようなしあわせも、小学校や中学校で国語をしっかり学んできたからこそ得られたもの、小学校への英語教育導入など、ばかげたことはやめにしてもらいたいものだ。


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