会員掲示板

Back Number - これまでの寄稿など
(2019年)

これまで、ホームページに掲載した、当協会の開催イベントの様子、協会会員からの寄稿を、 ここに掲載しています

 【2019年】
  9月例会 講演会 英国のEU離脱(Brexit)と日本を聴いて(島 新)
  11月例会 講演会 ブッヘンベルガー教授 「欧米における日本のイメージ」を聞いて(赤崎 玲子)
  「海外旅フェスタin 藤沢」に参加して(勝亦 正安)
  「ふじさわ国際交流フェスティバル」に参加して(伊藤 志津子)
  湘南オクトーバーフェスト 2019(下條 泰生)
  湘南オクトーバーフェスト 2019(松江 節子)
  ヴァイマール独日協会会長ケッケル氏ご家族との会食(松野 義明)

  7月例会 寺田 雄介氏 講演会「カフカの『変身』について」を聞いて(笹 信夫)
  6月例会 吉森 賢先生の講演会「高等技術教育の独仏比較」に出席して(三谷 喜朗)
  3月例会 講演会「帝政ロシアの東方政策」を聞いて(中野 宏徳)
  談話室SAS 9月例会「鴎外とナウマンとエリーゼ」(藤野 満)
  志賀トニオさんのレクチャーコンサート(テーマ:指揮者の仕事)(大久保 明)

  4月例会の映画会「バルトの楽園」: Tokushima-Anzeiger 徳島新報 (中島 敏)
  5月例会 講演会「パイプオルガン その歴史と構造」を聴講して (杉山 麻衣子)
  ブレーマーハーフェンへ行ってきました (大久保 明)

  ドイツ滞在で学んだドイツ語と生活体験記 (杉山 麻衣子)
  槙 卓氏講演「歴史に埋もれた人々」−私の親族との関係から探る− を聞いて (笹 信夫)


ここに掲載している以前の情報は、こちらからご覧頂けます
更に、以前の情報は、こちらからご覧頂けます


9月例会 講演会

英国のEU離脱(Brexit)と日本
               を聴いて

9月29日(日)、湘南日独協会の月例会にて「英国のEU離脱(Brexit)と日本」(副題「混迷極まるBrexit」)の講演を聴いた。 講師は、関西国際大学国際コミュニ学部学部長で、慶應義塾大学名誉教授でもある、渡邊頼純先生である。


会員 島 新 氏

大学の先生ではあるが、単なる学者ではない。留学時代を含め、ベルギーに6年、スイスに5年在勤、 ジュネーブ国際機関日本政府代表部勤務、GATT事務局関税部勤務、外務省参事官、参与を経験、 頻繁に海外に出かけ、国際間の問題について、様々な会合に出、研究者、 政府関係者などにも会って情報を得、調査、研究している。 今回も、欧州、北米、中南米から帰ったばかりで、この講演のあと、又、欧米に出かけるとのことであった。 説明は、実に具体的、新鮮、明快であった。

講演では、大きく以下の点について、詳しい説明があった。

離脱後の自由と制約についての英国の思惑と、それに対するEU側の制約

EU加盟中は、物、サービス、金融、人の移動は自由であるが、EU法に拘束され、 EU予算への拠出をせねばならない。これに対して、英国は離脱後も、物、サービス、 金融の自由な移動を望むが、人の移動は制限し、EU法の制限は受けず、EU予算への拠出もせず、 だが、EUの意思決定には参加したいと望んでいる。

EUは、このような英国の虫の良い要求は認められないとの立場で、互いに強硬な立場で、 その間には大きな乖離があって、2016年 6月の英国国民投票以来、両者合意無きまま交渉を続け、 2019年 3月29日から、2019年10月31日へと延長された離脱の期限が迫って来た。

・合意無き離脱に至った場合の混乱
 合意無き離脱に至った場合、特に、物の移動の面で、大きな混乱に陥る。

これまで、英国、EU間は、関税ゼロで移動できたのが、離脱後はWTOのMFN税率が適用される。 これに対して、英国は、緊急措置として、英国の輸入額の87%に相当する物品の関税をゼロにすることを発表している。 これにより、例えば英国の自動車産業に使われている自動車部品は無税で輸入できる。 だが、英国からEUへの乗用車の輸出には、EUへの乗用車の輸出には、EU側で10%の関税が課される。

英国の自動車産業にとっては大きな負担となり、英国に進出している、日本の自動車メーカーにとっても大きな問題である。

EUが各国、地域と締結した約40件のFTAに、英国は参加し、70か国以上とFTAの関係にある。 離脱後は、このFTAの関係はなくなり、より高関税のFTNベースの貿易関係に入ることになる。 英国は離脱後も、FTAの内容を、これらの国々との新しい協定に置き換え、 継続して速やかに発効するよう交渉していて、既に10件以上を、締結済みあるいは、締結見込みである。

だが、これらを含めた貿易交渉をする貿易の専門家が、英国には不足している。 貿易交渉を、永年EU官僚に委ねていたために、英国政府に、この分野の人的資源が不足、枯渇してしまった為である。

もうひとつの大きな問題は、EUとの間の輸出入に、通関業務が発生することである。 これまで、英国、EU間を制限なく自由に行き来していたトラックが、国境で通関手続きをしなければならず、 渋滞と貨物の到着遅延が予想される。また、食料品を中心とした物資の入手難や、物価の上昇も予想される。 産業も、市民生活も大きな影響を受ける。

・合意に至る大きな制約:「北アイルランドとアイルランドとの国境の問題」(いわゆるback-stop問題が解決可能かどうか)

英国の一部である北アイルランドは、EUに属するアイルランドとの間の自由な行き来を望んでいる。 EUは北アイルランドを一時的にEUにとどめる(いわゆるバックストップ)を提案したが、英国の反対で合意できていない。

・では、合意無き離脱は不可避か?

これまでも様々な;問題が、土壇場で解決されて来ており、また、合意無き離脱が英国、 EU双方にとって共通の利益との認識が、双方に浸透してきている事などから、不可避ではないとみている。 合意無き離脱に至った場合の混乱

この稿が印刷されるころには、どのような結果になっているのであろうか、分からない。 だが、以上、講演を聴いて感じたことは、万が一、合意無き離脱に至った場合に予想される広範囲の大混乱は、 あまりにひどい。

2016年 6月に、国民投票で離脱を選択した人たちは、これを予想していたのであろうか。 あるいは、合意できても、そこまでに至る過程が、このように複雑で時間がかかり、 このような事態が待ち構えているとは、国民投票の実施を選んだ当時の政治家も、国民も、全く思ってはいなかったに違いない。 しかも驚いたことに、大混乱をあるいは、合意できても、そこまでに至る過程が、 このように複雑で時間がかかり、このような事態が待ち構えているとは、 国民投票の実施を選んだ当時の政治家も、国民も、全く思ってはいなかったに違いない。 しかも驚いたことに、大混乱を処理する貿易外交、貿易行政のプロが全く不足しているとのこと。 これらを永年、EU官僚に委ねてしまったがために。

ポピュリズムは本当に怖いと、今回、改めて感じた。 過去にも、その失敗が繰り返されている。相変わらず人間は歴史に学んでいない。 情けないことである。今現在も、世界中にポピュリズムが蔓延している。 和洋のことわざに「全ての人を喜ばすことは出来ない」とある。 政治家は強いリーダーシップを以て、ベストの方向に持ってゆくことを願うばかりである。

また、講演を聴いて、Brexitの基底にある「国家主権を取り戻す」という英国の考えは、 それ自体正しいと思う。だが、合意無き離脱に至った時の問題はあまりに多岐にわたり、大きい。

究極的な欧州統一を目指すEUの動きに、英国はずっと懐疑的であったに違いない。 ユーロという通貨統合にも加わらなかった。では、なぜ、ECの段階でとどまることが出来なかったのだろうか。

