会員掲示板

Back Number - これまでの寄稿など
(2021年度)

これまで、ホームページに掲載した、当協会の開催イベントの様子、協会会員からの寄稿を、 ここに掲載しています

 【2021年度】
  日独交流の今後を考える (大久保 明)
  兼松藍子氏講演「浮世絵を楽しむための基礎知識」を聴いて (島 新)
  「見て聴いて楽しむ音楽史」を聴いて私も楽しむ (川上 久美子)
  ブラームスと箏の調べ (小野 宏子)
  SWZ (Singen wir zusammen!) 再開!いつからでもご参加出来ます (木原 健次郎)

  会長就任挨拶並びに私とドイツとの関わり (大久保 明)
  「秋のミニコンサート」を聴く (舩木 健)
  秋のミニコンサート♪ (内海 祥子)
  「見て聴いて楽しむ音楽史」を楽しむ (中沢 夏樹)
  高橋愉紀さんの講演会 (川久保 純子)

  秋のミニ・コンサート10月2日(土) 盛会のうちに無事終了
  ドイツの外交政策 2019年実施のアンケート調査結果(その2) (田中 満穂)
  見て聴いて楽しむ音楽史 第1回, 第2回に参加して (野秋 知江)

  ご挨拶 / 随想 数と性とドイツ語(松野 義明)
  3月例会「律令制と女性官僚」に参加して (中沢 夏樹)
  4月例会 ―『私の短歌生活』に思う― (中村 茂子)
  ドイツ 野鳥の思い出 (島 新)

  ご挨拶 / ガウス・デンクマール訪問記(松野 義明)
   2021年度の活動計画(勝亦 正安)
  盲導犬育成ボランティア (田中 幹夫)
  アドミラル山梨の軌跡 (藤野 満)
  ドイツの外交政策 (田中 満穂)
  西洋音楽における言語訳の重要性と演奏について(その2) (高橋 愉紀)


過去の情報は、
2020年度の情報2019年の情報2018年の情報2017〜2018年3月の寄稿以前のイベント情報
からご覧頂けます


日独交流の今後を考える     

湘南日独協会 会長 大久保 明

日独交流160周年が新型コロナの影響で、 日独共に残念ながら少々盛り上がりに欠けているなか、 11月例会では西山忠壬氏(当協会顧問)を迎え講演会を開催しました。 氏は私が日頃日独協会の活動の中で親しくさせて頂いている尊敬する先輩ですので、 西山さんと呼ばせていただきます。

西山さんの母方の祖父は、 旧制三高でドイツ語を教えておられたドイツ人です。 西山さんはドイツとの産業機械・資材を取引している会社の経営に携わる一方、 日独協会の活動に長く深く関与し、 その傍ら数々のボランティア活動をしておられます。 その縁で、若くして亡くなられた髭の殿下で人気のあった三笠宮様とも親しく、 清水寺管主ともご厚誼があり、 日本酒の会である酒道連盟でも重きをなすなどの方ですが、 日頃湘南日独協会の例会などでお会いすると、 常に笑顔を絶やさないダジャレのお好きな紳士です。 この紳士の謎を解こうと、講師との対談形式を取り入れての講演をお願いしました。 90歳を越えられたにも拘わらず、記憶力衰えず、約90分を休憩も無し水も飲まれず、 質問にもお答えいただきました。

西山さんの母上はドイツ人の祖父と日本人の母との間に生まれ、 丙午生まれの為、養女として千葉県で育ち、山口県出身の父上と結婚し、 西山さんが生れた、それも午年であった。 父の故郷である山口県下関で育ったが少年期は茅ヶ崎に住み、 ロシア生まれのドイツ人の音楽家で戦後活躍する日本人音楽家を育てた、 レオニード・クロイツァー氏宅に身を寄せていた時期もある。 クロイツァー氏は戦後活躍する多くの日本人音楽家を育てた方であり、 有名なピアニストの走り使いをしたこともある。 大学卒業後は母上の弟の会社「K・ブラッシュ商会」へ入社の運びとなる。 仕事は主にドイツからの産業機械の輸入で、 研修も兼ねヘキストの子会社へ1年半余滞在の経験もある。

会社の経営と同時に日独協会の活動に、 日本在住のドイツ人と共に参加され、日独協会(東京)の役員として活動され、 ブラッシュさんの「禅」の研究や遺された多くの文化財の コレクションの管理などにも尽力されています。 長年日独間を越えての各種の活動をされて、 90歳を越えた今日湘南日独協会の顧問として運営にも積極的なご支援を頂いております。

日独交流が160年前に始まって以来、 日本とドイツとの関係は着実に強く太く発展してきました。 ドイツは日本にとって世界への窓口の一つとして その大きな役割を果たしてくれました。 従って、産業・文化の交流も盛んでした。 私たちは長年ドイツ人の考え方は日本人とよく似ている、 などと特別の友人のごとく思っていました。 日本にとってドイツは地理的には大変遠方に位置する国でありながら、 隣国のような存在でありました。 しかし、欧州ではEUが発足し、ドイツはその有力な構成国の一つとなり、 日本もアジアの近隣国の台頭により、往時の勢いはありません。 世界はまさに流動的です。このような情勢の中での民間外交は大きな役割を担っていると思います。

西山さんのお話を聞きながら、 日独の多くの諸先輩方が残された日独交流の絆が細く弱くならないように努めたいと思いました。



左の写真は、西山さんと清水寺の管主より頂いた水墨画です。




兼松藍子氏講演
  「浮世絵を楽しむための基礎知識」を聴いて

会員 島 新

2022年1月23日(日)、湘南日独協会主催の例会で、講演会「浮世絵を楽しむための基礎知識」を聴いた。 講師の兼松藍子氏は、早稲田大学大学院を修了され、 現在は公益財団法人大谷美術館の学芸員を務められている。 レジメと画像で説明をされ、非常に分かりやすかった。ここに全ての画像を再現できないのが残念だが、 主に興味を引いた内容は以下のとおりである。


会場の様子

1. 戦国時代以前は、仏教の来世を重んじる思想より、現世=憂き世という考えが主流であった。 これが、江戸時代の1680年代以降になると、 現世=浮世=「生きているこの時代を楽しむ」という考えが主流となり、 「楽しい現世の様子を描いた絵」→浮世絵となったと考えられている。

2. 浮世絵発展の流れを見ると、1670年代に浮世絵が生まれ、 この頃は墨一色のみの「墨摺絵」であった。 これが、筆による着色が始まり、次第に多色刷が可能になり、 錦絵が生まれる。紙の位置決めをする「見当」という版木の構造の改良により、 より精巧な多色刷りが可能となったからである。
 1770年代以降になると、浮世絵の発展期を迎え、似顔画などが発展し、 さらに浮世絵の隆盛期を迎える。有名な写楽の役者絵や、 喜多川歌麿の美人画などは、この頃のものである。
 1800年代に入り、歌川派が隆盛を極めてくる。幕末期に向かい、 浮世絵の爛熟期となり、彫り、摺りの技術は頂点になる。
 明治以降になると、化学合成された染料が使われるようになり、より鮮やかな色彩が可能となった。

3. 浮世絵は、一人の絵師だけで作られるのでなく、版元、絵師、彫師、摺師というプロ集団による一大分業、 共同制作体制で作られ販売された。
 版木には、山桜の木がつかわれた。硬いので、繊細な線を彫ることが出来、 摺りを重ねても耐久性があるからだ。 ちなみに、彫師は、1mm幅の中に、4本の線を摺り込むための凹凸を彫り込むことができた。 これで、女性の髪の毛の一本一本が等間隔で摺り出された美人画が可能となっている。

4. 絵師は権力者や富裕な町人によって庇護されていたが、 浮世絵は、庶民によって支えられた。浮世絵の価格はピンキリで、一般的には大判浮世絵一枚が、 かけそば一杯分、16文より少しする程度であった。

5. 19世紀頃、日本文化がヨーロッパにおいて流行し、特に浮世絵は、印象派に大きな影響を与えた。

浮世絵と藤沢、江ノ島
藤沢宿、遊行寺、江ノ島などを題材にした浮世絵は多い。 なかでも世界的に有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」がある。 辻堂駅を降りてすぐのところに、「藤沢浮世絵館」が開館され、藤沢、江の島にかかわる浮世絵が沢山楽しめるとのことである。

今回の講演を聴いて、昔ボストン美術館で初めて大量の浮世絵を見た時の感動や、ロンドンで、 「Floating World」の看板を見て入ったら、浮世絵コレクションの大展覧会であった事などを懐かしく思い出した。

本日の講演をもっと昔に聴いていたら、浮世絵や、印象派の絵をもっとよく楽しめたのだろうにと思った。


葛飾北斎 「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」


「見て聴いて楽しむ音楽史」を聴いて私も楽しむ

川上 久美子


随分昔(2006)の講師(左)と筆者(右)

古楽器の音楽

前半は、弦、木管、金管の各古楽器のご説明をお聞きしました。 それぞれの楽器の新旧の比較も実際の音源を使ってご説明受けました。 私は中でもオーボエの古楽器Wiener Oboeの音色に魅せられました。

後半は、Monteverdi 作曲のVespro della Beata Vergineを鑑賞しました。 この曲の出版時期は、日本では江戸時代の始め、 林羅山や織田有楽斎が文化を担っていた頃です。 この曲の先唱を聴いた時は、同じ高音が続くパートが長く、 それよりは音程が低いのですが、仏教の声明(しょうみょう)を

聴いたときのことを思い出しました。 ヴェネツィアのサンマルコ寺院の楽長だったMonteverdiの、 かの広大な寺院空間で演奏するための複合唱形式のこの曲を私は初めて聴きましたが、 テノール独唱のあとから、歌詞の韻を踏んでエコーが歌うおもしろさにすっかり魅了されました。 歌詞は、ラテン語。実は私の夢は語学の達人になることでした。学生時代から数年は、 ドイツ語を学びましたが、社会人として仕事に没頭し中断、 退職後にようやくイタリア語とスペイン語を勉強中です。 この日のラテン語歌詞をみて、イタリア語の元だということがよくわかりました。 また、楽曲の中で大型のリュート奏者が複数登場しましたが、 楽器の長い弦は一定音しか用意できないので、他の音程を要求されるときには、 各音程に合わせた数の楽器と奏者が必要とのこと、興味深いことでした。

高橋講師が、この曲の古い輸入盤の楽譜を持参されましたが、 彼が社会人となりたての頃に大枚をはたいて購入されたものだそうです。 彼の深い音楽愛の表れの一つと思いました。