日本でも、何年か前の政権の一部に、東アジア、東南アジアの統合構想があった。今回の問題を他山の石として、心せねばならない。

この稿を書いている時にも、事態はまだ流動的である。 この稿が、会報に印刷され、配布されるころには、EU離脱は、何らかの形で決着しているに違いない。 英国にとっても、EUにとっても、日本、そして、世界にとっても、最善の形でおさまることを願ってやまない。
                         (2019年10月記)

追記
12月12日、英国の下院総選挙で、ブレクジットを主張し、 1月31日にEU離脱を公約に掲げたジョンソン首相率いる与党・保守党が、過半数を大幅に上回る議席を獲得し大勝した。 報道によれば、これによって、EUからの離脱関連法案を議会で単独で可決できる目途がついた。 離脱後は、EUとの経済関係は現状維持したままの移行期間に入り、2020年末までの移行期間中に、 EUとの間に自由貿易協定(FTA)が合意、批准されなければならない。 合意できるのか、あるいは、移行期間の延長となるのか。 合意無きままの離脱となっては、英国、EU双方に、ひいては、日本、世界各国に混乱をもたらす。 来年2020年12月末までの移行期間内に、合意、批准されることを見守るのみである。                          (2019年12月記)


講師


講演会場


講師を囲んで懇親会


11月例会 講演会

 ブッヘンベルガー教授
  「欧米における日本のイメージ」

               を聞いて

今回初めて湘南日独協会の例会に参加させてに参加させていただいた。 11月のテーマは奈川大学の教授 Prf. Dr. Buchenberger氏をお招き ドイツに於ける日本のイメージがどういうものか講演して頂いた。


会員 赤崎 玲子 氏

氏が日本に移り住んで約20年。まだドイツに居られたときと、移り住んで長らく経った今とは、 日本に対する認識がかなり変わられたようである。
ブッヘンベルガー教授は神大で国際交流学科とドイツ語を教えていらっしゃる。

ドイツで、いや世界中で流行った日本の映画や漫画、あるいはコミックを通して、 ドイツ人の日本への認識や、氏が教鞭を取っておられる学生達のリアクションなども交えて、 面白おかしく語ってくださった。 日本映画の代表的な作品である三船敏郎主演の映画や、黒澤明監督の「七人の侍」等々がドイツに上陸して、 徐々に日本という国が認識されたという。 私にとってとても興味深かったのが、ミュンヘンで最初にできた和食レストランが「Mifune」という名前で、 実際に三船敏郎が開店に訪れたということだ。私も長年寿司カフェを営んで(今は閉店して現在日本在住)、 お客さんと良く他の地域の和食レストランのことが話題になったが、これは初めて耳にしたことだった。

また、近年では「クレヨンしんちゃん」や、「ワンピース」が若者の間でも浸透し、 「セーラームーン」などで、コスペルという文化をドイツにまで作り出した。 毎年お祭りのように各地でコスプレフェストが開催され、コミックに登場する人物さながらの衣装で若者が街に繰り出す。

実際うちの店に来ていた日本学の女学生等が、このコスプレフェストに行くためのコスチュームをどうするかで、 話に花が咲いていたのを私は不思議な感覚で眺めていた。

また氏が再三口に出された「Stereotyp」は「型にはまった」という考え方だが、 ドイツ人が抱く、日本のイメージがいかに型にはまっているか、著書やテレビのニュースキャスターが伝えたことにジレンマを 感じているようである。

実際私が30年ドイツに在住して、日本という国を一概に表すのは難しいと感じている。 それぞれの主観はさておき、日本の文化やメンタリティは経験した人でないと実感できないからだ。 それでも、ドイツ人は何を通して日本という国を見るのだろうか?きっと日本人と実際に付き合ってみて、日本を実感するのではないかと思う。 私の知っているドイツ人は皆、ドイツにいる、日本にいるに拘わらず、日本人という身近な存在で日本を知った。 因みに、それらの多くの人たちは皆日本に絶大な好感を持っている。 氏も「日本に来た外国人の多くは皆日本人以上に日本的になる」ということを仰っていた。 日本の文化や芸術は、ともすれば日本人以上に外国人から愛される。日本オタクという見方もできる。

氏が日本人から、もう何百回となく”納豆食べれますか?”と聞かれたそうだ。 まるで、「外国人の日本浸透度」を推し量るような質問だ。 かくいう私も納豆の食べれるドイツ人には一際親近感を持ったのも事実だ。 反対に私はドイツ人に「ドイツの食べ物で何が一番好きか?」と聞かれて「ザウワークラウト!」と答えると、100%ポジティヴな反応だった。

因みに飲みに行った懇親会の席で、氏は「もちろん私は納豆大好きです!」と仰っていたのが、印象的だった。


講演


コーヒーブレイクでの懇談


「海外旅フェスタin 藤沢」 に参加して



副会長 勝亦 正安

去る11月10日、日本旅行業協会主催「海外旅フェスタin 藤沢」が藤沢商工会館(ミナパーク)で開催され、 各国観光局と旅行会社の多数が参加し、出展しました。 日頃お世話になっているドイツ観光局の依頼を受け、昨年同様、当協会が出展業務を代行しました。 参加費用、資材共観光局の負担、提供です。

朝9時に藤沢商工会館5階に担当の伊藤理事と勝亦、応援の中嶋理事と八尾協会員の4人が集結し、 前日持ち込まれた地図ゲーム用の資材を組み立て、また、協会と協会活動PR用の各種パンフレット、 チラシ等を多数用意し、朝10時から午後4時頃までブースの運営にあたりました。 運営の具体的内容は、来訪者が行きたいドイツの都市を地図上に捜し、ピンを立てるというゲームの手助けです。 ゲームの説明を求める子供連れの家族、思い出のドイツ旅行を語るご夫婦、 旧東西ベルリンの違いを語る年輩者、協会対応者も知らないドイツの町の名を挙げる紳士等々、 様々な来訪者があり、立ち放しの応対に些か草臥れましたが、来訪者との会話は楽しいもの、 73本のピンが、行きたい、再訪したいドイツの都市35の上に立てられました。

行きたい町トップNo.1はピン数9本のベルリン、No.2は6本のミュンヘン、 No.3は5本のハンブルグ、ケルン、ヴュルツブルグの3都市でした。 今年はベルリンの壁が崩壊して30年が、マスコミにより報道された故かもしれません。 ピンの総数は、昨年の124本に比べ少ないのですが、これは、今年のフェスタが、6階大部屋イベント会場、 5階小部屋展示ブースに別れて開催されたことが影響したと思われます。 因みにフェスタ全体への来訪者は今年1,400人、昨年の1,300人を上回ったと主催者から発表されています。 こうした協会の代行業務とゲーム結果の詳細は、コメントと共に伊藤理事よりドイツ観光局へ後日報告され、感謝されました。

展示業務を行う傍ら、観光局了解の下、当協会と協会活動のP.R.も活発に行いました。 ドイツ大使館提供の配布物多数、また、協会の会報、語学講座のチラシ等も展示され、 来訪者へ手渡されました。ドイツに一度も行ったことがないという方が幾人もいたのは意外でした。 加えて、協会そのものも知らない来訪者も少なからず、一層のPR活動の必要性を知らされた一日でもありました。


「ふじさわ国際交流フェスティバル」 に参加して



理事 伊藤 志津子

「第16回ふじさわ国際フェスティバル」が10月27日に開催されました。 湘南日独協会はこのフェスティバルに第9回から毎年参加しています。 場所は藤沢駅北口の広場で、国際交流の諸団体が店を出しました。 今年は14団体のブースが並んで賑やかな交流の場になりました。 いろいろな国の物産が並び、屋台料理もさまざまでした。 日本文化紹介の浮世絵刷りや、パラリンピック競技の「ボッチャ」を体験するコーナーも賑わっていました。

湘南日独協会はドイツクッキーの販売をしました。私たち協会役員がブースに並んで売ったのですが、 商売には向いていないのでしょうか、100個を売りさばくのに苦心しました。 会員の曽根愛さん(アウスリーベ)製作の美味しい詰め合わせでした。 ドイツの写真集を10冊ほど並べて、立ち寄る方に見て頂き、欲しい方にはさし上げました。

協会顧問の三谷さんがコレクションされていた立派な写真集で、 ドイツの風景や有名な場所の写真には皆さまかなり興味を持ってページを開いて見て行かれました。 ただ、それらは分厚くて重い本なので持ち歩くのでちょっと、、、ということでしたが、 それでも半数は新たな持ち主にお持ち帰り頂くことができました。 この広報をご覧の会員の皆様、次のフェスティバル開催は2020年10月25日(日)です。 近づきましたら改めて広報紙面でご案内いたします。ご参加ください。 また、販売品や展示品などについてのアイデアや企画がありましたらお寄せください。

オリンピックの年のフェスティバルを、ご一緒に盛り上げ、楽しみましょう。


湘南オクトーバーフェスト 2019

湘南日独協会一大イベント第21回オクトーバフェストは10月26日、 来賓招待者十数名を含め会員の2/3、80数名が参加し藤沢市民会館で開催。 西山顧問・峯松さんの司会で、松野会長挨拶、駐日独大使館Kiesewetter駐在武官ご夫妻・松尾鎌倉市長・鈴木藤沢市長の祝辞の後、 鬼久保理事のアルペンホルンを合図にアインプロッジト本場ドイツビールの乾盃で開始。


会員 下條 泰生 氏

まづは梶井先生指揮の協会合唱団「アムゼル」の「歌の翼にのせて」他三曲、 ドイツ民族衣裳ディアンドルのハレ着の女性と男性の混声合唱はハレの日に相應しい令和なビューティフルハーモニーである。 定連アコーディオンピアノ江良さんトリオによる「旧友」の演奏でメートルのピッチが上がったところで、 「ドイツ語で唄う会」メンバーを中心にKiesewetterご夫妻や会場の人々も加わり大久保理事司会で。 「ホ-へタンネ」他2曲の合唱に続きほゞ全員での「ロザムンデ」(バラの唇の女) 松野会長の青春の地「ヴィーンわが夢の街」シェンクの「トリンク、トリンク」 「クーフシュタイン」の大合唱で会は最高潮の頃合で恒例の肩に手を、 手を肩にのイモムシタンツェンでトリンケン、ジンゲンの楽しい二時間はエンデ。

1998年第一回のオクト・ヘスト開催を契機に湘南日独協会が結成されたと聞く。 ミュンヘンの第一回は1810年、日本では2003年 5月日比谷公園、 10月横浜レンガ倉庫が第一回、いまやオクトーバー・フェストは日本各地で開催、 推定50万人の国民的行事の観があるが、 本場に次いでオクトーバー・フェストが盛んなのはアメリカである。 スタィンベック、リンドバーク、アイゼンハウワーそしてトランプ大統領等の3、4世のドイツ系アメリカ人は5千万人17%と聞けば当然。

ところで日本でドイツ民謡・歌曲・童謡が唄われるのは、 ドイツ系アメリカ人の宣教師やドイツ留学、 駐在した日本人がもたらしたのを始めかってドイツ語を第二外国語で履修した旧制高校の寮生達が、 今回フェストで歌った「ドルテン・イム・ウンターランド」(岡に登り)「ムシデン」やかって全盛のドイツ 「ウーファ」社の映画主題歌を愛唱したのを由来とする。 いまや大学でノドイツ語履修は約2%と聞く。将来、オクト・フェストは単なる飲み会なるかも。

Frühherbstlich Säume das
Oktoberfest und seinen Übermut
作 Erich Wasem ミュンヘン俳句会報


松江さんは前列向って左です

会員 松江 節子

オクトーバフェストは一昨年度に続き2回目の参加です。 アムゼル会員の友人からこのフェスタのことを伺い、 是非ともアムゼルの本格的ドイツ語のコーラスを聴きたいと思い参加させていただきました。

ドイツのダルムシュタット大学で、長い間、化学分野の研究を続けられていた横浜市大名誉教授のN先生をお誘いしました。 以前先生からお誘いを受け、横浜赤レンガ倉庫の「オクトーバフェスト」に行きましたので、 今度は「湘南オクトーバフェスト」にと声掛けしました。 横浜は騒々しく、人も多く、飲食物を手に入れるのも大変でした。 本場のフェスタを知らないものですから、どこもこんな賑やかな祭ものと思っていました。

湘南オクトーバフェスタはいいですね。ゆったりとテーブルに座りおいしい食べ物がご用意され、 飲み物も十分準備していただき、ご参加された皆様のお顔も十分見渡せます。 そして素敵な音楽がすぐ近くで演奏され、ゆったりと皆様とお話もできます。

アムゼルの方々が老若男女とも素敵な民族衣装をまとわれ、本格的コーラス、 あまり日本で見られないアルペンホルンの演奏、ご一緒に楽しませていただきました。 いつも全員が輪になって踊るダンス、千鳥足もありますが、皆様と一体になり、 溶け込ませていただけます。来年はまた他の友達も誘って楽しみたいと思っております。

ヨーロッパには毎年何となく観光旅行に行きます。仏、英、などは数回、 にイタリアは北から南まで数え切れないほど行きました。 実をいうと私はドイツに一度だけしか行っていません。 私の中にはドイツは他の欧米諸国とは違うイメージがあり、歴史、音楽、 経済いろいろな知識を構えていかなければならないように勝手に思っているからかもしれません。 興味はありまして、翻訳書籍の伝記ものでドイツ人の作曲家、 カールベンツ、フロイド、ケプラー、など読み、 大学社会人講座ではドイツの歴史も積極的に参加したりしています。今回を機会に更にドイツに近づきたいと思います。




会場の様子


ヴァイマール独日協会会長ケッケル氏ご家族との会食


会長 松野 義明




去る(2019年)9月25日ごろでしたか、ヴァイマール独日協会会長のケッケル氏ご家族が日本に来ておられ、 10月 5日に鎌倉オクトーバー・フェストに招待されていて出席するつもりだが、 湘南日独協会のオクトーバー・フェストには、滞日スケジュールの関係上、 残念ながら出席できない旨の連絡をケッケル夫人から頂きました。 せめて、一度はお会いして会食でも…と思いスケジュールを調整した結果、 10月11日(金)が可能であることが分かり、さっそく会食場所を手配して、 旧交を温めることができました。

お客様はケッケルご夫妻とお子様お二人、当協会側は、理事のみなさま全員にご都合を伺ったところ、 急なことなので、三谷、勝亦、大久保、高橋、中嶋、松野の6名が都合がついて出席しました。 お子様もいらっしゃったので、あまり固い話はできず、お父様がドイツ人で、 お母様が日本人の場合のご家庭での語学教育の問題といったプライヴェートなお話や、 また、昔のようにお互いに時々団体で訪問し合いたいですねといった、 漠然とした内容の話ばかりでしたが、強く印象に残ったことは、 ケッケル独日協会会長の日本語が長足の進歩を遂げたことです。 これは、単にコミュニケーション技術の習得に成功したというだけに止まらず、 ケッケル会長の日本文化への関心の深化の表れで、大変喜ばしいことと思いました。 心が通じ合う大変良い時間でした。


7月例会 講演会
寺田 雄介氏
  「カフカの『変身』について」

  を聞いて

カフカへの道筋
若い頃、斜に構えて読んだカフカは難解だった。独文学者の池内紀氏は、「カフカは見る位置によって変わる不思議なだまし絵」と評している。 寺田先生は「変身」をとり上げてカフカ理解への道筋を教えてくれた。説明はとてもクリアで、映像使用も実にスマートで独特のリズムがあった。


会員 笹 信夫 氏

不安の中に生きたカフカ
数年前、あるカルチャースクールのドイツ語学習で寺田先生の講義を受けたことがある。 担当のS教授の代講であった。レクチュアの後だったと思う。私の質問に先生は答えてくれた。 「カフカが専門。不安の中に生きた作家」と。「不安―」そのことが印象に残った。