Mozartの歌劇

冒頭、舞台上で声楽を使う音楽の分類をお聞きし、 これまでは一口に「歌劇」と括っておりましたが、数種類に分けられることを知りました。 Mozartは、その種の音楽を21曲残しており、今回はドイツ語の歌芝居と分類されるZAIDE、 及び歌劇「魔笛」の一部を、さらに、実際には3時間余りに及ぶ「フィガロの結婚」を、 1時間弱にまとめて画面を観ながらお話くださいました。 今回はミラノ・スカラ座での録画で、高橋講師のご説明どおり、 ユニークな演出が随所にみてとれました。舞台装置は簡略化され、 伯爵邸の庭で人々が集う場面では、事務用のスチール製折りたたみ椅子がセットされ、 登場人物の激しい動きにより、倒れたら大きな音がしそうだと気が気ではありませんでした。 また、効果音を出す時に、わざわざ所謂黒子(今回は白い服を着用)が登場したり、 と、これまで抱いていた歌劇とは、ひと味もふた味も違うものでした。 歌い手の素晴らしい声、演技に加えて、興味深い作品を観ることが出来ました。


会場の様子

劇中の独唱曲「この悩みは」は、高校時代の音楽の授業で習いましたので、 思わず口ずさみたくなりました。 帰宅後、教科書では唯一手元に残した「音楽」を開いてみました。 すでに頁は茶色に変色していますが、今でも様々な楽譜、 音楽史と理論は、当時の書き込みと共に楽しいです。早速、曲を見つけ、 歌詞はイタリア語で書かれており、その下に和訳も表記されていたのは、驚きでした。 しかも、イタリア語の特別な発音の下に、カタカナで読み方を鉛筆で自分で加筆していました。

毎回、高橋講師のお話は音楽への情熱が聞き手の私にも伝わり、 本当に興味深く豊かな時間となっております。感謝と共に、これからも楽しみにしております。


ブラームスと箏の調べ

会員 小野 宏子

会報で連載されている高橋善彦氏の「クラシック音楽の楽しみ方」 を拝読するのを楽しみにしている私ですが、 先日会員の方から好きな作曲家にまつわるエッセイを書いてみてはと声を掛けられました。 専門的な事は高橋氏にお任せすることにして、私が大好きなブラームスに関する思いを寄稿させていただく事にしました。

それは私が二十歳前後の頃に遡ります。 当時ドイツ留学から帰国したばかりの声楽家で奥田智恵子氏のレッスンを受けた頃に始まりました。 それを切っ掛けにドイツロマン派の作曲家たちの作品を多く歌い、聴くようになり、 その中でもとりわけブラームスの作品に心を惹かれ関心が高まっていきました。 ある時期は「ブラームス協会」に入会し諸先生方から多くのことを学びました。 彼の容姿は写真に残るそのままですが、彼はどんな声だったのだろうか?等々興味は尽きませんでした。

紙面が限られているので、ここで本題のブラームスが日本民謡とどのように係ったのかを綴ってみたいと思います。

今から十五年以上も前のことになりますが、当時サントリーホール(小)でブラームス関連の展覧会が 開催されました。それはウィーン楽友協会アルヒーフで開催された 展覧会と同じテーマのものでした。早速足を運びました。 まず目に飛び込んできたのはブラームスが箏の演奏を聴いている様子を描いた大きな屏風絵でした。



描いた画家は大垣出身の日本画家守屋多々志(1912-2003)でした。 勿論それは図版のパネルであることは理解しましたが、 それを見た時の私の驚きと感動は例えようのないものでした。 箏を奏している婦人は後ろ姿でしたが「なんと背中の美しい人なのだろう!!」 奏している人物は一体誰なのか、日本人であることは必然としても諸々興味はつきません。 それにしてもブラームスがペンを片手に譜面を見ている・・・箏に五線譜があろう筈もなく、 のめり込んで調べているうちに色々明らかになってきました。 まずは箏を奏でる人の名前は戸田極子(父は岩倉具視)、 つまり大垣藩主である戸田氏共に嫁ぎ、後に特命全権公使としてウィーンに 滞在した夫と共に外交の発展に力を尽くした女性であることが分かりました。 夫妻は公使館でしばしばパーティーを催し、箏の達人であった極子が演奏を披露していたようです。


ブラ−ムスの書き込みのある六段(Rokudan)の楽譜
[ウィーン楽友協会所蔵]

戸田家には音楽教師として係ったピアニストで作曲家でもあった ハインリヒ・フォン・ボクレットによって箏の演奏は五線譜に採譜され「六段の調べ」を含め5曲まとめ 「Japanische Volksmusik」(日本民謡集)というタイトルで出版されました。 ブラームスも献本を受けた一人でしたが「戸田公使夫人の箏の演奏を聴きたい」という ブラームスの所望を叶えるべく、ボクレットは彼を伴い、 公使館での極子の演奏を聴く機会を得るようにしました。まさにこの屏風絵です。 ブラームスは譜面を眺めながら書き込みをしているのは「六段の調べ」のようです。 どうやらボクレットの採譜の誤りを直している様子がうかがえて興味をそそります。 これらのエピソードは、後に当時の大垣市長からの依頼で守屋多々志画伯が1992年にこの屏風絵を描きました。


戸田 極子
1890年(明治23)


ブラームスが存命中に実際に日本民謡集が出版され、 彼が手に取っていたことなど想像するだけでわくわくします。 そして、より彼を身近に感じられてきます。 屏風絵は大垣市守屋多々志美術館に収蔵されていますが私はまだ訪ねたことがなく、 これまでに屏風絵の展示期間に出かけるチャンスを失ったままなので、 コロナ禍が収束したら是非訪れてみたいと思っています。 美術館の所蔵品は作品保護のため常設展示はしていないので屏風絵の展示日時などは 美術館に問い合わせる必要があります。ご興味のある方は是非訪ねてみることをお勧めします。
 参考文献:
  「ウィーンに六段の調べ」萩谷由喜子 中央公論新社

 上の写真:小野 宏子氏
 バーデンバーデンの郊外リヒテンタールにある、ブラームスが通った食事処のスタムティシュにて


SWZ (Singen wir zusammen!) 再開!
  いつからでもご参加出来ます

会員 木原 健次郎

SWZでは、ドイツ語歌詞を解釈し歌うだけではなく、 その歌にまつわる物語・episodeなどを出来るだけ紹介しております。 歌うのは不得手と仰る方でも楽しめますので、是非お気軽にご参加下さい。 (お申込みは会報同封の申込み用紙(出席表)又はHPから)。
以下は1月SWZでご紹介した “Es waren zwei Königskinder”の例です:
  Es waren zwei Königskinder,
  die hatten einander so lieb.
  Sie konnten zusammen nicht kommen,
  das Wasser war viel zu tief,

  O, Liebster, könntest du schwimmen?
  So schwimm doch heruber zu mir!
  Drei Kerzen will ich anzünden,
  und die sollen leuchten dir,

この歌は、"Wunderhorn"(ドイツ民謡詩集・少年の魔法の角笛)(1804-1808)に収められている歌ですが、 そのもとは、古代ギリシャ伝説を素材に、帝政期ローマの詩人Ovid(Ovidius)が作品化し、 更にギリシャの詩人Musaiosが5世紀に "Hero und Leander" という名のVolksballade(物語詩)にした事が起源のようです。
そのストーリーは;
時代は明確ではないがギリシャ時代(紀元前)。 場所はへレスポント(小アジアとガリポリ半島の間のダーダネルス海峡)。

深い海 (Dardanelles海峡) を隔てて2つの城が建っていた。Sestosの城に住む、アフロディーテの巫女Hero(王女)と、 対岸のAbydosの城に住むLeander(王子)は、手紙をやりとりし、 恋に落ちる。LeanderはHeroに会うため海を泳いで渡ろうとし、 Heroは、方向を見失わないようにと灯を灯す。 親は二人の仲を認めない。

ある日の夕方、Leanderが泳いでくるが、不実な修道女が灯を消し、 Leanderは溺れる。親が祭礼に出かけたすきにHeroは浜へ。 漁師に自分の冠と指輪を差し出し、若者を引き揚げるよう頼む。 何度も網が打たれ、ついに溺れ死んだ若者が引き揚げられ、彼女は身を投げ自殺する。

Dardanelles海峡のこのあたりは特に狭く、黒海からエーゲ海への潮の流れの速い場所で、昔から水難事故が多かったのでしょう。

19世紀以来有名になったこの曲はドイツ語だけでなく、 欧州各国語で歌われており、又、文学作品も多く派生し、 ストーリーも色々なvariationがあるようですが、上記が一般的なストーリーのようです。



SWZでは出来るだけその時期・季節に合った曲を毎回4曲程、選んでご紹介し、歌っています。 参加申込をされた方には事前に歌詞を送付しています。 因みに月別の実績・現時点での予定は以下の通りです。お気軽にお申込み下さい。

1月:"Sehnsucht nach dem Frühling"
   "Es waren zwei Königskinder"
   "Patrona Bavariae"
   "Herz-Schmerz-Polka"
2月:"Freut euch des Lebens"
   "Der treue Husar"
   "Mein Herz, das ist ein Bienenhaus"
   "Kornblumenblau"
   "Rheinische Lieder"
3月:"Der Winter ist vergangen"
   "Der Mai ist gekommen"
   "Nun will der Lenz uns grüßen"
   "Das zerbrochene Ringlein"
                               (SWZ:木原)


会長就任挨拶並びに私とドイツとの関わり

               

湘南日独協会 会長 大久保 明

松野義明会長の突然のご逝去により、9月26日の第198回理事会議決を以って第4代会長に就任いたしました。 湘南日独協会へは設立時に入会、会報Der Wind の名付け親になっています。 また会報の編集に関しては2010年3月発行通巻第68号から編集に携わっております。

松野会長のご逝去は私たち役員一同にとって予想しないことであり、 協議の結果私が後任となった次第です。 当面、新しい体制を確かなるものとするように努めることと致しますので、 会員の皆様のご支援ご協力を心よりお願い申し上げます。

私とドイツの関りは、1965年の大学卒業を前にして、商社への就職を望んでいたが、 時期的に金融機関からの募集がその前にあり、 就職試験とはどのようなものか一度経験して見ようと受けたところ、 採用が決まり断れないまま、銀行員となった。大阪の郊外店舗勤務、 3年ほどで市内店舗へ、そこで外国為替係を3年経験、外国部へ、 ドイツ語の初歩の研修を受け,1974年1月、支店開設要員としてドイツへ赴任、 それがドイツとの直接的関係の始まりとなった。

当時日本の経済成長は世界をリードする状況にあり、 日本企業の海外進出は非常に目覚ましいものがあり、金融機関も、支店あるいは現地法人、 合弁と各種の形態で海外へ活動を広げていた。 日本企業はドイツにおいてもそれまで商社や各種メーカーが主にデュセルドルフや ハンブルクに拠点を持っていたが、金融機関ははフランクフルトが中心となり、 私はフランクフルトに住むことになった。

モスクワ経由でフランクフルト空港へ着いたのが真冬の夕方、 予想したより寂しげな街であった。私の役は主に現地雇用者(日本人、ドイツ人) と事務対応をすることにあり、日本の本部と間に立つことであった。 従って彼ら現地社員との接触が支店の中で一番多い部署だった。 このことは日常生活の会話の習得には大変有効であったと思う。