今回の講演に触発されて先生のお話を手掛りに、カフカについて考え、私なりにまとめてみた。 つまり、時代背景、チェコの民族構成、カフカの出自、生い立ちなどである。 そしてカフカの「自分を支えるものがあるのか、それは何なのか」といういわば「底無しの不安」についてである。

カフカ(1883 - 1924)が生まれた時、プラハはオーストリア・ハンガリー帝国に属していた。 人生の後半に第1次大戦(1914 - 1918)があり、1918年にはチェコスロヴァキア共和国が誕生した。 まさに激動の時代である。因みに『変身』は大戦前(1912)に執筆された。カフカが29才の時である。 チェコスロヴァキアの民族構成は複雑だった。 チェコ、スロヴァキア、ドイツ、ハンガリー、ウクライナなど多数の民族の中にユダヤ人が同居していた。 カフカはユダヤ人である。チェコと言う国は各民族がせめぎ合いを繰り返すのであったが、 少数派のユダヤ人は所詮流浪の民でありデラシネであった。マリアテレジアによるユダヤ人追放令(1726)は、 19世紀半ばまで続いていた。

カフカにとって、ユダヤ人であることが生涯負い目となった。 カフカというのはチェコ語の「カラス」を意味する。 チェコのユダヤ人はもともと「姓」を持たなかったが、1782年ヨーゼフ2世がユダヤ人の姓を認めたという。 果たして「カフカ」という姓がいいものなのか、あるいは小役人が気紛れにつけたものかわからない。 カフカはどう受けとめていたのだろうかー。 ドイツ人でもチェコ人でもないカフカは、ドイツ人社会やチェコ人社会にもおさまりがつかず不安定な存在であった。 宗教的にもキリスト教やユダヤ教にも疎外感を持っていたという。

「変身」と「山月記」
講演の途中で私はふと中島敦の「山月記」を思い出した。 「変身」はセールスマンの男がおぞましい "毒虫" になり、痩せ細って干からびて死ぬ。 一方、「山月記」は詩人として名を成し得なかった李徴が、 "虎" に変容して、悶々の情耐え難く山中の岩の上から月を仰いで咆哮する、 という話である。何れも人間が "異形" に "変身" する話である。 ストーリィの手立てとしては似ている。 カフカと中島敦を並べると外形的にはこの他に相似がある。 一つは大戦の存在だ。カフカは「変身」を執筆後2年経って第1次大戦を経験し、 中島敦(1909 - 1942)は第2次大戦(1941 - 1945)の最中に死去する。 二つ目は病気による若死。カフカは肺結核のためウイーン郊外のサナトリウムで41才の生涯を終える。 中島は宿痾の喘息に苦しみ34才で早逝する。「山月記」は同じ年に発表された。

ところで二人に接点はあったのだろうか。 私は未だ調べを終えていないが、中島敦にとってカフカは関心を寄せていた大きな存在であったと思う。 山下肇氏(独文学者)によると、中島敦は花田清輝、長谷川四郎などと共にカフカ研究の先覚者であり、 吉田健一氏(評論家)は「敦はカフカなど海外の作品を多く読み、世界の混乱がこの近代人の精神に反映している」と解説している。

尚、私が所属する横浜ペンクラブは、横浜にゆかりの深い中島敦を讃え彼の命日(12月 4日)を「山月忌」として偲んでいる。

カフカは今も読まれている
カフカ死して95年になるが、いま尚その作品は読み続けられている。 「変身」は山下肇氏の訳だけ見ても岩波文庫第1刷(1958)から第19刷(2018)まで、 60年間続いている。 辻 瑆氏訳「審判」は同文庫第1刷(1966)から第53刷(2016)まで50年に及ぶ。 カフカがこのように長く読まれているのは、社会や個人の不条理、不透明さを実存の問題として取り上げ、 どこまでも追及する作者の真摯な姿勢がいまも "現実性" を持っているためであろう。


寺田 雄介 講師

それにしても、最近は世の中が万事sachlichになり過ぎて文学が片隅に追いやられているいやな風潮がある。 文科省の国語の新指導方針もそうだ。 「文学作品を圧縮して実務文を入れる」という。 これによると「山月記」も「こゝろ」も高校教科書から消えるらしい。 これに対し「文学の灯が消える」として阿刀田高氏は強く反発している。(2019文春新年号)。 私の知合いのM大学文学部某教授は「学生や若い人の間では中島敦は依然人気があるのに」と言ってくれた。 カフカは自分を覆う不安を問い続けたままいまに生きる私達に重い課題をその作品に残して死んだ。 私は本稿を書いていて次の章句に出会った。

―「真理の探究は不安という経験を通じてなされるもの」(キエルケゴール「死に至る病、ロランス・ドヴィレール、 久保田剛史訳、「思想家たちの100の名言」文庫クセジュ」


会場の様子


6月例会 講演会 「高等技術教育の独仏比較」
吉森賢先生の講演会に出席して

会員 三谷 喜朗


三谷氏        吉森講師        西山顧問

当日のテーマは独、仏における高級技術者はどのような教育のもとに養成されてきたかであった。 吉森氏は仏のINISIADに留学した経験を持ち、研究生活を送られた後、同校の教授に迎えられさらに、 ベルリン大の教授を経て帰国、横浜国大の国際経営学部の初代学部長、名誉教授さらに放送大にて今日なおご活躍中である。 私も一技術屋とし長年現場で過ごして来ており、現在はそれは卒業した積りであるが、 当日のテーマは大変か興味深いもので今日の講演会は盛り上がった。 フランスはナポレオンにより、エコール・ポリテクニークにて教育された技術者が政治に関与しさらに軍事教育化された。

国家統一の遅れていた、 ドイツ(プロイセン)は先行するフランスの技術に対して追いつき追い越せを目標に教育改革を進め、 富国強兵に技術,工学をもって推進した。 明治時代にはわが国も遅ればせながら大学教育に技術が尊重され、さらに軍事教育化されて 欧米に追従して富国強兵化に偏り過ぎた。

この点では仏は、ポリテクニーク出身で有る事で名目的にも社会的地位が確立され、一方独はDipl.−Ing.の資格が理論と実学+応用が結合され、 その資格が尊重された。 その点ではわが国ではDr.(博士号)のみ(戦後技術士の資格が生まれたが)認めらてきた。 ・・・・・・・・・・・・と言うのが多くの投影資料で説明された。 その他にヴィデオ等色々資料をご持参頂いたが当日は機器の都合とそして制約された時間等により残念乍ら又の機会にと言うこととなった。

質疑応答, 先生を囲んでの懇親会では会員との議論は絶え間なく続いた。



       
吉森講師                     懇親会


3月例会 講演会
「帝政ロシアの東方政策」
  を聞いて

私は今世界史に嵌っています。昨年夏、偶然手に取った本に興味を持ち、 次々と出てくる疑問を解くために次々と本を手にというわけです。 こんなことは、大学受験の為に世界史を勉強して以来50年ぶり。 しかも、当時は興味ないまま受験の為に覚えた事柄が今はいきいきと躍動しています。


中野 宏徳 氏

さて、今回のテーマである帝政ロシアについては、つい最近ロシア史を読んでいたのでとても素直に理解できました。 ロシアの東方政策をピョートル大帝時代から始められた森田講師の着眼は正しいと思います。

大帝までの前史は、講義の通り、モンゴルからの解放、ビザンツ帝国とギリシア正教の継承、 封建制から中央集権への変革と、もっぱら国内問題に忙殺されていました。 外に向かっては、イワン雷帝の時にウラル以東シベリアに探検隊を派遣したくらいでした。 しかし、この探検隊の目的は既に不凍港探しであったと思われます。 経済の発展と共に海外との貿易が盛んとなり、河川と運河のみの輸送力では間に合わなくなっていたのです。

ピョートル大帝は、ヨーロッパ先進国を見て回ってから国力の増進には経済に加えて軍事力の強化が必要と感じ、 貿易港と貿易ルートを守る海軍、その拠点となる不凍の軍港探し、 海軍の中味である軍艦を作るための造船所へと政策を拡大していきます。 この「不凍港を求めて」というテーマが、以降のロシア帝国の国是となるのです。 その方向は、バルト海方面、黒海方面、太平洋方面がありました。 バルト海は、大帝在位中に北方戦争でサンクトペテルブルクを得て実現。 黒海方面はクリミア戦争を含む数度にわたるトルコとの戦争に終始。 そして、太平洋方面が清国、朝鮮、日本との衝突です。

ここまではどの歴史書にも出てきますが、森田先生の話はここからが面白い。 日本人漂流者の詳細とその顛末。有名なところでは、 大黒屋光太夫と高田屋嘉兵衛ですが、無名の人の名前とその結末までの話は初めて聞きました。 特にその人たちが帰国を許されずに日本語教師になったとは、気の毒というか、 ロシアの執念を感じます。最初に大阪の伝兵衛なる人が教師になったのは1705年と言いますから、 日本では赤穂浪士の討ち入りがあった頃。 このような時期から将来の対日交渉の為に日本語を勉強していたとは恐れ入る次第です。 次の「ロシアから日本への接近」をみると、ロシアが何とかして日本に接近しようとするよく様子がよくわかります。

その中には日本語学校卒業生もいたとか。この頃、 ロシアが一方的に日本に開国圧力をかけて来ただけと思っていましたが、 森田先生のお話しでは、日本の情報が欲しい時期、交渉したい時期、 拒否されて強硬路線をとる時期と3段階になるとのこと。 私は気が付きませんでした。その後、 1860年に清国から沿海州割譲を受けてウラジオストックを開港してからの東方政策は、 不凍港を求めてというよりは帝国主義推進に変わったように思います。 すなわち満州から朝鮮へと。その結果が日露戦争でしょう。 日露戦争に関しては、講義内容が戦争そのものではなくて海底電線の敷設戦略というのも驚きました。 戦争というのは戦闘以外の部分すなわち兵站、輸送、通信などさまざまな事柄に及ぶのだと感じました


講師 森健太郎氏


懇親会にて


―談話室SAS 9月例会―
「鴎外とナウマンとエリーゼ」

会員 藤野 満

森鴎外の晩年の写真を見ますと、いつも物思いに沈んだ悲しい顔をしているように見えます。 この寂しそうな顔は何処から来ているのだろうかとの思いから、鴎外の一生を知りたくなり、 久々に鴎外の本を手にして様々調べたことが、9月のSAS懇話会での話題提供につながりました。

鴎外の父は島根県津和藩のご典医で、鴎外が小さいときから森家の跡取りとして、 早くから英才教育が施されてきました。当時の藩校であった養老館に五歳から通い、 論語や四書五経などの漢学を学び、九歳でオランダ語、十歳でドイツ語を学ぶなどしましたが、 これら勉学の配慮には、町の開業医ではなく、森家を代表して立派な医師になってほしいとの両親や親族の願いが籠られていました。

その根底には森林太郎の人並み以上の秀でた学習能力が在ったことは言うまでもありません。 東大の医学校の予科には年齢制限から2歳年齢を詐称して入学し、本科を19歳の若さで卒業しました。

大学では外科、内科、化学、生理学、解剖学、物理学・数学、獨逸・羅甸(ラテン)語学、 博物学、製薬化学・算術の10科がありましたが、その全てにドイツ人の教員が居り、 それらの授業は殆ど独逸語で行われたことから、語学に自信をもつ森林太郎にとっては、 まさにドイツに来ているかのごとき環境のなかで医学を学べました。

一方で林太郎は12歳の頃から古今集や唐詩選を読むようになり、次第に文学に目覚めました。

東京大学を卒業すると、鴎外はドイツへの留学希望を強くもちましたが、大学卒業時の成績が八番で、 上位3名に入らなかったことから、政府からの声はなく、 同期卒の友人から陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に名文の推薦状を出してもらい、 陸軍の医師として、自分の夢が実現できることになりました。

22歳の若さでドイツの陸軍衛生制度の調査を目的として三年留学、 この経験がその後の彼の生き方や作品に大きな影響を与えました。 しかし、一方で、陸軍の医師という立場を離れることはできず、帰国後、 個人の願望は他に置かされ、留学は叶わったものの再びドイツに足を踏み入れることは出来ませんでした。

ドイツでは伯林のみならず、ドレスデンやラインプニッヒそしてミュンヘンなどにも脚を延ばし、 コッホやホフマン、ペッテンコッフェル等に師事しましたが、 ドレスデンではさすが鴎外と思われる事件がありましたので、懇話会でご紹介させていただきました。

地質研究のため雇われ外人の一人として招聘され日本に十年滞在したナウマン氏が ドレスデンで行なった日本についての帰朝講演会に出席した林太郎が講演後の会食時に あえてナウマン氏の講演内容を訂正するスピーチをしたことで多くの出席者の拍手喝采を得ました。 その後、数度に渡ってミュンヘンの一流紙 Allgemeinen Zeitungにナウマン氏が 論文「日本列島の地と民」を寄稿しましたが、林太郎はそれについても「日本の実情」 「日本の実情・再論」と題して2度に渡って反論を投稿しました。

これら林太郎の論文は鴎外の師のペッテンコッフェル氏の支持を得て原稿の最終チェックが行なわれたとはいえ、 長文の論文であり、文法の間違いも無く、 優れたドイツ語表現力を示したものとして多くのドイツ人から称賛されました。 なお、日本各地で発見されるナウマン象の化石のナウマンは彼の名前からとられたものです。 ライプチッヒの酒場には鴎外の肖像を入れた壁画が今もかかっています。

鴎外は三年後の明治二十一年にドイツを離れ帰国しますが、 彼の後を追って4日後に到着した別の船でエリーゼ・ヴィーゲルトというドイツ人女性が単身来日します。 鴎外の代表作「舞姫」の主人公エリスのモデルと云われています。

そのエリーゼは鴎外の親族の説得に会い、結局1ヶ月後に横浜を離れドイツに帰国しますが、 その間、鴎外は陸軍あてに辞表を用意していたとも云われています。

エリーゼが去ったあと翌年に鴎外は母や親戚が用意していた見合い相手の赤松登志子(17歳) と結婚しますが、1子をもうけたものの性格不一致から一年で離婚しています。 そして十二年後に母が見つけてきた美人の荒木志げと再婚します。 しかし年の違いや鴎外の母など親族との諍いからこの結婚にも鴎外は満足を得ることができませんでした。

ナウマン氏は日本についてどのような不満をもって、日本批判をしたのか、 また鴎外にとってエリーゼが去ったあとの彼の半生はどうだったのか、 鴎外は臨終前の意識朦朧としたなか、突然「馬鹿らしい」「馬鹿らしい」と喚き、 自分がたどった人生をまるで批判するような言葉を残して他界して行きましたが、 その言葉の真の意味はどこに在ったのかなど、 さまざまな想像を巡らさせるテーマと向き合う良い機会を与えていただき、 自身にとってもたいへん良い勉強となりました。厚く御礼申し上げたいと思います。

9月例会の配布資料の一部です。

        
森 鴎外              ナウマン博士


ライプチッヒのレストランに今に残る、壁に描かれた森鴎外の姿



志賀トニオさんのレクチャーコンサート
テーマ:「指揮者の仕事」

会員 大久保 明
Der Wind編集者

志賀トニオさんには、Der Windの「劇場便り」で、指揮者の仕事、 ドイツでの生活などをご寄稿頂いて早くもこの10月号で18回となります。 毎年夏季休暇には4人のお嬢様を連れられて、湘南へ、 そして滞在中にこの数年「レクチャーコンサート」を開いて頂いています。 今年7月4日は「指揮者の仕事」と題してのお話と、「かえるの歌」を使用しての全員参加の楽しいレクチャーでした。 私は6月12日から16日までブレーマーハフェンに滞在(前号参照) トニオさんの劇場での仕事と家庭生活の一部を垣間見てきました。 このレクチャーと現地での経験から、私なりに次のように理解しました。