私の家族は第2子の娘が赴任後の5月に誕生し、翌年3月に親子三人がフランクフルトへ到着、 1979年6月に東京へ転勤するまで、私たち4人は一度も帰国することなくドイツで生活をした。 その間多くのドイツ人が常に好意を以って接してくれたことに感謝している。 特にどこへ行っても子供たちに対して非常に暖かく接してくれた老人たちの好意は忘れがたいものであった。 そこで帰国後は日独協会の活動に参加し、 日本に住むドイツ人特に老後を日本で過ごしている方々へ少しでも恩返しが出来ることをと考えた。

日本へ帰国して3年、突然再度のフランクフルト勤務へ、1982年11月から1986年3月帰国、 その間主に所謂現地化を進めた。現地の事情に明るいと思われた。 この時も家族同伴であり、生活は結構楽しむことが出来た。

これで、ドイツ勤務は終わりと思っていたが、金融界も大きく変わり、銀行と証券の垣根が低くなり、 銀行も特に海外での証券業務が拡大、ドイツに現地法人を設立する動きが始まり、 思いがけず急遽三度目のドイツ赴任を命ぜられた。 1989年2月に赴任し帰国したのは1993年4月であった。 最初の赴任から最終の帰国までの約20年の間に約13年ドイツで暮らしたことになる。


「秋のミニコンサート」を聴く

会員 舩木 健


舩木 健 氏

10月2日(土)当協会主催の上記コンサートを聴きに出掛けた。 会場は藤沢市民会館の第1集会展示ホール、14時開演であった。 コロナヴィールス禍に対する「宣言」は9月末を以て解除されたものの 参加者は50名に限定された。 このコンサートは、会に多大な貢献をされた松野義明会長が去る8月17日に逝去されたが、 その大御所を偲ぶ会を兼ねていて舞台の手前にはご遺影が飾られていた。

コンサートはまず高橋愉紀さんによるバッハのしんみりしたピアノ曲演奏から始められた。 司会進行は高橋善彦さん。そのあとは一転楽しい音楽会に移った。 プログラムと演奏者の方々は次の通り。(以下敬称略)


会場内の松野会長の遺影

1.アルプホルン 鬼久保洋治
2.アルプス音楽 エーデルワイス・トリオ
3.ピアノ独奏 内海祥子
   バッハとブラームスのピアノ曲
4.ピアノ独奏 高橋愉紀 リストのピアノ曲2曲
5.混声合唱 混声合唱団アムゼル 指揮:梶井 智子
   シューベルトとメンデルスゾーンの合唱曲
6.古楽器演奏 中国渡来の21弦琴 伊藤志津子
7.古楽器演奏 プサルタリー
  (別称三角ヴァイオリン) 鬼久保洋治
8.アルプス音楽 前述のトリオが再出演


エーデルワイス トリオの演奏


梶井智子さんの指揮、アムゼル混声合唱の演奏

    
           伊藤さんの古筝演奏           鬼久保さんのプサルタリーのデモ

以上のように、なかなか普通のコンサートではめったに聴けない楽器演奏を含む多彩な音楽を堪能することができた。 特に印象に残ったのは古楽器演奏で、静謐な音楽の流れは初めての経験でなかなかよかった。 楽器演奏と合唱などが終った後、松野会長令夫人がご挨拶に立たれ、長年付き添った思い出話と謝辞を述べられた。 最後に、このように素晴らしい音楽会を企画運営された皆様とご出演の皆様に心からお礼を申し上げます。


秋のミニコンサート♪

会員 内海 祥子

台風の去った翌日、気持ちのよい青空の中で「秋のミニコンサート」が開催されました。

今回のコンサートは、コロナ禍での音楽家を支援できたらという主旨で開催するというお誘いを受け、 日ごろお世話になっている湘南日独協会や合唱団アムゼルの皆様の前で演奏させていただけるということに、 大変ありがたい機会だと思い、出演させていただくこととなりました。


内海 祥子さんのPiano演奏

今回、私はJ.S.Bach「パルティータ第1番」とJ.Brahms「間奏曲Op.118-2」を演奏いたしました。 私の演奏前に、お馴染みのエーデルワイストリオさんが演奏され、 ドイツの陽気な音楽で会場が瞬時に温まったのですが、 そこから突然シンプルな音楽のバッハを演奏することに少し戸惑いました。 ですが、一瞬にして客席の空間がクラシックコンサートのようにシュッと引き締まり、 聴いてくださる環境に変わったのだとわかってから、私自身、 集中力が高まり、緊張感はありつつも演奏する楽しさを実感することができました。 そして、2曲目のブラームスは、コロナ禍でストレスを感じる日々の中で、 少しでもホッとできる時間を提供できたらと思い演奏いたしました。 演奏後のたくさんの拍手、そして、すぐに直接感想をいただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


高橋 愉紀さんのPiano演奏

また、このコンサートでは、本番前ソワソワしていた私に高橋愉紀さんが優しく声をかけてくださり、 司会の高橋善彦さんにも作品に関してのアドバイスや、専門的な知識を教えていただきました。 そういった交流ができたことも、とても素敵な場であったと思いますし、ありがたかったです。

とはいえ、全体を通してとても中身の濃い演奏会で、久しぶりに合唱団アムゼルの歌声も披露でき、又、 普段お目にかからない楽器を間近に拝見し、音に耳を傾け、最後まで贅沢な時間を過ごすことができました。 皆様ありがとうございました。

◎秋のミニコンサートの写真は、会員の峯松 英資氏より提供頂いて掲載しています。 


「見て聴いて楽しむ音楽史」を楽しむ

会員 中沢 夏樹


高橋 善彦氏    中沢 夏樹氏

「風は見えなくても風車は回っている。音楽は見えなくても心に響いてくる、囁きかける」
これはヨハン・セバスチャン・バッハの言葉である。 コロナ禍で在宅を余儀なくされる時間が増えた昨今、改めてそうだなとうなずける。 考えてみれば人間五官のうち聴覚だけを通してこれだけの感動が得られるのは音楽をおいて他にない。 特にクラシック音楽についてみれば、 およそ200年以上前に作られた作品が輝きを持ち続け一向に色褪せないというのも何とも不思議なことだ。

そんな音楽史を学ぶ格好の場として、高橋善彦氏による標記シリーズの講演が続いている。 私はこれまでベートーベンの回2回とバッハの回に参加させて頂いた。 毎回20ページもある詳細なテキストが配られて恐縮する。 私のような素人には理解不能な部分も多いが、 保存版として将来何らかの役にたつこともあるだろう。 講演の半分以上は演奏場面を見ながら名曲を聴く。 途中で「ここから曲の調子が変わります」とか「これは名演ですね」など氏の解説が入るのも楽しい。 ベートーベンの「田園」を聞いた際は、 画面に「再現部です」とか「雷が遠ざかります」など詳細な説明字幕が入り、 実によく理解できた。コロナ禍でコンサートにも久しく行っていないが、 狭い部屋であっても音楽への没入感が味わえるのはうれしいことだ。

氏は会報「Der Wind」に「クラシック音楽の楽しみ方」を連載されている。 そこには、1964年東京オリンピックの開会式ファンファーレをきっかけとして音楽にのめり込んだ、 と書かれている。私も同様の感動を受け、 古関裕而のオリンピックマーチと共に今でも鮮明に耳朶に残っている。 (経緯は忘れたが何故かチケットが手に入り、高校生の私は聖火台横のブロックに座っていた) 今回のオリンピックでも、閉会式で懐かしいオリンピックマーチが流れてきてまた思い出が蘇った。 原体験は同じとはいえ、当方は一介のサラリーマンで終わったのに対し、 氏は音楽の道を探求し実践し、別に本業をこなしつつプロ顔負けの音楽活動を続けておられる。 そんな氏から音楽の知識や楽しみ方を伝授頂けるとは有り難い限り、よきご縁に感謝したい。

なお、この音楽史講座はネタがつきるまでまだまだ続くとのこと、是非皆様もご参加ください。


高橋愉紀さんの講演会

会員 川久保 純子

10月31日(日)、ピアニスト高橋愉紀さんのミニコンサート付き講演会に参加しました。 この会は7月に予定されていましたが、コロナ禍で延期になっていて、ずっと「いつかな?いつかな?」と待っていました。

今回のテーマは「私の音楽修行について…東洋人が西洋音楽をするという事」。 愉紀さんの30年に渡るウィーン生活と、その後のドイツ生活から得た『気づき』を興味深く聞きました。

川久保 純子氏

レッスン形態の違い、子供の教育システムの違い。そして何よりもコミュニケーションが大切で曖昧な返事はダメ。 こちらの主張をきちんと伝えるという事。

ドイツで、上階の住人とのピアノの音トラブルのエピソードは「さすが!お互いに思っている事をしっかり口に出すのね」 と国民性の違いを感じました。 以前、愉紀さんが「日本にいた頃はもっとお淑やかだったけれど、向こうに行って気が強くなった」と仰っていましたが、 妙に納得しました。


自作のシールドを使い講演中の高橋愉紀さん

「留学するという事は、レッスンのみでなく文化を広げる作業」という言葉に深く共感しました。 お話の合間には6曲ほど、バッハやモーツァルト、ショパン、ビートルズの曲が演奏されました。 会場はピアノではなく電子ピアノ。この2つは名前こそ似ているけれど全く別の楽器なので、 タッチや表現にご苦労があったと思いますが、 電子ピアノの『色々な楽器の音色を出せる』機能を使って、オルガンやチェンバロ、 合唱、ビブラフォン等の音色で各々の曲を弾いて下さり、楽しめました。

真正面から演奏者の指の動きが見えるというシチュエーションも滅多にないので新鮮でした。 事実は小説よりも奇なり…という様なたくさんのエピソードに笑ったり驚いたり。 ウイットに富んだ内容の濃い講演会で、アッという間の2時間でした。

アンコールは、シューマンのトロイメライ。 皆様は、青春時代にどんな夢を見られていたのでしょうか・・・


満員御礼の会場


秋のミニ・コンサート 10月2日(土) 開催  盛会のうちに無事終了

緊急事態宣言が終了していることを前提にして、ミニ・コンサートの開催を計画しています

日時 : 10月2日(土) 14:00〜 (開場 13:30)
会費 : 2,000円 申し込み(予約)の上、当日お払いください
会場 : 藤沢市民会館 第1集会展示ホール
       通常150席の収容人数ですが、50席で開催します
       なお、飲食物の提供は有りません

演奏曲目と演奏の皆さん
アルプス音楽 エーデルワイス・トリオ
 Auf der Autobahn 
 Akkordeon Akkordeon
 Alphorn
 Oberkrainer Slivowitz
 Hofbraeuhause-Rosamunde


エーデルワイス・トリオ

Piano 内海 祥子
 J.S.Bach : パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825
 J.Brahms : 6つの小品から第2番 間奏曲
       イ長調 op.118-2