指揮者は作曲家が曲に籠めた想い感情を、演奏家を通じて、聴く者へ伝えことを目的に、様々な準備が必要です。 一方演奏家は彼ら自身が楽譜を読み、作曲家の意図を表現すべく努めます。

ピアノソロのような独奏のケースであれば演奏家自身の考えで演奏することが可能ですが、 特にオーケストラや多くの歌手の出演する場合は、 プロの演奏家の持っている感情をそろえるのが指揮者の仕事と言えるでしょう。 その為には練習時に楽譜を読みこみ、作曲家の意図を理解し、 各楽器にどう演奏させるかを、 決して押しつけがましくなく演奏家に身体で表現して指示する事が必要です。 その為には資料を探しに図書館へも通い、 練習時にコミュニケーションを密にし指揮者の意図を正確に伝え納得させなければなりません。 技術面でも指揮法にドイツ式と日本式の違いがあるようです。 演奏家がそれぞれプロであれば各自の考え方があり、 指揮者が指示を出すタイミングや、眼や指の使い方にも十分に事前に理解し合う事が必要です。 自身の人間性は勿論、自らの勉強、相互理解のための密な良い環境作りなど日頃から重要となります。


4人のお嬢さんと筆者

トニオさんには劇場内を地下から屋上まで案内して頂きました。 どこでも、舞台づくりや衣装部屋なども含めて皆さんにこやかに出迎えて下さいました。 トニオさんの直接演奏に関わらないスタッフとの関係もとても良い雰囲気を感じました。

トニオさんのお住まいは、公共バスを利用して30分程度の郊外にあり、近くに森や川もあるお子様の為にも良い環境です。 午前中に劇場での練習などがあっても夕方の演奏会まで自宅に戻り、食事をし、お子様を幼稚園や学校へ 迎えに行くことも出来、日本ではなかなか経験出来ない、ドイツの生活の豊かさを感じました。

トニオさんのブレーマーハーフェン市立劇場専属の仕事も5年になり、新たな出発をお考えのようです。 年明けには客演指揮のスケジュールもあり、ブレーマーハ―フェン以外での活動も視野に入っているようです。 今後の一層のご活躍を楽しみにしています。


4月例会の映画会「バルトの楽園(がくえん)」

に関して、会員中島敏氏からのご寄稿です。映画の背景の一つとして非常に興味ある内容であるとともに 当時の収容所でのドイツ人の生活や日本人との交流などを記した歴史ある文書の翻訳の苦労を伺うことが出来ます。 なおドイツ語原文は紙面の都合で一部省略させて頂きました。また、冒頭の解説文中の 青字部分にあります、「発刊の辞」には新聞発行の喜びと 同時に俘虜という環境の悲哀も感じさせる一文があります。

Tokushima-Anzeiger : 徳島新報

会員 中島 敏

トクシマ・アンツアイガー。それは何だ? 第一次世界大戦中に青島で捕虜となったドイツ兵俘虜によって徳島俘虜収容所内で自発的に定期的に発行されていた新聞である。 『トクシマ・アンツァイガー』は、1915年 4月 5日(月)が第1号の発刊日となっている。 これ以降日曜日ごとに発行された週 刊新聞である。ただし、第3巻第9号からは隔週刊に なっている。この新聞のうち第1巻第1号から 1916年 9月17日(日)の第3巻17号まで、全体で67号分のコピーが残っている。俘虜たちが新聞発行をするに至った事情について、 第3巻18号以降の発行が実際にあったのか、それとも何らかの事情で廃刊となったのか、現段階では不明である。

俘虜たちが新聞発行をするに至った事情について、第1号の冒頭に「発刊の辞」とでも言うべき文章がある。 「以前から久しくあった要望に応えるため、われわれは今日この新聞を公共の場に提供し、もって長年にわたって花開き、成長し, 繁栄することを望みたい。新刊の新聞は、たいていこのような言葉とともに世の中へと出される。 本日世に出たわが『トクシマ・アンツァイガー』は、このような麗しい発刊の辞を、単に言わずにすむだけでなく、放棄しなければならない。 というのも、それは全く不適切な言葉 だからである。せいぜい「以前から久しくあった要望」は正しいとしよう。 しかし、当俘虜収容所を「公共の場」と言うのは意味をなさない。また長年にわたって続くことをこの新聞 に対して望みはしない。 われわれが、この収容所の門を出て、愛しいドイツの故郷に戻ることを望む。」

原文は古いドイツ文字の筆記体で書かれている。所謂ガリ版刷りになっている。 2001年頃、鳴門ドイツ館が徳島新報の解読を全国に呼びかけた。私がメンバーになっている横浜ドイツ研究会がこれに呼応させて頂いて、 爾後約2年間、原文を現在ドイツ語印刷体に直し日本語訳をつける作業で悪戦苦闘を楽しんだ。 その一部1916年 6月 4日付けの徳島新報に出た「収容所見張り台より」を紹介しておきたい。

第3巻第10号(1916年 6月 4日)
収容所見張り台より

5月が過ぎた。大いに風が吹き、雨が降ったが、それでもなお、かなり涼しく、我々は気分の良い状態を保っていた。 旗竿には皆、丸い口付きの鯉のぼりがあちこち重たげに泳いで、それぞれその怪魚ぶりを競っていた。 外では、小麦や大麦が実りを迎え、学校の噴水あたりでは既に打穀されている。仮に作男の期待を十分に満たすものではないとしても、 収容所の菜園も整備されつつある。無数のひよこの一団が食欲をそそるローストとなるべく、すっかり成長を遂げている。 何人かの愛犬家が再び新しい愛犬を見せにやってくる。彼等は既に夜毎のワンちゃんコンサートで聞こえる声を出そうとしている。 カブト(犬)は監視の合図に相変わらず最上の鳴き声で伴奏をつけている。彼は収容所の方が、もともと彼が居るべき中学校より居心地が良いと感じている。 歩哨たちは、夜、彼と銃剣戦闘練習を開催しているようである。カブトは2度続け様に激しい突きを受けた。 広場では競走路が清掃され、ぐるりと階段状の観覧席が囲んでいる。まもなくあそこで自転車競技が行なわれるのであろう。

我々のゲーム、バレーボールやテニスの見物人がどんどん増えている。可愛らしい少年が興奮して一緒にやりたがる。 このチビッコたちは熱心に大きなバレーボールの後を追ってきて、それを打とうとするのだが、周りの者たちに笑われ、ゲームでのようには、 そう簡単に大きなボールを捕らえられるものではないということを思い知らされるのだ。 球技のほかには、さらに熱心に体操が行なわれている。それで、肉体的な運動に関しては、我々は不足しているということは全くない。 精神的な糧については、新しく整備された図書室が大きな満足を与えてくれている。書架を見渡せば、図書館は本当に立派に見える。 収容所の施設はますます拡充されているが、更に、未実施の建設計画は急を要する。 というのは、やがてすべての建設場所の配分が決まるからである。――

シュレトァ牧師が水曜日( 5月31日)に収容所で礼拝を行なった。 牧師はこの収容所に強い関心を示しており、いつでもできる限り力になるつもりでいてくれている。

昇天祭の日、中津峰の北斜面にある観音堂まで日帰りの遠足をした。既に朝の6時半、太陽の輝きが最も美しいときに出発した。 一本のまずまずの街道が、ところどころに大麦畑と田んぼのあるだらだらした平地を通って那賀川まで通じていた。 農家の人達が大麦を刈ったり、田んぼで苗代から稲の苗を出して田植えをする準備をしたりしていた。 那賀川のほとりの堂々とした杉や松の森の中に、数多くのお墓に囲まれるようにして常楽寺がある。 封建・武家時代には戦場となった処で、このお寺の別院の一つにおいて、或る大名が殺害されたと言われている。 このお寺から道は先ず小さな丘陵脈に沿って、それから川岸に竹藪が生えている乾ききった河川路に通じ、 次いで高い中津峰山脈の麓へ真っ直ぐ谷を横切っている。深く切り込まれた谷からは小さな川が音を立てて流れ出て、 この落差を幾つかの米用臼の水車が利用している。道は、かなりの勾配を以ってお寺の方へ曲がって上がって行くが、 殆どずっと陰になっている。この間ずっと向こう側の道の暗い色をたたえる樅林と灰色の岩が向かい合った断崖を 見渡すことができる。我々は、多くの巡礼者達を追い越した。巡礼者達は、大半は女の人だったが、 道の途中で、観音様のお像に出くわすたびにお供えをしていた。 切り立った石の階段が、2ヶ所の踊り場から上の方の寺に直接続いている。 その寺は堂々とした針葉樹によって陰になった露台の一角に建っている。ほとんどの人の関心は、更に上にある88ミリ・カノン砲に向けられる。 それは、日清戦争で日本軍が押収したものだ。更にまた、特にお伝えしておきたいことは、杉の高木に彫り付けられた観音像である。 このお像は、約1メートルの大きさだが、彫り付けられた樹木は更に生長し続けている。 山の頂では、十分な時間があって有益な休息をとることができた。3時間半も行進が続いた後だったので、近くの滝にちょっと寄り道できたことは、 幸運としか言いようがない。

水が勢いよく、泡を立てて、岸壁から飛び出し、約20メートルの深さの、暗い、緑色の滝壺に飛び込み、更に勢いよく岩肌の上を谷へと下って行く。 午後、空が曇ってきた。陽焼けで痛みつけられることなく家路につくことができ、全員かなり元気で収容所に戻った。 ハイキングに参加して少しばかりほっとした。本当は平らな道のりをかなりの時間をかけて往復することには気が進まなかった。 けれども、あとになって見れば、この遠足は楽しい思い出になるだろう。
(横浜ドイツ研究会訳)

以下は原本の冒頭からの一部です一

Von der Lagerwarte
Der Mai ist vorbei. Viel Wind, etwas Regen, aber doch hübsch kühl hat er sich in unserer Gunst erhalten. An allen Flaggenmasten schwingen rundmäulige Zeugkarpfen schwerfällig hin und her, jeder sucht den andern durch die Größe seiner Fischungetüme zu 4 5 übertrumpfen. Draußen reifen Weizen und Gersten heran, beim Schulbrunnen wird schon gedroschen. Auch die Gartenanlagen im Lager entwickeln sich, wenn sie auch manchmal die Erwartungen des Gärtners nicht erfüllen. Die zahllosen Kükenscharen wachsen sich zu appetitlichen Braten aus. Einige Hundeliebhaber bringen wieder neue Pfleglinge zum Vorschein. Sie versuchen es bereits sich in den nächtlichen Hundekonzerten eine vernehmliche Stimme zu verschaffen. Kabuto begleitet die Signale der Wache immer noch mit dem schönsten Geheul, er fühlt sich im Lager heimischer als in der Mittelschule, wo er doch hingehört. Die Posten scheinen nachts mit ihm Bajonettierübungen zu veranstalten, er hat kurz hintereinander zwei energische Stiche erhalten. Auf dem Spielplatz ist die Rennbahn gereinigt, ringsum stehen Tribünen, in nächster Zeit werden dort wohl Radrennen stattfinden. Unsere Spiele, Faustball und Schlagball, finden immer mehr Zuschauer. Die liebe Jugend fühlt sich mitunter zum Mitspielen angeregt. Eifrig laufen die kleinen Knirpse hinter dem großen Faustball her und versuchen ihn zu schlagen, müssen aber unter dem Gelächter der Umstehenden erfahren, daß die große Kugel nicht so leicht zu hantieren ist, wie es beim Spiel scheint. Neben dem Spielen wird das Turnen noch emsig betrieben, an körperlicher Bewegung fehlt es uns also durchaus nicht. An geistiger Nahrung bietet die neueingerichtete Bibliothek eine große Fülle, in den übersichtlichen Regalen nimmt sie sich recht stattlich aus. Die Villenkolonie wird wieder vergrößert, wer noch die Absicht hat zu bauen, muß sich beeilen, denn bald sind alle Bauplätze vergeben. - Herr Pfarrer Schroeter hat am Mittwoch (31. 5.) Gottesdienst im Lager abgehalten, er zeigt reges Interesse fürs Lager und ist stets zu allen möglichen Diensten bereit. Bd.III Nr. 10 6 7 An Himmelfahrt gabs eine Tagestour zu dem Kwanon Tempel ein Nordabhang des Nakatsuminne. Es ging bereits um 6 1/2 Uhr morgens bei schönstem Sonnenschein los. Bis zum Nakafluß führte eine leidliche Landstraße teilweise alsdann zwischen Gersten- und Reisfeldern durch eine reizlose Ebene. Die Bauern waren dabei Gerste zu schneiden oder die Reisfelder für das Aussetzen der Reispflanzchen vorzubereiten. Am Nakafluß liegt, in einem Hain stattlicher Cedern- und Kiefernbäume, umgeben von zahlreichen Grabstätten, der Tempel Jorokushi, es ist ein Kampfplatz aus der Feudal- oder Ritterzeit, in einem der Seitengebäude des Tempel soll Ein Daimio einst ermordet worden sein. (以下省略)


5月例会 講演会 「パイプオルガン その歴史と構造」
を聴講して

会員 杉山 麻衣子


講師の説明を受ける右から2人目が杉山麻衣子さん

パイプオルガンについては、興味があったものの詳しく知らなかったので、造詣を深める良いチャンスだと思い、当講演会を聴講しました。 講師の先生は、ドイツでマイスターを取得され、国内屈指のパイプオルガン工房をかまえる松崎譲二さん。 会場には、長さや太さが様々なパイプや、自作されたという持ち運べる小型のオルガンが置かれていました。

まず、パイプオルガンの定義とは何か、という話から始まりました。 その定義は3つ、発音体がパイプであること、ふいごの風で音を鳴らすこと、鍵盤で演奏すること。 それすら正確に理解していなかった私は、講演の序盤からとても関心を寄せました。

次に、構造に関する話では、鍵盤をたたくとてこの原理が働き、 弁の開閉によって風がパイプに通って音が出るという仕組みの解説がありました。 さらに、一つのパイプに対して一音のみが出る。音色はパイプの素材や形状で変化を付けているが、 音の強弱は付けられない、といった話も。 構造の説明は難しかったですが、初めて知り驚く内容ばかりです。 また、サンプルとして用意されたパイプを口で吹くのを聞いたところ、その音は脳に直接届くように非常に響くと感じました。

    
講師 松崎 譲二 氏                 演奏家の奥様

歴史については、紀元前246年に、水圧を利用して音を鳴らす水オルガンが起源として歴史に残っているとのこと。 そして12,13世紀頃に、キリスト教に取り入れられるようになり、18世紀の大バッハの頃、 芸術音楽として最盛期を迎えたというのがおおまかな歴史の流れ。 こういった歴史を知ると、誕生した背景や変遷、パイプオルガンと教会の関係などに関してももっと知識を得たくなります。

そして、録音されたパイプオルガンの演奏も聞くことができました。 演奏された国によってその雰囲気は全く異なるもので、 スイスの現存する世界最古のパイプオルガンの音色は、包み込むような柔らかな音。 ドイツのパイプオルガンは、これこそ宗教音楽というような荘厳な音色、 イタリアも音が重ねられ重厚な響きで、対してフランスは、華やかな印象です。 スペインやポルトガルは興味深いことに、メロディからすでに前述の国とは異なり軽やかなイメージでした。

今回の講演会により歴史や構造を知ったことで、現地の教会を訪れて、 実際にパイプオルガンの演奏を聴きたいという願望が強くなりました。いつか音楽と教会巡りをしたいと思います

会社紹介

   株式会社 マナ オルゲルバウ
   代表取締役 松崎譲二
   住所 〒195‐0063 町田市野津田町1832-14
   Tel/Fax (042)735-7644