内海 祥子

Piano 高橋 愉紀
 F. Liszt : 愛の夢(Liebesträume)第3番 変イ長調
 F. Liszt : リゴレット・パラフレーズ
         (Rigoletto Paraphrase)


高橋 愉紀

湘南日独協会混声合唱団アムゼル (指揮)梶井 智子
 F. Schubert / F. Krummacher : Die Nacht(夜)
 F. Schubert / L. Rellstab : Serenade(小夜曲)
 F. Mendelssohn / H. Heine :
  歌の翼に (Auf Flugeln des Gesanges)


梶井 智子

古楽器紹介

中国の21弦琴 伊藤 志津子
「漁舟唱晩」古曲 "帰去来辞" をもとにした筝の名曲
   日暮れの時、豊漁で家路につく水面の小舟を
   流麗な五音音階の旋律で表現しています
「建昌月」湖に映る月。雲間に見え隠れする月。
   美しい夜景の様子。

「古筝」は秦の時代から弾かれていた筝で「秦筝」とも呼ばれます。 二千数百年の歴史を持つ中国の古典楽器です。弦の数や筝の大きさ、名前は時代によって様々です。 近代になって「古筝」と呼ばれるようになり、弦数は21弦が主流になっています。




アルプホルンとブサルタリー 鬼久保 洋治

プサルタリー(psaltery)は、木箱に24本のピアノ線を張った楽器で、ギリシャ語では、プサルテリオン(psalterion)と呼ばれます。 元々は「指で弾く」というギリシャ語 Psallein から派生した言葉でハープを指しています。 その後、ハンマーで叩くダルシマー、Cembalo等の鍵盤楽器に派生して行きます。



ブサルタリー

ドイツの外交政策
ハンブルクケルバー財団が行った2019年実施のアンケート調査結果から一部報告(その2)

田中 満穂

前回21年3月14日発行のDer Windに寄せた報告の続きです。
2021年の今となっては世界情勢も大分変ってきている可能性がありますが、この調査結果は現在の傾向をも表しつつある気がしますのでご紹介します。

「ドイツは将来これらの国とは多かれ少なかれ一緒にやって行くべきか?」
  赤線2019年/黒線2018年調査結果
  フランス:77%/82%
  日本:69%/18年度結果なし
  ロシア:66%/69%
  中国:60%/67%
  英国:51%/55%
  USA:50%/41%


この結果はすでにドイツでも中国に対する一定の脅威の反映かと思わせます。

「多くの人がEUの統合が現在危険にさらされているとみているが、その責任は誰にあるか?」
  加盟国の大衆迎合的な政府:37%
  EUと大衆迎合的な政府の双方:9%
  EU自身:33%
  その他:13%
  分からない8%、無回答2% (複数回答許可?)



「EUはBrexit交渉でもっと英国に歩み寄るべきだったか?」
  むしろノー:29%
  全くもってノー:51%
  イエス、全くそうすべきだった:7%
  むしろそうすべきだった:8%
  分からない4%、無回答1%



「温暖化対策についてドイツはEUでは積極的に推進すべきか、逆にブレーキ役を演ずるべきか?」
  どちらもすべきでない:7%
  どちらもすべき:5%
  ブレーキ役になるべき:36%
  推進派になるべき:48%
  分からない3%、無回答1%

「ドイツの安全保障は現在、所謂、アメリカの核の傘に担保されている。ドイツは今後どうすべきか?」
  US核傘に将来も頼るべき:22%
  仏・英国の核防御に頼るべき:40%
  独自の核戦力開発を行うべき:7%
  核による安全保障は放棄すべき:31%
  分からない7%、無回答1% (複数回答許可?)



「防衛費についてどうすべきか?ドイツ側」
  赤線2019年/黒線2018年結果
  更に増やすべき:40%/43%
  減らすべき:15%/14%
  現在レベル維持:41%/40%
  分からない3%、無回答1%(2019年)
  分からない2%、無回答1%(2018年)


「同じ質問、アメリカ側」
  赤線2019年/黒線2018年
  更に増やすべき:35%/39%
  減らすべき:9%/11%
  現在のレベル維持:50%/46%
  分からない・無回答6%(2019年)
  分からない・無回答5%(2018年)


「35000人の兵力を有するドイツ国内にあるアメリカの基地は祖国の安全にとってどのくらい重要か?
ドイツ側」
  非常に重要:15%
  重要:37%
  それほど重要ではない:30%
  全く重要ではない:15%
  分からない3%(2019年)

「同じ質問、アメリカ側」
  非常に重要:56%
  重要:29%
  それほど重要ではない:8%
  全く重要ではない:5%
  分からない/無回答2%(2019年)

「ロシアについてドイツにとってより重要なことは?」
  上段2019年/下段2018年
  対米との緊密な関係:39%/38%
  米露同等の緊密関係:30%/20%
  ロシアとのより緊密な関係:25%/32%
  分からない5%、無回答1%(2019年)

「増大する中国の国際的影響をどう評価するか?」
  赤線2019年/黒線2018年
  積極評価する:9%/11%
  評価しない:46%/42%
  中間的意見:42%/46%
  分からない2%、無回答1%(2019年)
  分からない1%(2018年)

「強い経済的発展と専横的政治指導を伴う国家管理資本主義の中国国家モデルをどう評価するか?」
  むしろ評価しない:44%
  全く評価しない:43%
  非常に評価する:0%
  むしろ評価する:9%
  分からない3%、無回答1%(2019年)

「中国問題に関し、ドイツにとって何が重要か?」
  中国と緊密な関係を保つこと:24%
  米中双方と同等の関係を保つこと:18%
  米国と緊密な関係を持つこと:50%
  分からない6%、無回答2%(2019年)

2019年の調査ではありますが、この状況は現在ではさらに顕在化しているものと思われます。 対中国感については、日本に勝るとも劣らない経済関係を中国と築いて来ているドイツですが、 日本より案外客観的な、冷徹な見方をしているのではないかと感じました。


見て聴いて楽しむ音楽史 第1回, 第2回に参加して

会員 野秋 知江


ドイツのオペラハウスにて著者

新型コロナ感染症が、人々の行動を制限し、繋がりを分断しようとしている中、 湘南日独協会の新企画「見て聴いて楽しむ音楽史」は、どんなお話が聞けるのか、 楽しみに、その日の来るのを待ちました。

第一回 ベートーベン
ベートーベンの「運命」のメロディの如く、大きな衝撃と感動の講座となりました。

高橋先生は、音楽の歴史、形式、ベートーベンの音楽構造を冷静に説明される一方、 音楽への情熱、ベートーベンへの熱い想いを語られ、一気に引き込まれるものとなりました。
途中、10分の休憩が5分となり、短くした時間すら、お話は途切れず、結局、休みなし状態でした。

ベートーベンの凄さ その1 変奏の名手
変奏する為には「原型」(音楽では「モティフ」)が大切で、ベートーベンは、 それを極めて簡潔に作り、変奏して曲の至る所に散りばめ、完成している。 凡人が作ったら「しつこい」「飽きる」と言われそうですが、そこは、天才ベートーベン、 そうは言わせない。凄い!ベートーベン!!

ベートーベンの凄さ その2 和声の使い方
和声(ハーモニー)は、音楽に様々な表情を与える「縁の下の力持ち」 ここが、しっかりしていれば、メロディは、なんでも大丈夫だそうで、 和声の使い方には、強い執着が見られるそうです。 うわべだけで、ごまかされてはいけないらしい…気をつけます、ベートーベン様

ベートーベンの凄さ その3 管楽器を独立的に採用
ベートーベンと言えば「苦虫を噛み潰したような表情で寡黙な偏屈者」というイメージを持っていましたが、 意外にも多くの友人がいたようで、彼らから様々な情報や刺激を受けていたのだそうです。 ベートーベン本来の「新しもの好き」も重なり、彼の音楽は進化を遂げたようです。

巧みな弦楽器の使い方に加え、斬新に管楽器を取り入れ、 打楽器にまでメロディを奏でさせた…Super♥
ベートーベンがこのような事をするのを女神ミューズは知っていたのでしょうか?
ベートーベンの凄さを楽譜や演奏の様子をスクリーンで見て聴きながら、あっという間の2時間でした。

第二回 モーツァルト
モーツァルトの音楽の特徴は、透明感・均整・新鮮さで、簡潔な譜面で書かれているそうです。 どの名曲も、優美で繊細。聞いていると心地良い。気持ちが穏やかになり、ややもすると眠りの世界へ引き込まれる? 聞いた話ですが、モーツァルトの音楽を流して農作物を育て、良い収穫が得られたとか。 人間のみならず、植物にも良い影響を与えるモーツァルト。驚きです。 彼の作品は、長調が多く、聴衆の気持ちを明るくしてくれます。 「モーツァルトらしさ」は、長調の速い曲に現れ「聴くと直ぐに彼の音楽と判る」という体験を、 皆さん、お持ちなのではないでしょうか?

長調の作品の多い理由は「本人の好み」が最有力要因のようです。 もし、今、生きていらしたなら、お会いしたいです。宴となったら、いや、ならなくとも、楽しく盛り上がるのでしょうか? 彼は、バロック音楽の伝統を大切にした事、旅した各地の音楽様式から最適なものを簡潔に音楽にした事、 また、不協和音(半音階的和声)の曲も作った…など、普段、知り得ない興味深いお話が満載でした。

ところで、ある小学生に「モーツァルトとベートーベン、どっちが年上?」と質問してみると、 すかさず「モーツァルト!」と答えが返ってきました。 その答えの原因は、よく見かける“肖像画“にあるようでした。 少年のように若々しいモーツァルト、それに比して、口を一文字に眼光鋭いベートーベン。 小学生の答えは、ある意味、説得力は、あったのですが…


ご挨拶

      湘南日独協会会長 松野 義明

COVID-19の猛威は、変異株の脅威も加わり、依然として、収束の兆しを全く見せておりませんが、 皆様お元気でお過ごしのことと思います。 ワクチン接種に関しましては、他の国と比べますと、わが国は、何故か、 大幅に遅れているものの、このところやっと、 実施の兆しが見えて参ったことは喜ばしいことです。 また、色々機会を作って、皆様と御一緒にドイツビールで乾杯できる日が一日も早く到来することを心から祈っております。

随想 数と性とドイツ語
私の高校は、東京の昔の第九中学が戦後まもなく都立北園高校という 新しい名前で再出発した新制高校である。なぜか、英語のほかに、 第二語学としてフランス語やドイツ語の授業があり、 それぞれに専門の先生がおられ、生徒はどちらでも自由に選択受講することができた。 私は、躊躇うことなく、ドイツ語を受講した。 戦災を辛くも逃れた父の秘蔵のSPレコードの中にシューベルトの「冬の旅」があり、 ゲルハルト・ヒュッシュの美しいドイツ語にすっかり魅了されてしまったからである。

当時、私は戦後の傷跡が色濃く残る東京・文京区(当時の小石川区) の焼け跡に建てた粗末な家に住んでいたが、自宅から歩いて15分ほどのところに、 ドイツ人の牧師さんご夫妻のお宅があって、毎週水曜日の夕方、聖書をドイツ語で読む会を催しておられた。

高々数人の集まりではあったが、ドイツ語を習い始めの私も仲間に入れてもらった。 美しくて優しい奥様が、毎回必ずお手製のビスケットと紅茶を出してくださるので、 本当のことを言うと、聖書よりもそちらの方が目当てで、大学生になってからも毎週通っていた。

それから数年後に物理学の学徒として、ヴィーンに給費留学し、 給費期間が切れてからも、現地の原子力研究所に職を得て、しばらくの間、同国に滞在した。 数年後に帰国してからも仕事上、ドイツのカールスルーエ原子力研究所、オーストリアのヴィーンの国際原子力機関には 足しげく出張することになった。

たまたまとは言え、若いころから、私はこんなにドイツ語とは縁が深かったのに、 お恥ずかしいことに、現在でもなお、ドイツ語の数字を聞き取ることが大変苦手なのである。 ドイツの人と電話で話していて、例えば、 049-721-68-32-34をメモしなければならない事態をご想像頂きたい。 私はまず、極度に緊張する。最初の049はカントリー・コードで、 あらかじめ知っているので、問題はない。しかし、次がいけない。 721を700と1と20と三つに分け、さらに次を二桁ずつ早口で、 8と60、2と30、4と30と言われると私はドギマギして、もう、冷静ではいられなくなるのだ。 私は、物心ついてからずーっと、数字は、言葉で読み上げる順序に従って、 左から右へ向かって書くことに慣れている。だが、この時ばかりは、 「後から書く数字を何で先に言うんだよ!」と心の中で呪いの言葉を吐きながら、 私は数字を右から左に向かって書くのである。それでも、うまくいくとは限らない。 惨めな気分で何度も確認しなければならないのだ。

後から書く数字を先に読む習慣は、桁数の大きな数字を読む場合にも厳然と存在する。 例えば、54.321〔ちなみに、ドイツ語では、位取りの印は(.)で表し、小数点の印は (,) で表す。〕を読んでみよう。
 Vierundfunfzigtausenddreihundert‐einundzwanzig
(4と50)の千と(3)の百と1と20という具合になり、行きつ戻りつ…、なかなか忙しいのである。

21以上の二桁の数を読む時、1の位を先に、 10の位を後に読む習慣を持った言葉がドイツ語以外にあるだろうかと思って インターネットで調べてみた。およそ50言語を無作為抽出して調べた結果、 50言語のうち7言語(オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、 ルクセンブルク語、スロベニア語、アラビア語、ヒンディー語) がドイツ語式の数字の読み方であることがわかった。 このような数字の読み方は、上のデータからも、かなり珍しいことが分かるが、 各言語の使用人口を考慮に入れると、更に珍しさの度合いが増加することになるだろう。 このように稀少価値のある言語現象は、読むのに、かなりの、手間がかり、 聴きとるのに、高い熟練度を必要としたとしても、何となく愛おしく、大切に保存したいという気分になってきた。

ドイツ語の数の読み方は全世界的に見てもかなり希少な現象であることがお分かりいただけたと思うが、 序数(第1番目、第2番目、第3番目といった数)まで話を広げると、 ドイツ語の数の表現には、他の言語にはなかなか見られない、非常に便利な点もある。 それは、序数を問う疑問詞(wievielt)が存在することである。

例えば、「ジョー・バイデンはアメリカの何代目の大統領だっけ?」とドイツ語で問うてみよう。
 Der wievielte Prasident ist Joe Biden?
序数を問う疑問詞がない英語ではどんな風に問うのだろうか、 もし英語でスマートに問う方法をご存じの方がおられたら、そっと、教えて頂きたいものである。

同じような便利な例は、以下のように、枚挙にいとまがない。
 Der Wievielte ist heute? / Den Wievielten haben wir heute?
 (今日は何日だったっけ?)
 Zu wievielt wart ihr in Paris?
 (君たち何人でパリに行ったの?)
 Als Wievielter ist er durchs Ziel gegangen?
 (あいつは何番目にゴールインしたんだい?)
 In dem wievielten Stock wohnen Sie?
 (あなたは何階にお住まいですか?)

しかし、ここで油断できないこともある。ドイツ語には序数を問う疑問詞という便利な武器がある一方、深刻な性の悩みもあるのだ。
 Die wievielte Bundeskanzlerin ist Angela Merkel?
と訊かれれば、アデナウアー首相は第1番目の連邦首相であるから、メルケル首相は第8番目の首相と答えたいところだが、メルケル首相以前には “Bundeskanzlerin“はいないのだから、論理的には、第1代目と答えざるを得ないだろう。
メルケル首相の直前のシュレーダー首相の場合には、
 Der wievielte Bundeskanzler ist Gerhard Schroder?
の答は、第7代目で正解である。
では、メルケル首相の後継首相が
  男性ならば、つまり、“Bundeskanzler“ならば、その人は第8代目首相
  女性ならば、つまり、“Bundeskanzlerin“ならば、その人は第2代目首相
ということになるのだろうか?

「性」を逆手に取った屁理屈をこねると、上記のように、ややこしいことになるが、 勿論、実際には、次期首相が男性であれ、女性であれ、何の抵抗もなく 第9代目首相と呼ばれるに違いない。そうなると、Bundeskanzlerinという言葉の語尾に折角くっ付いている“-in“ が完全に無視されたことになり、女性軽視どころか女性の男性化という、 許すべからざる由々しい問題に発展しかねない。これは大変だ。 ドイツの人達が、この「性の悩み」にいかに論理的に折り合いをつけるか楽しみなところである。


3月例会「律令制と女性官僚」に参加して

会員 中沢 夏樹


神武陵に参る筆者

いくつか気の早い桜が満開となった3月最後の日曜日、大澤由美子さんによる標記講演に参加した。 そもそもこのようなタイトルで会員の方が講師となり、 ほぼ定員一杯の出席者があることで湘南日独協会の知的レベルも伺えようというものだ。 それなりの歴史好きを自認する私も初めて聞く話が多く、レジメには見たことのない用語が散見された。

何より最初の説明で、遣唐(隋)使の渡海ルートを意識したことが無いことに気づかされて脱帽。 その他、知っているようであいまいだった班田収授や式内社の意味が明確となったし、 天皇の後宮職員の人数とランクの話も興味を惹くものであった。 また采女に「端正」の条件があると慨嘆されるのを聞きながら、遣唐使の人選でも 「容姿、風采、態度、動作」の条件があったことを思い出した。 家柄や頭脳だけでは足りない訳で、 当時の政権が唐にどう立ち向かうかその力の入れようが分かって微笑ましい。 (なお唐側の記録にも日本からの使節のイケメン振りは記録があるという)

さて全くたまたまであるが講演の前日まで旅に出ていた。 その旅程は明日香、吉野、十津川、熊野、伊勢というもの。 多くの古寺、古社巡りでいよいよ身も心も清らかになった気がするがそれはともかく、 最初に訪れたのが高松塚古墳であった。 ここで見逃せないのが棺を取り囲むように描かれた古墳壁画で、 カラーで蘇った女性群像が特に有名である。 まさに律令時代の女性官僚のイメージそのものといえる。 (現在壁画現物は非公開)これ以外にも古代のやんごとなき女性の息吹は各所で感じられた。 例えば、近くを通った箸墓古墳は卑弥呼の墓かも知れないと話題になった。 五分咲きだったが十分桜を楽しめた吉野には、女帝の持統天皇が30回も訪れたと伝えられる。 そして旅の最後は女神アマテラスのおわす伊勢神宮で、日々の平穏を祈った。 ついでに言えば、ここ伊勢の地に神宮を定めたのも第11代垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ)であったとされる。

ところで明治維新といえば日本に近代をもたらした大変革。 明治時代に作られた社会システムは我々が生きる現代にも大きな影響を残している。 この維新のスローガンは「王政復古」であった。 従って明治2年に発足した新政府は律令制そのままに太政官政府と名付けられた。 20年ほど前、不祥事のため大蔵省が財務省と金融庁に分割された時、 「律令以来の由緒ある大蔵省という名前を無くすのか・・」との声が挙がったことを記憶している。

更に注目すべきことがある。律令制度は唐など大陸のシステムを模倣して作られた筈なのに、 トップの在り方は全く違う。大陸の皇帝は絶対専制君主なのに対し、 日本の天皇は政治の実権は貴族に委ねていた。 現代と同じ「象徴天皇制」から古代の歴史は始まっていたのだ。かくも歴史の連なりは深く、重い。 歴史の探求の楽しさには限りが無いといつも思う。

      
大澤 由美子氏                  配布資料の一部 戸籍



4月例会 ―『私の短歌生活』に思う―


会員 中村 茂子 氏

人の一生は儚く過ぎる。現在のコロナ感染状況において人と会う機会も少なくなると、 重なる日々はまるで滑るように一年という単位に集約されていく。
短歌を詠むことは、あわあわと消えゆく日々に歌でタグを付ける。 歌に詠まれた瞬間から、その日のその時は記憶の中で屹立し消えることがない。
大久保明氏の講演「私の短歌生活」を聴講し、そうしたことを強く感じた。

講演冒頭に紹介された子規の短歌「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」は、 大久保氏が小学生の時、青竹細工で柱掛けを作った記憶に結びつく。 青々と瑞々しい青竹の色彩に、子規のこの歌の美しさが呼応し強く印象に残ったという。 大久保氏がこの歌を講演の最初に取り上げたのには大きな意味がある。 近代短歌は子規の『歌よみに与ふる書』によって、それまで大事にされてきた古今集を否定し、 万葉集や源実朝を賛美することに端を発した。 子規はこの歌論の終わりを「自己が美と感じたる趣味を成るべく 善く分かるやうに現すのが本来の主意に御座候」と結んでいる。 まさに万葉集を披けば千年以上の時を経て当時の人々の喜び悲しみが立ちのぼってくる。 歌に詠まれた風景、情感は長い時を経ても風化することがない。 大久保氏が実践しておられる「短歌生活」は、日々の暮らしを慈しみ生きることに通じる。

講演では美智子上皇后の御歌、歌会始の歌、新聞掲載の歌壇なども紹介されたが、 私にとって何よりも興味深いのは講演者、大久保氏の短歌であった。
「やわやわと揺れる柳のほそき葉の水に届けるその時を待つ」 これは目の治療で通っていた大学病院のある駅での風景。柳の枝先の葉が下の水に届くか届かないか、 その様を見つめている歌であるが、詠まれたのが病院の最寄り駅と知れば、 じっと眺めるその時の詠者の心持までも感じられ、その様子が目に浮かぶ。