   ホームページは、こちらからご覧下さい
   メールは、こちらから


ブレーマーハーフェンへ行ってきました

会員 大久保 明

志賀トニオさんのご活躍されるるブレーマーハーフェンへ行ってきました。 古くからの友人、昔の職場仲間を訪ねる旅の中にトニオさんを訪ねる日程を組みました。 当初6月12日と13日の2公演を観る予定でしたが、14日の指揮が加わり、3日間で昼公演も入れて4公演となりました。 12日の「Mariechen von Nimwegen」ではオーケストラにピア演奏で、13日の昼の「Schulkonzert」ではチェレスタを演奏、 夜の「Die Herzogin von Chicago」14日の「Sunset Boulvard」を指揮するという超多忙な3日間に当たり、滞在を1日延ばして楽しんできました。 これほどの過密なスケジュールは稀とのことでしたが私にとっては幸運でした。

昼には4大劇場の地下から最上階まで案内をして頂き普段は見る事の出来ない、作業中の舞台などもみる事が出来ました。 トニオさんは指揮者でもありますが、オペラであればソリストの指導もするという立場にあり、 その際には本番でオーケストラ演奏に当たる部分をピアノで演奏することも必要と聞き、 楽譜は見るのではなく頭では演奏中の楽譜では無く其の先が見えている、と聞きました。 楽譜を目で追いながら必死で歌っている自分がなんとみすぼらしく覚えました。

さて、左はチケットです。右側にEintrittkarte(入場券)の次に=がありBusTicket(バス乗車券)とあります。 これはバスで来場を促進する手段でもあり素晴らしいアイデアだと思いました。 もう1点。下部にDienstPlatz EUR0,00とあります。 通常は料金が記載されています。今回私は指揮者の優待券を頂き一番良い席の一つで楽しむことが出来ました。 皆さんも行ってみては如何でしょう。


ドイツ滞在で学んだドイツ語と生活体験記

会員 杉山 麻衣子


ハンブルクでの杉山さん

 
杉山さん (近影)               フリース先生の授業     

ドイツ語講座で講師を務めていらっしゃるArndt-Olaf Friess先生による企画 「冬の集中講座 in Germany〜6日間ドイツ語&生活体験」に参加しました。

私は12月26日にドイツへ出発し、Hamburgから南へ20kmほどに位置する町Buchholzのホテルに前半、 後半はその隣町JesteburgのFerienhausに宿泊。授業が行われる教室は、 Jesteburgにある先生のご自宅の離れです。授業は6日間が基本の期間でしたが、 延長していただき7.5日間、先生とマンツーマンという贅沢な授業を受けました。

授業の内容は、レストラン、ホテルや買い物の場面でよく使う会話表現から、疑問詞の受け答え方、 人物紹介や地図の説明など、文法・表現力の強化も狙ったものまで、凝縮された内容。 “ドイツ語を話して上達する”ように授業は行われ、対話数をこなす事で、 ドイツ語を“話し慣れる”事ができたと思います。

様々な体験もしました。先生や先生のご友人と一緒に飲みに行き、新しい交流を楽しんだ事。 郵便局から日本へポストカードを送った事。訪れた場所の一つである墓地は、とても綺麗に整備され、 緑に囲まれた広大な庭のようでとても興味深かったです。他方、電車の遅れや券売機の故障、 銀行のATMが利用できないという困った場面に遭遇した事も、対処方法についての見識が広がる経験でした。 そして、授業の最終日には、先生より、リンゴ酒を造る際の表現だという次の言葉を送っていただきました。 「Junger Most muss gähren! (若いリンゴはまだ発酵できる)」。深く感動し、 私の座右の銘となりました。熱心な授業のうえ、 あらゆる面で助けていただいたFriess先生に、心から感謝申し上げます。

授業期間が終わった後は、ドイツとオーストリアを観光する一人旅。 授業で習ったドイツ語を実践するために、なるべく人と会話をしようと心掛けて旅しました。 たくさんの人と交流し、助けられながら、計20日間の滞在が終了です。

今回の滞在で、ドイツの文化や価値観に触れた事により、自分の考え方が変わる良い影響を受けました。 特に、サービスを受ける側、提供する側の意識についてや、自分の意見を主張する事の大切さを学びました。 この20日間で収穫した事を、今後の自分の生き方に生かそうと思います。


槙 卓氏講演「歴史に埋もれた人々」
 −私の親族との関係から探る− を聞いて

会員 笹 信夫

1. はじめに

先生は多くの実話のうち四つの話を紹介した。
(1) 幕末:勝海舟と石川千代松
慶応4年江戸無血開城の際に、旗本石川潮叟、千代松の父子は板橋の官軍屋敷で談判し、 無血開城を実現させた。「西郷と勝」のみによって果たされたのではない。 後に千代松は東大で動物学を学び、モース(米)の影響を受け進化論を紹介。 ドイツ留学後東大教授となり、動物園の設立にも努めた。 (上野動物園のキリンはその提案による。)

(2) 明治:福沢諭吉と槙久馬八
槙家は新潟長岡藩の士族である。 長岡藩は幕末戊辰戦争では新政府と旧幕府の間で中立であったが、奥羽列藩同盟に加入し、 北越戊辰戦争で敗れ会津に向かう。
重傷の久馬八は慶応義塾に戻り塾の発展に尽力する。 −福沢諭吉は戦争が”キライ“であった。 (因みに欧米歴訪から戻った福沢は、長岡城落城の年に既設の蘭学塾を慶応義塾に改称している。)

(3) 大正:アインシュタインと石原 純
石原は東大卒後東北大助教授に招かれ、ヨーロッパに留学し、アインシュタインと共に学ぶ。 日本に相対理論を紹介し、アインシュタインの来日(大11)を実現させた。 (先生は石原訳のアインシュタイン全集第1巻を持参、貴重な蔵書を披露した。)

(4) 昭和:2.26事件と野中四郎陸軍大尉
蹶起将校の1人であったが余り自己主張のない人であった。 部下に「殺傷せず」を訓示し、野中隊が攻撃目標とした警視庁は無血占拠であった。 事件後真先に拳銃自殺をする。尚、弟・海軍大佐は、後年神風特攻隊を率いて戦死する(昭20)。
特攻機「桜花」は粗末な人間爆弾であった。

2. 所感

(1) 「歴史は人がつくるもの」と言うが、ここで紹介された人々は、 明治と昭和の2つの維新の縦糸あるいは横糸となって歴史を紡いだ群像である。 先生は「歴史に埋もれた…」と謙遜なさるがそうではなく、錚々たる家系の方々である。 しかも海外留学をしていろいろなジャンルで足跡を残していることに改めて驚嘆した。

(2) 槙有恒氏について触れたい。私の思いである。槙武の次男として(明27)仙台で生まれ、 仙台二中(旧制)から慶応に進む。アルピニストとして海外でも著名である。 山岳界の大立者であるが、(昭31)の「ヒマラヤの未登峰、マナスル登頂」の成功は山岳史上特筆に値する。
文化功労者、仙台市名誉市民。

(3)敗走の人々 ― 明治維新は東北の敗北史
北越戊辰戦争に敗れた長岡藩の家臣団やその家族は、向かった会津も落城し更に東に落ちのびた。 酸鼻を極めた旅であった。私の眼にはこの遁走譜と会津白虎隊の自刃が二重になって映る。 私は仙台の高校の時「白虎隊の生き残り」のことを聞いた。 長岡の人々が喘ぎながら会津を過ぎる頃白虎隊の最年少の飯沼定吉は刀で喉を突いたが死に切れずにいた。 (氏は後日仙台で然るべき要職に在ったと言う。) 戊辰戦争の悲劇は伏流水となって東北の人々の心の奥を流れ続けたのである。

(4) 温故知新
明治維新は、日本に西洋的社会変革を成功させたとして評価される。 一方,天皇を中心とし、政・官・財界の幹部を排除し、時代の閉塞感の打破を図った昭和維新は失敗した。 槙先生を囲んで現代史の実相や変革の構造を引き続記語り合う日を期待している。

       
講演する槙氏             笹 信夫氏



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