「母の死を告ぐる電話の受話器には井戸の深きに水の湧く音」  母の死の知らせの電話の受話器で水の湧く音を聞いたようだが定かではない。 むしろこの水の音は大久保氏の心に鳴った音であったか。 ここからのご母堂挽歌三首は必ずや読む者の心をうつ。 同様に亡き父上の生前の様子が偲ばれる 「おりおりに妻の書きたる絵葉書が父の文箱に仕舞われてあり」も胸に迫る。 「山の影ゆっくりと伸び釣り舟はくじらの口に入るごとく消ゆ」 「方丈の丸窓越しに矢飛白(やがすり)の衣一枚花菖蒲見ゆ」は、 いずれも表現の妙。 「飢えもまた郷愁となりぬ水無月の垣根に茱萸(ぐみ)のあかあかと照る」赤い茱萸の手触りと味を思い共感する。

大久保氏は歌を詠むに際しての注意点を六つあげた。 曰く、事柄に徹すべし、事柄に溺れるなかれ、言わずして語るべし、他人の目から見るべし、 気品を保つべし、三日後に読み返すべし。いずれも納得がいく。 氏は作った歌を30回は読み返すという。こうしてできた歌は、 再読すれば20年30年と時を経ても当時の生活や情感が湧き出てくるという。

私は父がアララギ歌人であったので、幼い頃から短歌はいつも身近にあった。齋藤茂吉『赤光』の歌のいくつかは折にふれ口をついてでる。
大久保明氏のお話に、「短歌生活」大いに見習うべし、と感じた。


講演会場


休憩時間の会場風景


ドイツ 野鳥の思い出

会員 島 新


Melibocus山にてY―クラブの山歩き(中央が筆者)

フランクフルトの北方20キロ、車で20分ほどの所に、「バートホンブルク」という人口5万ほどの美しい町がある。 大邸宅が多い高級住宅地でもあり、温泉もある。
1888年には、皇帝ヴィルヘルム2世が夏の宮廷都市としたことでも知られていて、かつてはヨーロッパ中の貴族が集まる場所でもあった。
町の中心には、大きな公園があり、公園の中には、温泉や、 ショートホールだけだがドイツ最古のゴルフクラブがあり、モンテカルロよりも早く出来たカジノがある。 公園前や目抜き通りなどには、ホテル、レストラン、商店、スーパー、デパートなどがあり、 自然に囲まれた美しくて住みやすい町であった。ここに、2001年から6年間ほど住んだ。事務所も近くにあった。

バートホンブルクは、その「高地(Hohe)の前にあるバートホンブルク」(Bad Homburg vor der Hohe)という名の通りタウナスの山の麓にあり、 自然に恵まれていて、何よりの特色は、様々な野鳥が訪れることである。

駐在赴任して住み始めて間もないある日、 フランクフルト方面からアウトバーン5号線で帰ってきた時のことである。 5号線から、アウトバーン661号線に入り、すぐにバートホンブルクへの出口に入る。 周りには農地が広がっている。出口の道は、緩く右にカーブを切り、両側には低い灌木が連なっている。 出口なので、スピードは落としたが、それでもまだ時速50から60キロはでていたと思う。 そのとき、一羽の鳥が右の灌木から、私の車の前を横切り、左の灌木へ飛んで行った。 一瞬だったが、羽根の裏の鮮やかな青色が目に入った。 なぜか「あっ、カケスだ!」と思った。アパートに帰って図鑑を調べてみると、やはりカケス(Eichelhäher)で間違いない。 カケスは、子供の頃住んでいた箱根仙石原俵石で、空気銃で撃たれたカケスを見て以来である。50数年ぶりに見るカケスであった。


カケス(Eichelhaher)

その後、アパートの庭の木にやってきたカケスを見、さらに、近所を散歩していても見かけた。 日本で一度しか見ていないカケスを、50数年ぶりにドイツで三度も見たのは、今考えても、なんとも不思議な思いがする。

アパートには広い庭があり、リンゴ、プルーン、タンネンバウムなどの木々が植わっている。 緑に覆われた地面には、時々リスのカップルが遊び回っていたが、常時様々な野鳥がやって来た。 春夏はクロウタドリ(Amsel)と思われるカップルである。 良く通るきれいな声でさえずる。庭を走り回ったり、飛び回ったりして、愛嬌のある目で、こちらの気を引こうとする。

プルーンの木には、アカゲラ(Buntspecht)もやって来る。 リビングのソファに座っていた時のこと。テラスのレースのカーテンに陽が当たっていて、 何かちらっと鳥の横切る影が一瞬映った。影の大きさから、少し大形の鳥らしい。 カーテンの陰からそうっとのぞいてみると、テラス越し10メートルほど先のプルーンの太い幹に、 頭に赤く丸いマークを付けたアカゲラが止まっていた。 木の周りの表面を盛んにつついていて、しばらくすると飛んで行ってしまった。 野鳥観察ノートを見てみると、1ヶ月後にも、同じ木にやって来ている。

アパートのテラスに、小鳥の餌場を作ってみた。丸いテーブルの上に餌入れと、 水を入れた浅いボールを置き、小鳥が天敵から身を隠して安心して餌をついばめるように、 小さな鉢植えの木を置いた。ここには、シジュウカラ(Kohlmeise)、コジュウカラ(Kleiber)、 ウソ(Gimpel)など多くの小鳥がやってきた。 体の大きな鳩も来ることがあって、体の小さな小鳥たちは皆追い出されてしまう。 だが、繁盛したテラスの餌場も、その後の鳥インフルエンザの問題が起こってからは、やむなく片付けて休業とせざるを得なかった。

駐在生活も1年をすぎた2002年10月のある日のことであった。 アパートの駐車場から幅4, 5メートル、長さ20メートルほどの私道を通って、 通りに出ようとした時である。ドライブウェイの真ん中に、大鷹がいるのに気づいて思わず車を止めた。 4, 5メートルほどしか離れていない。獲物の鳩を太い両足でぐいとつかみ、 「これは、俺の獲物だぞ!」と言わんばかりに、金色の目と黒い鋭い瞳でこちらをにらんでいた。 あまりに神々しい姿に見せられ、しばし見とれていたが、 獲物を置いたままスッと飛んで行ってしまった。 鷹は獲物を取りに戻ってくることはないという。せっかくのごちそうだったのに、かわいそうなことをしてしまったと、 この光景を思い出すたびに悔やまれた。

カササギ(Elster)も多く見られた。見た目は、 ハシボソガラスを白と黒のブチにしたような鳥である。 アウトバーンの出口あたりの高い梢に巣を作っていたのをよく見かけた。 日本では、なかなか見かけないが、以前に一度、九州の佐賀県で見かけたことがある。 図鑑で調べると、日本では、佐賀、福岡、長崎、熊本の4県だけに生息しているという。

「Yクラブ」という会の存在を知り、参加出来たのも、週末と言えばゴルフだけという楽しみしか知らなかった駐在生活に大きな彩りが得られた。
フランクフルトに日本企業や、日本人を主要な顧客として営業していたW社という旅行社があって、 「Yクラブ」は、そこの2人の共同経営者の1人であるYさんが主催する山歩きの会であった。

Yクラブの活動は、月に一度である。 参加者は、フランクフルトの市街の外れにあるYさんのアパートの前に、 数人から10人くらいが自分の車で集まる。数台の車に分乗して、 1、2時間ほどアウトバーンを走り、目的地に着く。山の麓に車を駐車して山を歩き、 下山してレストランで昼食を楽しむ。ワイナリーでワインを試飲して、気に入ったワインを買って帰る。 というのが典型的なパターンであった。良く出かけたところは、 フランクフルトからアウトバーン5号線を南に1時間弱ほど行ったところにあるベンスハイム(Bensheim)界隈である。 5号線の東側に小高い山々が南北に数十キロに渡り連なっている。 その中に、メリーボックス(Melibocus)という標高500メートルほどの山があり、 その中腹の駐車場に車を止め、頂上まで登った。

ある年の11月、寒い時である。ここでみたものは、シジュウカラ(Kohlmeise), オナガ(Schwanzmeise), 頭の青いシジュウカラ(Blaumeise)であった。キツツキの巣穴もいくつか見かけた。
この「Yクラブ」で、ドイツ人の野鳥観察グループに合流し、 そのリーダーの案内で、野鳥観察に出かけたことがある。 2006年5月の事であった。 フランクフルトから北方50キロほど行ったところにあるフローシュタット(Florstadt)の自然保護地区での野鳥観察である。


Florstadtの自然保護地区の野鳥観察小屋


この時の野鳥観察ノートを見ると日本でよく見るトビ(Schwarzmilan)、 種類の違うやや赤みを帯びたトビ(Rotmilan)、オオジュリン(Rohrammer)など、 合計30種類ほどの野鳥を観察している。 ドイツ人のリーダーは、遙か上空を飛んでいる何種類かの鷹を、「あれはチョウヒ(Rohrweihe)、あれはチョウゲンボウ(Turmfalke)」 と見分けるのを見て、すごいなあと感じた覚えがある。日焼けしてたくましく締まった顔の背の高い人であった。 その後、ゴルフ場でホーバリングしている小型の鷹などを見かけると、「あれはチョウヒだな」とわかるようになった。

今現在、住んでいる西鎌倉の我が家の近くには、広大な鎌倉広町緑地公園が広がっている。 公園に隣接して鎌倉山の自然もある。散歩をしていると、様々な野鳥に出くわす。ジョウビタキ、ヒヨドリ、 ハクセキレイ、キセキレイなどである。あるいは、姿はなかなか見られないが、見事にさえずっているウグイスや、 遠くから聞こえてくるホトトギスの鳴き声も盛んである。

シジュウカラもよく見かける。ドイツで目にしたシジュウカラも、日本と同じように下から見ると、 白いワイシャツに黒いネクタイをしているようだが、何か少し違って見え、 鳴き声も日本でなじんだものとは少し違っていた。 学名から調べても同じ種の鳥である。だが、上や脇から見たときの暗緑色の羽色が、ドイツの方がやや鮮やかに思われた。

先日、このいつものルートを散歩していたときのこと、コジュケイの親子連れに出くわした。 すぐに藪の中に隠れてしまったが、数羽の子供連れの一行は、なんともかわいらしい。 いつもは、この鳥の「チョットコイ、チョットコイ」と早朝、近所でけたたましく鳴く声に、 春の浅い眠りを起こされるのだが、この子連れの一行の愛くるしさに魅せられて、 (いつ鳴いても、いいよおぉぉ)と思った。

そのようなある日、散歩の途中の公園で、家内とベンチの日だまりに腰掛けて休んでいると、 「トントントントントトトトーン……」と、どこからともなくキツツキが木をつつく ドラミングの音が聞こえてきた。このあたりには、キツツキと言えば、 小柄なコゲラしかいないと思うのだが、それにしては割合大きな、良く通る音であった。
――(ドイツでも同じような音が聞こえてきたなあ。)

ドイツで、ゴルフのプレイの途中、ベンチに腰掛け、春先の柔らかな日差しを浴びながら、 一人遠くを眺めながら休んでいると、どこからともなく遠くから、 キツツキのドラミングの音が聞こえてきたゴルフ場での情景が、つい昨日のことのように蘇ってきた。


ご挨拶

      湘南日独協会会長 松野 義明

1861年1月24日に日本とドイツ、当時のプロイセンとの間に「修好通商条約」が締結されてから、 今年で160年を迎えることになります。この1年を両国友好の記念の年として、 様々な行事や事業を通じて、両国が共有する歴史を振り返りながら、未来に目を向け、 両国に共通な今後の課題の抽出や両国の今後の協力の可能性について考え、 皆様と御一緒に、今までより深く、質の高い文化交流を展開していくことを念じております。 当協会としては、特に若者層の交流を中心として、両国の文化の底を流れる価値観を共有しつつ、 生産的な活動を続けていきたいと念じております。

ガウス・デンクマール訪問記

突然、私事で恐縮ですが、私は小学校の頃、算数が大嫌いでしたが、中学・高校ではなぜか数学に惹かれ、 とうとう大学では(後に、私の数学の才能不足ゆえ、物理学に転向はしたものの)専門的に数学を勉強する羽目になってしまいました。 数学科の講義やゼミに出席していると、ガウスの整数論、ガウスの定理、ガウス積分、 ガウス級数、ガウス分布など、ガウスという名前の付いた言葉が耳から怒涛のように入ってきました。 知らない間に、この人がドイツのブラウンシュワイグ出身であることも頭の片隅に入っていました。

それから六十数年後、友人と二人で、バッハの足跡を辿るドイツ旅行に出かけた時、 ついでに、ブラウンシュヴァイクを訪ねずにはいられませんでした。1777年にこの町に生まれ、 日本とドイツが親しく交流を始めるほんの少し前(1855)に天寿を全うしたドイツの天才的数学者 カール・ヨハン・フリードリッヒ・ガウスの銅像を一目見たかったからです。 没後160年以上たった今でも、世界中の数学や物理学の学徒で、この名前を耳にしたことのない人はおそらく一人もいないでしょう。

銅像は町の中の大きな公園の一角にあるとのことでしたがなかなか見つかりませんでした。 一人の青年が犬と一緒に散歩していたので、銅像がある場所を訊ねてみました。 丁寧に教えてくれましたが、不思議そうに、あの銅像をわざわざ見に来る観光客は滅多にいないのに、 あなたは一体どこからいらっしゃったのですか?というので、 日本からです…とお答えしたら、そんなに遠くから…と大変驚いた様子でした。 お礼を言って、その場はお別れしました。教わった通りに歩いていくと間もなく 目的の銅像を見つけることができました。大変美しく、堂々たるデンクマールでした。 感慨深くその銅像を眺めていたら、しばらくして、先ほどの青年が、今度は犬を連れずに、 走って現れました。恐らく急いで家に帰って、犬を家において、再び、出てきてくれたのでしょう。 片手に一枚の紙を持っていました。我々の町の誇りであるガウスが日本でもよく知られていると聞いて、 とても嬉しいのです。この銅像を撮った古い写真があったので持ってきました。 ぜひ、記念にもって帰ってください…というのです。私はその青年の温かい心を有難く頂いて、帰りました。 写真に写っている女性の服装とガウスの没年から考えると、1800年代の終わりから1900年代初めの写真で当時、 カラーフィルムはまだありませんので、白黒写真に後から着色したものでしょう、 恐らく観光客用に販売されていたものと想像されます。この町の中には、この銅像以外に、ガウスが生まれた家、 住んでいた家など数か所に、記念の言葉が刻み込まれた分厚い石板が嵌め込まれていました。 知的文化が市民に染みわたり、その文化を創造した人間への愛情を大切に保ち続ける文化― これがドイツの文化なのだなあ…としみじみ思いました。 ドイツ人であれ、日本人であれ、一人一人の人間の中にはそれぞれの文化があります。 この文化は波動現象のようなもので、条件が合えば、国籍を問わず、 時空を超えて共鳴現象が起こるのだなあとつくづく思わされる楽しい思い出です。


2021年度の活動計画

副会長 勝亦 正安   

昨年、新型コロナヴィールスに因り当協会も大きな影響を受け、多くの活動が延期、乃至中止となりました。 一旦再開された活動も、昨年末から本年初に掛けて再び、感染が急拡大し、中断しました。 1月に2月7日期限の緊急事態宣言が発出され、その後、3月7日まで延長されています。 この為、本年1月復活予定であったドイツ大使館首席公使Dr.フィーツエ氏講演会「壁崩壊後のドイツ30年」は 再度延期せざるを得ず、2月末開催予定の会員大澤由美子氏講演会「律令制と女性官僚」も 3月に延期されることとなりました。このところ、全国的に感染者数は減少傾向にあり、 また、日本でも医療関係者向けに2月ワクチンの接種が始まりました。 こうした状況下、本年度の例会は、先ずは4月会員大久保明氏講演会を皮切りに、 5月科学技術振興機構 研究主幹 永野博氏、 7月ドイツ大使館首席公使Dr.フィーツエ氏復活の講演会、 7月ピアニストである会員高橋愉紀氏、 9月明治大学教授メンクハウス氏、 10月オクトーバーフェスト、 11月会員西山忠壬氏、 等々、 興味深い、皆様に楽しんで頂ける行事を計画しています。

また、ドイツ語講習会また、ドイツ語講習会は来期オンライン方式で開講予定、 読書会は3月から再開、また、中断中の談話室SASも再開を検討しています。 然しながら、コロナの今後の動向を正確に予想することは困難であり、 先に申し上げた予定や計画の急な変更があり得ることをご理解頂ければ幸いです。 計画の詳細は四半期毎発行の会報で、万一の急な変更は、Eメール、ホームページ、 電話等によりお知らせします。

終りに、協会としては、コロナ対策に意を尽くしますが、 皆様も参加に際してはマスク着用等に十分にご留意頂ければ有難く存じます。 皆様のご健康と安全を切に願っております。


盲導犬育成ボランティア

会員 田中 幹夫

盲導犬育成のお手伝いを始めてから、気が付けば28年になります。

きっかけは子供が小学校高学年になり生き物の世話をさせたいと考えていた頃、 知人から盲導犬のパピーウォーカーの話を聞き、早速、 家族で訓練所に見学に行ったことからです。当時の訓練所は茅ケ崎にありました。 古い一軒家がそれでした。そこで訓練中の盲導犬やPR犬達とふれあい、 アイマスクをして盲導犬と街を歩く体験もしました。 そして家族が協力して出来る範囲で盲導犬育成のお手伝いを始めることになりました。

盲導犬育成ボランティアには主に三つあります。 第一は「パピーウォーカー」、第二は「繁殖犬飼育」、第三は「退役犬飼育」です。 一番目は生後2カ月の仔犬を約一年間、家庭で人からの愛情をたっぷり受けて育てるもので、 テレビなどでご覧になった方も多いと思います。 二番目は盲導犬に適した性質の仔犬を繁殖する親犬を飼育するもの。 三番目は盲導犬のお役目を果たした老犬の余生をみてあげるものです。 関心がお有りでしたら日本盲導犬協会のホームページをご覧になってみてください。
  日本盲導犬協会のホームページ

日本の盲導犬の犬種は草創期にはシェパードもいたそうですが、 今はラブラドールレトリバーやゴールデンレトリバーです。どちらも賢く、 人の言うことを理解し、人の動きを予測する能力もあります。無駄吠えはしません、 また排泄の躾もしっかりできます。もちろん家の中で一緒に暮らします。

さて28年前、初めて家に来たのは三歳のラブラドール。雌の繁殖犬でした。 体重は25sありました。とても穏やかな母性本能の持ち主で、常にうちの子供達を見守ってくれました。

産まれた仔犬の多くが盲導犬になりました。十二歳半ばで家族全員が見守る中、 息を引き取りましたが子供達にとっては死に接する良い経験になったと思います。 次に来たのは生後2か月のゴールデンレトリバー。 パピーウォーカーをやりました。 この子はお茶目すぎて残念ながら盲導犬訓練で合格出来ませんでしたが、 十三歳で亡くなるまでうちで暮らすことになりました。そして今、 うちにいるのは三歳の雌のラブラドールです。昨年、初産で七頭の仔犬を産みました。

この先もこの子と共にずっと暮らして行けるためには、 コロナなんかに罹ってなんかいられません。朝夕の各5qの散歩をしてやるには、 まずこちらの体力維持が必要だからです。


初産で7頭産まれました


産まれた仔犬たちです


アドミラル山梨の軌跡


会員 藤野 満

「仮面の告白」の中に
三島由紀夫の自叙伝的小説「仮面の告白」に、彼が学習院高等科を首席で卒業し、 校長の老海軍大将と御礼言上に宮中へ行った車中での会話がある。 三島が特別幹部候補生を志願せずに一兵卒として応召する決心を非難して老提督は言う。 「列兵の生活には耐へられまい。しかし、志願の期日もすぎてしまったし、 いまさら仕方がない。これも君のデステネィだよ」彼は宿命といふ英語を明治風に発音した。
この老校長こそ海軍大将山梨勝之進(1877-1967)“アドミラル山梨”である。 (以下敬称を省略、山梨とさせて頂く)。
私は東京の学生生活を県人寮で過ごした。その舎監が山梨である。

海軍史を紡ぐ
山梨を知る人はもはや少ない。しかし彼は日本の海軍史を紡ぎだした人物であり、 海軍を去った後も立派な足跡を残している。

学習院で山梨の教え子であった橋口収氏(大蔵省、公取委員長など)は、 山梨の講話集「歴史と名将」」(毎日新聞社刊)の序文で 「山梨はいわゆる一介の武弁でなく戦史家であり高度の教養人である」と述べている。 これは見事に人間山梨の本質を言い当てている。

山梨は仙台藩士文之進の長男として仙台で生まれた。 13歳でキリスト教系の東華学校(校長が新島襄)に入り、 英語を身につけキリスト教をも深く理解した。 維新後、佐幕派の藩士の子弟はいかに俊秀といえども新政府に入る王道は絶たれ、 軍人か学者になるしかなかった。山梨は1895年海軍兵学校に進み2番の成績で卒業し、 海軍のエリートとして累進する。

日本の海軍史上山梨が深く関わった二つのことを書きたい。

1つは、日本海海戦(1905年)の旗艦「三笠」についてである。 当時、日本はロシアの南下政策を防ぐため艦隊の強化が必須であり戦艦をイギリスに発注した。 1900年山梨は駐英武官としてロンドンに赴任し、軍艦の建造監督をつとめ、 2年後に横須賀に回航する責任者となった。日露開戦の2年前である。 この戦艦「三笠」は山梨にとって愛し子のようなものであった。

もう1つは1930年のロンドン軍縮会議である。 米英は日本の海軍力増強を抑えようとし交渉は著しく難航した。 山梨は海軍次官(中将)であったが、財部海相が全権でロンドンに出張のため 実質的に海軍の最高責任者であった。軍縮をめぐり日本側は強硬派(艦隊派)と 国際協調派(条約派)が激突した。山梨(条約派)は会議の決裂を回避すべく 日本側の取りまとめに心血を注いだ。山梨は日米の妥協案をのむよう何とか政府をまとめ、 自ら起案して全権に発信した。これについて山梨は「私の血を吐くような電報であった」と後日自著のなかで述懐している。

軍縮会議は決裂を免れ条約は成立した。浜口内閣の最大の公約「国際協調」と「軍縮財政(建艦競争防止)は一応確保された。

しかし山梨の努力は報いられなかった。条約不満派の反発が強まり山梨は次官を辞任し、 1933年には予備役となった。ロンドン会議をめぐる海軍の分断は、 合理主義を伝統とする海軍にとって悲劇的な転回点となった。 日本は国際協調路線を失い(1936年にはロンドン条約から脱退)、国家主義、軍国主義に突っ込むことになる。

その後の山梨について長男・進一氏(数学者、故人)は記している。 「父は海軍を退職し読書と庭仕事の生活が始まった。シェークスピア、ロングフェローを好んだ。 ジュリアスシーザーの1節”There is a tide in the affairs of men” (人事には潮時というものがあって、ただ努力したからといって必ずしもうまく行くとは限らない) という句は父の人生観の1つであった」。

山本五十六は現役を離れた山梨に依然兄事していた。 山本が真珠湾攻撃の任務について自分の苦衷の心境を語った際に、山梨は 「それはデステネィなので仕方があるまい」と語った―とヴァイニング夫人は書いている。

学習院の存亡
1939年、山梨は学習院長に就任し翌年皇太子(現上皇)の就学を迎えた。 1946年迄の在任は第2次大戦の開戦、終戦という激動の中にあった。 更に、敗戦後学習院は存亡の危機に立たされたが、 山梨はGHQと粘り強く交渉を続け学習院を私立学校とすることによって難局を乗り越えた。 これは学習院史上特筆大書に値する。

この間、「天皇人間宣言(1946年)の起草にも参加している。 「天皇が自分は神ではないと宣言するアイデアは山梨が考え出した(法政大学・袖井林二郎教授)」ものである。

これらに加え、1946年にヴァイニング夫人(1902-1999)が 皇太子の家庭教師・学習院の英語教師として来日した。 この招聘は山梨の卓見、人柄と並々ならぬ尽力があって実現したものである。

山梨の学習院時代の活躍は、その教養、力量と人間性があって成功したと言える。 1946年山梨は学習院を去った。後任は元一高校長・文部大臣の安倍能成である。

1964年、学習院は山梨に「名誉院長」の称号を贈呈した。

仙台育英会五城寮舎監と晩年
五城寮は宮城県出身者の東京の学生寮であった。明治維新後、 仙台藩の有志が薩長勢力に対抗できる人材を育成する目的で結集、 その寄宿舎が五城寮である。五城は仙台の古い雅称である。 1951年に品川区大井町にある仙台藩下屋敷跡地の一部を東京都から借り新宿舎が建設された。 同年、山梨は郷党の切望を受けて舎監に就任した。

私は1950年代の4年間をここで生活した。いわば私の“青春の道場”である。 「仮面の告白」の老校長が山梨舎監であることを知りそのことを尋ねると 「ああ平岡公威のことか。頭はすごくいいがあれこれ理屈を言ってねー」と応じただけであった。

山梨夫妻は寮舎に続く質素な平屋に住んでいた。慈父のような山梨と寮生は起居を共にし、 その謦咳に接していた。私にはここで得た教訓が伏流水のように生涯を貫いて流れている。

栄光の老提督はヴァイニング夫人のこととなると楽しそうに語る。「家庭教師のもう一人の候補は未婚のハワイ大学の教授だった。 若くすばらしい美人だった。しかし私は熟考して44歳の敬虔なクウェーカー教徒のヴァイニングさんを選んだ。 陛下も私の直言をお受け下さった」と目を細める。山梨は彼女に「運命が銀の杖で引き寄せた」と語ったと夫人は書きとめている。

リップマン(1889-1974)のこと。ある日、私は先生に呼ばれ英字新聞のコラムを渡された。 「リップマンのものだ。彼はユダヤ系移民の3世でハーバードでは希代の秀才だった。 第1次大戦の戦場経験もある。今世紀最高の外交評論家だろう。 覚えておけ」―リップマンを知ったこのひとときは忘れられない。

私は2017年に「ポスト・トゥルースとメディア」という小稿を書いた。 ソーシャルメディアが氾濫し、事実・真実の報道が軽視されるメディアの現状について述べた。 資料を読むと随所に政治学者やジャーナリストがリップマンを引合いに出して論じている。 私は数10年前の山梨のことを想い出した。そしてリップマンに早くから瞠目していた山梨の慧眼に改めて驚嘆した。

1958年、山梨は舎監を辞任した。海上自衛隊幹部学校での講話と旗艦「三笠」の復元が彼の人生の最終章となった。 1967年山梨は90才の生涯を終えた。

五城寮は1984年に閉寮した。敷地は東京都に返還され、いまは品川区大井公園になっている。 2006年、五城寮有志はここに記念碑を建てた。 “仙台藩下屋敷・仙台育英会五城寮跡”の碑銘と山梨ら先人への謝辞を刻んだ。

また、「三笠」の1室にはアドミラル山梨の胸像が飾られている。

山梨は卓絶したストラティジストである。そしてその「運命論」には虚無のかげりは無かった。
                                    (2021年2月記)

    
海軍大佐時代の山梨氏       山梨勝之進氏
   大正5年撮影           明治10年〜昭和42年


ドイツの外交政策
ハンブルクケルバー財団が行った2019年実施のアンケート調査結果から一部報告(その1)

田中 満穂

ハンブルクにあるケルバー財団は1956年に設立され、公共的利益の調査・研究を続けている組織です。 今回は2019年に行われたアンケート調査からドイツの外交政策に対する一般ドイツ人の視点に関するアンケート調査結果を一部抜粋して紹介します。

まず最初の質問「ドイツは来るべき国差的危機に対してより強く関わるべきか、それとも現状よりさらに後退すべきか?」


2019年結果:むしろ後退すべき49%、より強く関わるべき43%、分からない5%、無回答3%
2018年結果:むしろ後退すべき55%、より強く関わるべき41%、分からない3%、1%。

つぎに「現在のドイツ外交にとって何が一番火急な問題か?」:


2019年:気候と環境31%、難民と移民26%、アメリカ/トランプとの関係23%、 中近東紛争16%、BREXIT/英国との関係9%
2018年:気候と環境5%、難民と移民30%、アメリカ/トランプとの関係28%、中近東紛争21%、BREIXT/英国との関係6%

つぎに、「国際的緊張状況の観点からドイツの現状をどうみるか?」


2019年結果:非常に安全14%、まあ安全62%、むしろ危険18%、非常に危険4%、分からない/無回答それぞれ1%

「ドイツの西側諸国並びにその価値観世界への帰属に賛成か、それともそれに属さない中立の立ち位置に賛成か?」


2019年結果:西側への帰属賛成55%、他国又は価値観を同じくする共同体にもっと近い関係を持つべき7%、 ドイツの外交的中立に賛成31%、分からない6%、無回答2%

「ドイツにとって現在どの国がドイツ外交政策で一番/二番目に重要なパートナーか?」


2019年結果:フランス60%、USA42%、中国15%、ロシア12%、英国7%
2018年結果:フランス61%、USA35%、中国12%、ロシア17%、英国6%

今回は紙面の関係でここまで。今後、日本にも関わるもっと興味深い調査結果が出てきます。
お楽しみに!


西洋音楽における言語訳の重要性と演奏について(その2)
演奏家としての音楽の再現について



会員 高橋 愉紀

30年間滞在したウィーンで、私は2人の芸術家に教えを受けた。 ウィーン3羽ガラスと言われていたパウル・バドラ―スコダ氏と、 ウィーンに亡命したロシア人のオレグ・マイセンベルク氏である。

スコダ先生は、楽譜の校正などにも力をいれていたので、 レッスンで生徒の楽譜に書き込むことが多く、”各自それを見て練習するように”と言われる事が度々あった。 それをもとに、練習を続けていると、不思議とその作曲家の響きが現れてくる。 長年楽譜を研究、分析していた彼だからこそ、生徒には的を得た注意書きができたのではないだろうか。 音楽学者としても有名であった彼の元で勉強出来たことは、私にとって名誉な事であった。 ウィーン国立音楽大学を卒業し、今度は亡命ロシア人のオレグ・マイセンベルク氏に師事した。

シュトットガルト国立音大のマスタ―クラスで、ドイツ演奏家国家試験を受けるまでの7年間、 みっちりと勉強した。彼のレッスンは、どういう方向を目指して練習しているかを見定めてくれて、 方向性のないただ指だけで弾いている演奏には、評価は厳しかった。

1981年にウィーンに亡命してきた彼にとって、演奏活動が第1であったため、 実際の彼のステージ上での演奏を通して、学んだものが多かった。 そして、2人の教授の音楽のメソード、目指している音楽の方向は全く違っていたが、 ひたすら作曲家に尊敬のまなざしを捧げる姿勢は、同じであった。

さて、演奏の定義は、音楽家によって異なるが、私にとってはひとえに音楽の再現である。 作曲家の意図をくみ取り、彼の表現したかった世界を、なるべく忠実に再現していく事である。

演奏会場では、作曲家と演奏家と聴衆の三位一体の構図をとり、 その音楽を改めて堪能するのである。 作曲家の意図を忠実に再現する事が音楽家の使命であるから、コンサートの前の準備は大変である。 とにかく曲を書いたほとんどの人は存命していないので、ここはどういう風に弾くべきか? とは聞けないのだ。ひたすら、彼の他の作品を研究し、また彼の年表を調べて解釈しなければならないのである。

現代では、人工知能なるものが画期的に人々に受け入れられ、 何でもできると思っている人が多い。しかし、私は芸術の世界だけは、 絶対にテクノロジーが入り込めない世界であると、信じている。 なぜなら、豊かで、細やかで、微妙に入り組んだ感情をもつ人間だけが、 知識や重ねられた研究のもとに、作曲家の感情をくみ取り、その音楽を再現できるからである。 また、解釈の自由を唱える音楽家も沢山いるのであるが、私はこの意見に反対である。 作曲家の頭の中に浮かんだ音は、唯一の音色を持った音であり、それを再現してほしくて、 楽譜には細かく指示を書いているからである。まだ録音などなかった時代には、 楽譜が彼らの意思を後世に伝える唯一の手段であった。

確かに現代では、楽器の大きさやコンサート会場の規模も、昔より考えられないほど巨大になっており、 当時の響きを再現することは、かなり難しくなっていると言えよう。 それでも、演奏者たるもの、作曲家の意図している事を再現し、 聴衆はその演奏を通して、彼の世界を体験し、感動するのである。 私にとっての演奏とは、このような構図である。

       
パドラースコダ氏              マイセンベルク氏  



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